名もなき調査官、異世界で事件簿はじめました
その夜、朝霧隼人は容疑者を追っていた。
都内で続く連続誘拐事件。監視カメラの映像に写り込んでいた“鏡のような装置”が現場に置かれていることから、捜査本部はオカルトじみた可能性まで視野に入れていた。
その装置に、隼人が手を触れたのは偶然だった。いや、偶然のような、必然のような――その鏡面がまるで“誰か”を選ぶように光を放ったのを、彼は忘れられなかった。
次の瞬間、意識が引き裂かれた。
冷たい――そう、まず感じたのは水の感触だった。背中が濡れている。石畳のような硬さと、体温を奪うような冷たさが肌を這う。息を吸おうとした瞬間、空気が粘ついているのに気づき、隼人は慌てて上体を起こした。
濃霧が立ち込める夜の街だった。街灯のようなものは見えず、空すらぼんやりとした灰色に染まっている。音が、ない。遠くで風が鳴っているような気もしたが、それは風の音というより、何かが泣いているようにも思えた。
「……ここは……?」
日本語で発した自分の声が、やけに大きく響く。反射的に身をすくめると、どこからかカラカラと音がして、小さなシルエットが視界に滑り込んできた。
「おまえ、声を出したな?」
かすれた、しかしはっきりとした日本語。だが、目の前にいたのは老婆だった。腰を曲げ、顔の半分は布で覆われている。手にはランタンのようなものを持ち、その光だけがこの街で唯一の色彩だった。
「しゃべるな。名を呼ぶな。ここは――ロアグレイだ」
その言葉に、背筋が冷たくなった。
ロアグレイ。聞いたこともない名前だ。だが、直感で分かる。“そこ”は、この世のどこにもない。老婆は足早に立ち去ると、細い路地の奥で姿を消した。
隼人は立ち上がり、体を確認する。所持品はない。制服ではなく、簡素な布地の服に着替えさせられている。胸元のポケットには一枚の紙切れがあった。
《記録官補、ロアグレイ事務局》
《名を語らず、声を抑えよ》
紙は、まるで書類のようだった。彼は何者かに“登録”されている。――それも、名も告げぬままに。
濃霧の中を歩き、曲がりくねった道を何度も進むうち、古びた木造建築に辿り着いた。市庁舎、とでも呼ぶべき建物の扉を叩くと、中から背の高い男が出てきた。
「記録官補か。お前か。……名前は?」
問われ、答えようとして――口が固まった。言ってはいけない、と心が叫んでいた。
男はゆっくりうなずいた。
「言えないか。ならば、お前は“シロ”だ。仮名だ。記録官補として、お前に最初の任務を与える」
そして男は、淡々と言った。
「一人、また消えた。仮名は“ヒュグ”――昨日まではこの街にいた。家も、記録も、ある。しかし誰も“彼”を思い出せない。お前だけが、この名を聞いている。それは、お前が“外”から来た証拠だ」
ヒュグ?その名前に、微かな違和感が残る。だが自分は“外の人間”である。だからこそこの街で唯一ヒュグの存在を覚えていられるのは、彼しかいないということなのか。
男は懐から一冊の黒い手帳を出し、無造作に投げてよこした。
「記録せよ。追え。――声なき者たちの、影を」
“記録官補”として割り当てられた部屋は、市庁舎の裏手にある二階建ての建物の二階だった。ベッドは硬く、布団は重く湿っていた。外の霧は夜になっても晴れる気配を見せず、窓には絶えず水滴が流れている。まるでこの街そのものが、永遠に沈もうとしているかのようだ。
朝霧隼人――いや、仮名として“シロ”と名乗ることになった彼は、眠れないまま朝を迎えた。朝日も昇らない灰色の朝、扉が無遠慮に叩かれた。
「起きてるか、記録官。こっちに来い。連れていきたい奴らがいる」
ドアを開けた瞬間、寒気と共に、獣のような目をした男が立っていた。
「サルムだ。妹を探してる。お前の顔を見て、話すかどうか決める」
乱暴に腕を掴まれ、そのまま引きずられるようにして連れていかれた先は、広場に面した小さな家だった。そこには三人の人物が待っていた。
一人目は、長身で銀髪の女。装束は軽戦闘用の革鎧、腰には短剣を二本。彼女の名はエリシア――無口な元密偵で、鋭い眼光を隼人に向ける。
「外の者、ね。怪しい動きはすぐに切るわよ」
二人目は、紫色の布で頭を覆った女、レティア。表情は穏やかだが、どこか距離のある微笑を浮かべていた。
「ようこそ、ロアグレイへ。“名を知らぬ者”が、何を語るのか楽しみにしてるわ」
三人目――隼人の足元に、黒い影が忍び寄る。にゃあ、と小さな声。真っ黒な猫が、靴の先にすり寄ってきた。
「こいつはクロム。喋らないけど、妙に頭がいい」
サルムが説明する。クロムの琥珀色の瞳がじっと隼人を見上げていた。そのまま一行は、失踪者“ヒュグ”の家へ向かうことになった。
ヒュグの家は街の西端にあった。ドアには錠前がかかっておらず、施錠の習慣がないのか、それとも――。
「荒らされた痕跡は……ないな」
エリシアが周囲を見渡す。室内は整っており、机の上には食器、床には毛織りの敷物、暖炉には灰がわずかに残っている。
「暮らしはあった。でも、人の痕跡が、妙に薄い」
レティアが指で触れた本棚には、書物がぎっしりと並んでいた。が、すべての本の“著者名”が塗りつぶされていた。
「見て」
サルムが床板の一枚を剥がす。中には、小さな石が一つだけ置かれていた。彫り込まれていたのは――“ヒュグ”という名。
「なんで……自分の名を、床下に隠す?」
隼人が呟く。皆の目が彼に向いた。
「お前、名の重さを知らないな」
エリシアが呟く。
「本当の名は、誰にも見せない。声に出すなんて、論外」
そこへ――突然、窓が割れた。黒い影が一瞬にして飛び込んできた。
「伏せろッ!」
サルムが叫ぶ。エリシアが即座に短剣を抜き、空中の何かと交差する。甲高い金属音。その“何か”は壁に張り付き、じりじりと後退していく。全身が黒布に包まれ、顔すらも識別できない。だが、口元だけが奇妙に開いていた。
そして、囁いた。
「……おまえの名は、朝霧隼人……そうだろう?」
瞬間、隼人の背筋が凍った。口が、勝手に閉ざされた。指先から力が抜ける。目の前の黒布がまるで自分の記憶を漁るように、微かにあざけり笑った。
クロムが――唸った。その唸りは猫のものとは思えぬ鋭さで、空気を裂いた。黒影が窓の外へ跳ねて消えると、霧の向こうに、同じ影がいくつも、いくつも――立っていた。
夜が明けたのかどうかも分からぬまま、隼人たちは市庁舎の地下へと降りていた。建物の奥に隠されるようにある階段は、苔と湿気に覆われている。灯りはクロムが背負う小さなランタン一つ。猫にしては器用すぎる動作で、暗闇の中を先導していた。
「ここは……?」
「記録の部屋だ」と答えたのはレティアだった。
「正式名称は“記憶の間”。ここには、名を奪われた者たちの痕跡が刻まれている。名前そのものではなく、彼らが遺した“記憶”だけが、石に封じられて残ってるの」
地下の石室には、整然と並んだ石碑があった。まるで墓標のようだが、その表面には“言葉”ではなく“映像”が揺れていた。
最初に目に入ったのは、小さな少女が庭で笑っている光景だった。父と見られる男性が彼女の名を呼び、彼女がそれに答える――その瞬間、画面が白く染まり、パキリと音を立てて石の表面にヒビが入った。
そして、その名は消えた。
「……この子も……?」
「そう。名前を呼ばれた瞬間、存在が“外”から削られる。本人が覚えていても、他人が覚えていても、“呼ぶ”ことは呪いなのよ」
レティアの声は震えていた。隼人はその横顔を見て、彼女自身にも同じような過去があるのだと悟る。
石碑をひとつひとつ見て回る中で、クロムがある一基の石碑の前で止まった。そこには男が本を読んでいる映像が映っていた。椅子に深く腰を掛け、分厚い革の書物を開きながら、何かを口にしている。声は聞こえない。しかし、彼が何度も口を開閉する様子を見て、隼人はある単語に気づいた。
「――“ヒュグ”……あの名だ。失踪者の」
サルムが驚いて声を上げた。
「……なんで、その名がここにあるんだ。こいつは、まだ“失踪”してなかったはずだろ?」
「記憶が、先に削られたのよ」とレティアが低く呟く。
「本人は生きている。でも、他人が“その名を呼んだ記憶”が先に浸食されてる。名が先に喰われて、存在が残されるの……残酷よね」
探索を終え、地上に戻った頃には、霧の色が幾分濃くなっていた。空気が湿って重く、まるで都市そのものが彼らの動きを警戒しているかのようだった。そのとき、広場の中央に、黒衣の人物が立っていた。
エリシアがすぐさま刃に手をかけたが、男――いや、年齢も性別も判別不能なその人物は、まるで滑るように手を挙げた。
「攻撃の意志はない。私はロア。名を捨て、喰われ、生き残った者だ」
声はくぐもり、どこか金属的だった。
「……お前、知ってるのか?」
隼人の問いにサルムが頷いた。
「こいつは、街の外れに住んでた元学者だ。五年前、突如名前を名乗れなくなって失踪したって話だった。けど、こうして戻ってきたってことは……」
「名を奪われた者は、必ずしも“消える”わけではない」
ロアが静かに言った。
「この街に潜む“喰らうもの”は、名を糧に生きている。それに気づき、名を自ら“放棄”したことで、私は奴らの干渉を逃れた」
「放棄……?」
「名を持たぬ者は、干渉できぬ。“奴ら”は名を鍵として、記憶と存在を繋ぎとめる。だから――」
ロアは一歩近づいた。
「お前は、すでに狙われている。“本名”を知る者がいたのだろう?」
隼人の喉がひくつく。あの黒い影――あれは、彼の“本当の名”を知っていた。
「この街に、外から来た者の本名が存在する理由。それこそが、禁名録の最後の章に記された“名前の交差”だ」
ロアが差し出したのは、ぼろぼろになった本だった。表紙には黒い染みが広がっている。
《禁名録》
「開く覚悟があるなら、お前に託す」
《禁名録》は、古びた紙の束だった。墨の匂いが鼻をつく。記録は崩れかけていたが、その中で、隼人は一節に目を止めた。
《名は、外から招かれる。名を知る者が、名を求めた瞬間に。》
名を呼ぶことは、呪いではなかった。願いだった。名を喰らう存在とは、名を“探し求める”意思そのもの。人が誰かを覚えていようとする、その感情が“喰われる”原因になるという。
つまり――“忘れようとしないこと”が、罪だ。
「……それでも、忘れたくない人がいるんだ」
隼人がそう呟いたとき、レティアが震えていた。
市庁舎の会議室。夜の霧がまた濃くなり、まるで街ごと沈み込むような圧迫感が天井から降りてきていた。
「私……かつて、名前を呼んだことがあるの」
沈黙を破ったのはレティアだった。
「巫女だった頃、私は儀式の中で、ある人の“真名”を聞いたの。声に出して呼んでしまったの……その瞬間、その人は消えた」
息を呑んだのはサルムだった。
「おまえ……」
「恋人だった。彼の名を呼ぶことが、許されることだと思ってた」
声は震えていなかった。静かに、事実を置くように話していた。だがその目には、深い後悔が滲んでいた。
「それ以来、私は自分の声が怖くなった。でも、また同じように名前を呼びかける人たちがいる。この街には、まだ救える誰かがいる」
エリシアが腕を組んだまま、壁にもたれて言った。
「ふん……私は信じない。だが、動機としては納得できるわ。裏切り者かどうかは……これからの行動次第ね」
その時だった。突風のような音が、建物の外から響いた。誰かが、いや、“何か”が来た。
通りは、霧が裂けていた。中央に立つ影。それはあの夜、隼人の名を囁いた“無貌の者”だった。だが今回は一人ではなかった。左右に、同じような影が四体。
「……増えてる」
エリシアが舌打ちする。
「こいつら、ヒュグの“記憶”にあったやつと同じだ」
サルムが震えながら短剣を構えた。“無貌の者”は、声を発しない。ただ、じっと見つめている。顔のないその頭部が、ゆっくりとこちらを向く。
――だが、そのときだった。
クロムが一歩、前へ出た。にゃあ。軽く鳴いたその声に、敵の動きが止まる。
「いまよ!」
レティアが叫び、地面に刻印を描いた。封呪の陣形。エリシアがそれに飛び込み、刃を交差させる。隼人は咄嗟に“禁名録”の一節を思い出した。
《名を奪われし者と、名を捨てた者は、互いの名を持たずして結び合う》
「サルム、エリシア、名前じゃない! 信じるかどうかで決めろ!」
その言葉に、サルムが叫んだ。
「なら、俺はこいつを信じる! 名もねぇ、変な警官だけどな!」
刃がぶつかる。影が悲鳴も上げずに崩れる。一体、また一体。最後に残った一体が、微かに声を発した。
「……おまえの……“真名”は……」
「言わせないッ!」
レティアが叫び、封呪陣の光が炸裂する。無貌の者は、闇に融けるようにして消えた。
戦闘が終わった後、静寂だけが残った。建物の壁に空いた穴から、霧がそろそろと流れ込んでくる。
「共闘、成立……ってとこか」
エリシアが息を吐きながら呟いた。
「信じたのは、仮名じゃない。“今の”あんたたちよ」
サルムが照れくさそうに笑う。そして、クロムが隼人の肩に飛び乗った。小さな体がずっしりと温かく、喉をくぐるように唸る。“まだ、終わっていない”――そんな気配を纏って。
戦いの翌朝、霧の色が変わった。白でも灰でもなく――どこか赤茶けた、錆びた血のような色合い。それは街全体が何かを訴えているような、そんな“重さ”を孕んでいた。
「今日は“封名の儀式”の日だ」
ロアが低く告げた。ロアグレイの住民たちは年に一度、互いの名前を「封じる」儀式を行うという。あらかじめ名前を共有した者同士が、互いに“忘れる”ことを誓い、仮名を交換しあう。
「信じることを“捨てる”儀式か」
隼人の言葉に、ロアは首を横に振った。
「ちがう。“名前”に頼らずとも、信じられる関係を築くための儀式だ。名のない絆だけが、この街では生き残れる」
なるほど――と思った。だがそれは、同時に都市が“人間関係”そのものを抑圧する文化を育ててきたということでもある。
「じゃあ、家族は……?」
「親と子でさえ、本当の名前を伝えることはない。言葉を交わせば交わすほど、危うくなる。それがこの街の在り方だった」
クロムは、儀式が始まるのを待つ広場から少し離れた路地で、ひとり座っていた。
「……見つけた」
隼人が声をかけると、クロムはちらりとこちらを見た。霧の中でその瞳は異様に金色に輝いていた。
「……おまえ、元人間だったな?」
クロムは返事をしなかったが、次の瞬間――目の前に光が走り、声が響いた。
――“わたし”はかつて、名を呼ばれた存在だった。
声は、頭の中に直接響いた。幻聴ではない。これは“記憶の投影”――《禁名録》に記された、名を失った者だけが持つ能力。
「クロム……おまえ……」
――名を呼ばれたことで、恋人が石になった。だから、自らの名を忘れることを選んだ。
――猫になったのは、“呪い”ではなく“契約”。
「……誰かを救いたい。それだけで、私は今ここにいる」
猫は、静かに隼人の足元に身をすり寄せた。確かな温もりがあった。
そして、最深部へと向かう時間が来た。都市の中心部、ロアグレイ旧王宮跡――その地下に沈む“沈没図書館”。入口は、水の張った広場の中央、古びた塔の裏手にあった。クロムが軽やかに跳ねるたびに、水面が静かに揺れる。
「ここに、“喰らうもの”の巣があると?」
「おそらく。あるいは、記録がある。いずれにせよ、最後の手がかりだ」
ロアが壁の文様に手をかざすと、石が音もなくスライドした。階段が現れた。降りる途中、冷たい空気が足元から這い上がってくる。水気を含んだ空気、鉄と苔の匂い。
「この下は……完全に“記録の墓場”よ」
レティアが呟く。彼女の表情は硬いが、どこか決意が宿っているようだった。
「私は……もう一度、名前に向き合う。呼ばないために、見届ける」
エリシアも無言で頷いた。サルムは短剣を抜いたまま、前を見据えていた。そして、地下図書館の扉が音を立てて開いた。そこには、名を喰らった者たちの“最後の記録”が眠っていた。
沈没図書館の扉は重く、軋みを上げて開いた。中は静寂だった。壁一面に本が並び、中央には崩れたアーチ型の天井から滴る水音だけが響いていた。空気はひどく冷たく、時間が止まったような感覚に襲われる。
「ここが……名を喰らわれた者たちの記録庫か」
隼人が呟くと、クロムが足元をくるりと回った。小さな身体が落ち着かない様子で動いている。ロアが一冊の本を抜き取った。表紙には“無題”の刻印。開くと、そこには一枚の絵のような記録が挟まれていた。
――黒い影が、名を呼ばれた人物の傍らに現れ、その者の“声”を吸い取る。
「これは……“喰らう者”の実体……?」
「いや、これは投影だ」ロアが言った。
「名が記憶と結びついた瞬間、具現化する“意思の形”。名前に込められた想いが強ければ強いほど、それは実体化する」
「つまり、“名を呼ばれたい”と願う感情そのものが、喰らう存在を生む」
レティアの声が震えた。
「じゃあ、失踪事件って……」
「そう。『誰かに覚えていてほしい』という願いが、“自分自身を食い破る”形で顕れる。それがこの街での“失踪”の正体だ」
静寂が深まった。
奥へと進むと、そこには一枚の記録媒体があった。透明な石板のようなもの。それは“映像”を映し出していた。若い男が誰かの前に立ち、口を動かす。音はない。だが、その唇の動き――隼人は、そこに自分の名を見た。
「……朝霧……隼人……」
石板が軋みを上げ、床が揺れた。ロアが叫んだ。
「離れろ! “真名”が暴かれた!」
だが遅かった。
石板から黒い靄が立ち上り、それが天井をつたって広がる。壁の書物が崩れ、ページが裂け、風のような音が図書館全体を包んだ。
隼人の視界が暗転した。
目が、見えない。
音が、聞こえない。
体が、重い。
まるで自分が“言葉そのもの”から切り離されたようだった。
――“名”を奪われた者の感覚。ただひとつ、胸の奥に残っていたのは、“あの声”だった。
「――記録せよ。追え。声なき者たちの、影を」
初めて市庁舎で聞いた言葉。あの言葉だけが、今の自分を繋ぎ止めていた。誰かが、自分に“名以外の価値”を与えてくれた。それだけが、真っ白な空間の中で、彼を現実へ引き戻していった。
視界が戻った時、図書館の天井が崩れていた。水が流れ込んでくる。クロムが必死に隼人を引っ掻いて起こそうとしていた。
「おい、生きてるか!」
サルムの声が響いた。レティアが彼を抱きかかえるように支えてくれる。
「……俺……は……?」
「おまえ、名前を呼ばれたんだ。けど、まだ消えてない」
エリシアが睨むように言った。
「本名は奪われたかもしれない。でも、おまえを“信じる”奴らはまだここにいる」
図書館の崩落が始まっていた。ロアが最後に叫んだ。
「この都市は、“名”によって保たれていた! 今、“名前”という概念が壊れかけている!」
レティアが、静かに呟いた。
「名ではなく、信じることで、絆は築ける。……その証明を、私たちが残さなきゃ」
彼らは、沈む図書館から這い出す。崩壊は、すでに都市全体に波及していた――。
ロアグレイが、沈黙していた。
崩壊の音はやんだ。霧も少しずつ晴れていた。だがそれは、破壊の終わりではなかった。都市そのものが“名前”という概念を手放し始めたのだ。看板は白紙になり、住民たちは自らの仮名さえも口にしなくなった。ただ、その目には光が戻っていた。
「……もう、“呼ぶ”ことはできなくても、“信じる”ことはできるんだな」
隼人が呟いた。街の広場に立つ彼の肩に、クロムがぴたりと身を寄せている。住民たちが集まっていた。子供が小さな花を手に、彼に差し出す。
「これ……名前、じゃないけど、贈り物」
隼人はそれを受け取り、胸元にそっと挿した。
「ありがとう」
その言葉に、子供はうれしそうに頷く。そこへ、仲間たちが集まってきた。エリシアは相変わらず腕を組みながら、皮肉っぽく笑った。
「ま、悪くない仕事ぶりだったわよ、“記録官補”」
サルムはどこか寂しげに笑う。
「結局、妹の名前も戻らなかった。でも……彼女の笑顔だけは、覚えてる」
レティアは一歩前に出て、言った。
「わたしたち、仮の名前で呼び合ってたけど……この街が再生するとき、何か“新しい呼び方”が必要になると思うの」
隼人は首を傾げた。
「呼び方?」
「うん。信頼の証としての“名”――“真の名”じゃなく、これからを共にした証としての、新しい名」
レティアが手を差し出す。
「私たちから、あなたに。新しい名を贈ってもいい?」
隼人は小さく頷いた。
「……教えてくれ」
レティアが目を細めて、語る。
「“アサレイ”――朝と再生の“あさ”、そして帰るべき“礼”。あなたがここに来て、街に光を灯したことを、忘れないための名」
隼人――いや、アサレイは、静かに頷いた。
「……気に入ったよ」
数日後、アサレイは旅立つことにした。
都市はまだ混乱の中にあるが、彼の役割は終わった。ロアは新たな都市守となり、記録官としての役目を引き継ぐという。
「また、“名を持たぬ者”のために、俺はどこかで記録を始めるさ」
そう言って背を向けた彼の後ろから、声が飛んだ。
「アサレイ!」
振り返ると、クロムが小さな声で鳴いていた。まるでその名を覚えているかのように。
彼は微笑んだ。
「……忘れるなよ。その名は、信じる者がくれたものなんだから」
霧が晴れ、彼の姿は光の向こうへと消えていった。
■作者コメント
「名を呼ぶな」と言われたら、あなたはどうしますか?
この物語は“名前”が呪いとなった世界で、名前以上の何か――信頼、記憶、感情といった無形の絆が試されていきます。
読後、あなたの中にも“忘れたくない名”が残りますように。