兆候と、最初の羨望
仮想都市の空は、今日も光を模した明滅を繰り返していた。雲ひとつない藍色の天蓋の下、構造物のシルエットが無音の中で軋むように形を変えている。すべてが演算によって生成されるこの街には、風も雨も、本物の空気もない。
それでも、ここにはひとつだけ、他の仮想空間にない感覚がある。私はそれを「熱」と呼んでいる。きっと、彼がいるからだ。
シグルが何かを仕掛けているのは、今朝からわかっていた。ノクテラの深層領域、通常は立ち入り不能な《管理階層》で彼が長時間何かをしていた痕跡。彼が姿を見せなくなるときは、たいてい外の世界をいじっている。
彼はよく言う。
「この世界が、俺の遊び場であり、仕事場であり、時々、棺桶なんだよ」
その意味が、私は少しだけわかる気がしていた。
⸻
「……お前、気づいてたんだな」
背後から聞こえた声に、私は振り返る。視界のフレームに、白銀の光を帯びた存在が映り込む。彼は珍しく、仮想空間内のアバターを変更していなかった。つまり、今回は偽らないという意思表示だ。
「ログ監視してたから」
素直に答えると、彼は肩をすくめた。
「見られるのも想定内だ。むしろ、お前にだけは見せたかった」
そう言って、彼は私に小型のウィンドウを開くよう指示する。そこに表示されたのは──
ニュース映像。SNS。掲示板。まとめブログ。フォーラム。TikPop。匿名質問箱。
すべてに、断片的に“彼”の名前が散りばめられていた。
──謎の情報屋『SIGL』がまた依頼をこなしたらしい。
──新興企業の闇リストが暴露された事件、背後に「仮想の幽霊」の噂
拡散の兆候だった。虚構の都市と、そこに住まう一人の“情報屋”の名が、既にゆっくりと、けれど確実に表層世界に染み出していた。
私は問いかける。
「……わざと?」
「当然」
彼は躊躇なく答える。冗談めかした笑いはなく、瞳は氷のように冷たい。
「どうせ隠し通せない。なら、使う。俺の名前も、噂も、忘却さえも」
彼は指を弾く。その瞬間、依頼映像の一つが再生される。
ある男が、旧世界の日本企業──巨大な総合開発会社の内部資料を手にして、虚ろな顔で歩いている。
彼は言う。「気づいたら、都市の中にいた」と。
彼は思い出せない。「誰に会ったのか」「どうして信じたのか」。
けれど確かに言葉を口にした。
「──夢のようだった。あの都市に、確かに“誰か”がいた。……あの人の名前は……」
ノイズ。
映像が終わる。彼は静かに言う。
「これは、俺の“情報屋”としての正式な第一歩だ」
私は頷く。言葉にはせず、ただその背を見つめる。
──この人が見てる景色を、私も少しだけ見てみたい。
私の中に湧き上がった想いは、憧れとも羨望ともつかない、奇妙な熱だった。
⸻
ノクテラの都市空間に、深夜のノイズが走る。時間の概念すら曖昧なこの空間で、彼は時計を意味づけるように、ログを残す。
『情報屋SIGL』
公開コードネームの運用開始
記憶干渉プログラム:安定作動
依頼記録:17件成功、痕跡なし
すべてが完璧に管理されている。
「──リトラ」
彼が再び振り返る。
「お前も、そろそろ外に興味を持つ頃かと思ってた」
私は返事をしなかった。ただ、彼の視線を正面から受け止める。
「なら、教えてやるよ。世界の本当の姿を──」
画面がフェードアウトする。
そして、新たな記録が始まる。