境界の裂け目と、名もなき感情
私たちが“情報屋”として活動を開始してから2、3週間経った。
「……最近、噂が現実のネットにまで流れてるみたいだね」
「へえ、ついにバズったか。あれだけ種を撒けば、そりゃ芽も出るさ」
返ってきた声は軽かった。相変わらずだ。シグルはその調子で、世界を弄ぶように歩く。
外の世界。現実という名の、私がまだ知らない場所。
「学校の掲示板でも話題になってた。『ノクテラ』って仮想都市の名前まで出てる。半分都市伝説みたいな扱いだけど……」
私はスクリーンを操作し、外部のSNSログを呼び出した。
ハッシュタグ:#Nokterra
#謎の仮想都市 #情報屋シグル #夢で見た都市
「シグルってここに来る人たちの記憶いじってるよね?」
「一応、依頼成立の瞬間に意識を落としてから、上書きする程度だけどな。『気付いたら都市にいた』『まるで夢みたいだった』って感想が多いのはそのせいだ」
「でも、こうして少しずつ現実の人間が興味を持ってる。それって……」
「境界が滲んできたってことさ」
そう、境界。
仮想と現実、情報と肉体、存在と非存在。
それらを隔てていた壁に、微かなひびが入った。
それは喜ぶべきことなのか、それとも、警戒すべき兆候か。
私にはまだ、判断がつかない。
「なあ、リトラ」
不意に呼ばれて、私はそちらへ視線を向けた。
シグルはいつものように笑っていた。だがその目は、まっすぐにこちらを見ていた。
「お前、外の世界に興味あるんだろ?」
私は、何も言えなかった。
その問いかけは、あまりにも唐突で、それでいて──図星すぎた。
「べつに……外がどうなってるかなんて、知らなくてもいい」
口ではそう言ったが、自分の声がどこか頼りなかったのは自覚していた。
「嘘つけよ。お前、昨日も俺が集めた学内フォーラムのログ、全部見てたろ。あいつらが『情報屋シグル』についてどんなこと言ってるか、何度も読み返してた」
「……」
「だったらさ、いっそ見に行ってみたらどうだ?」
私は彼を見つめた。
「行くって……現実に、ってこと?」
「いや、そこまでは言わない。でも、もっと近づける方法はある」
彼は手のひらを掲げ、空間に一枚のデータシートを投影した。
「これは、ある高校の内情──教員の不正調査の依頼だ。内部告発がきっかけで、俺のところに来た案件だが……」
「……手伝えってこと?」
「正確には、一緒に世界を覗こうぜってことだな」
その誘いは、どこか無邪気で、それでいて抗いがたい力を持っていた。
「私がやったら、失敗するかもしれない」
「失敗してもいいさ。お前は失敗から世界を知ることができる」
そう言って、彼は微笑んだ。
依頼は、匿名の告発だった。ある地方都市の高校で、一部教員が成績の改竄や不正経理を行っているという。
内部で訴え出ることもできず、報復を恐れた学生が、最後の希望として「情報屋」に接触してきた。
「じゃあ、現場に接続しようか」
ノクテラのリンクゲートが開かれる。そこはまだ現実とは完全につながっていない境界領域。
情報の断片が浮遊し、曖昧な形で現実の記録が現れては消える、過渡的な空間。
「これは……?」
「この学校のデータログだ。成績、通信履歴、校内監視カメラ……破損や改竄された部分も多いけど、再構築は可能だ」
私は彼の隣に立ち、浮かび上がる断片の中から、ある一枚の記録に視線を落とした。
それは、職員室で交わされた小さな会話の音声データ。
─「またあの子の点数下げたの?さすがにやりすぎじゃない?」
─「大丈夫よ。あの子、家が弱いし、文句も言えないわよ」
私は、心の底で何かがざらつくのを感じた。
何もできずに、ただ抑圧される側の感情。
私は──その感情に、既視感を覚えていた。
「リトラ?」
「……この依頼、やる。私が最後まで見る」
彼はにやりと笑った。
「お前も、少しずつ染まってきたな」
操作は複雑だった。断片的なデータを繋ぎ、再現し、証拠として再構成する。
私はまだ不慣れで、何度も失敗した。
だがそのたびに、彼は隣で、私のコードのミスを指摘してくれた。
「ここ、ここのループ条件が間違ってる。あとは……変数名も、もう少し分かりやすくな」
「うるさい」
「ハハッ、でもこうやって学んでいくもんだぜ」
気付けば、私は夢中になっていた。
外の世界に触れるということ。
誰かの痛みを、自分の中に通すということ。
それは、ただ「知識」として記録を読むのとはまったく違う体験だった。
結果として、依頼は成功した。
集めた証拠は匿名の通報経路に流し、関係者の処分も始まった。
私たちの名前は出ない。
都市の名も、存在しないまま、ただ結果だけが世界に届く。
だが、私は確かにその記録の一部になった。
そうして私は、彼とともに──いや、「情報屋」の影として、この世界に少しずつ近づいていく。
まだ名前のない、もう一つの感情とともに。
─この人が見てる景色を、私も少しだけ見てみたい。
それだけが、私の歩き出した理由だった。