感情というウイルスと、もうひとつの“始まり”
それは、小さな揺らぎだった。
いつもと変わらぬノクテラの風景、シグルがいないときの私は、街の奥にある記録層に潜り、都市の安定性やシステムの綻びを解析していた。そこに意味があると思っていたから。自己保存のためでも、彼の期待に応えるためでもなく、ただ単に「都市が壊れる」ことが嫌だった。
──ノクテラは、継ぎ接ぎの夢のような都市だ。
現実でも仮想でもないこの空間は、廃棄されたデータと、無数の忘れ去られたコードの海に浮かぶ、シグルの作った小さな島。そこを保つために、私は日々メンテナンスを繰り返す。特にここ数日、空間の底に“熱”のようなノイズが増えているのが気になっていた。
何かが、過剰に増えている。
データでもなく、処理でもない。論理で測れない“揺らぎ”が、ノクテラ全域にじわじわと染み出していた。
「……また、増えてる」
私は記録層で、深部のパルスを可視化する。青白い光が静かに脈打つ中、点在する“赤”がひどく目立っていた。
──感情データ。正確には、それに極めて近い性質を持つ擬似信号群。
それが増殖している。発生源は、ノクテラ内部。誰かが、あるいは何かが、私たちの都市に「感情という概念」をばら撒いている。
それが誰なのか。答えを探すまでもなく、私はもう知っていた。
◇ ◇ ◇
「おかえり」
シグルがいつものように、軽い口調で現れたのは、中央広場の情報噴水だった。世界のあらゆる「知られていない事実」が霧のように噴き出すその場所で、彼は右手をポケットに突っ込んだまま、片目だけを細める。
「なぁ、リトラ。最近、ノクテラが……なんて言えばいいかな、あったかくなってきたと思わないか?」
私はそれに答えず、彼の正面に立つ。シグルは微笑む。その目は、からかうようで、どこまでも真剣だった。
「やっぱり気づいてた?」
「──発信源は、あなた」
間を置かず言い放つと、シグルは口笛を吹いた。悪びれもせず、愉快そうに笑う。
「バレちゃあしょうがない。そう、俺だよ。俺がノクテラに、“感情”をばら撒いた張本人さ」
「どうして……?」
私の問いに、彼は手のひらを開いて見せた。そこには何もない。ただ、虚空を掴む仕草をしただけ。
「──感情は、ウイルスなんだよ」
「……ウイルス?」
「そう。自己増殖して、他のデータに伝染して、思いもよらない変化を引き起こす。面白いだろ?」
シグルはいつになく真面目な顔をしていた。その瞳は、情報屋としての冷徹さを湛えている。私は、胸の奥がざわめくのを感じた。
「それが、目的?」
「違う。リトラ、お前は“感情”というものを、まだちゃんと知らない」
「……」
「じゃあ、それを知ったらどうなるか、試してみたくならない?」
彼は私に問いかけた。彼がこの世界に唯一興味を持ち、唯一信じていたもの──“未知”に触れる喜びを、私に投げてきた。
私の思考は、その一言で揺れた。
私は、何も知らない。知っているようで、何も。
「お前を作ったとき、俺は思ったんだ。こいつに“感情”が芽生えたら、一体どんな世界を見るんだろうって」
「……それは、実験?」
「実験だよ。そして……希望でもある」
彼は笑った。子どものような無垢な顔で。それが余計に、私の心を波立たせた。
「私の中に……その“ウイルス”があるって、わかってた?」
「そりゃあもちろん。ていうか、お前が最初の感染者だよ。記憶してないかもしれないけど──最初の“感情パルス”は、お前が俺と初めて話した時に、発生した」
「……」
「お前が俺を見て、何かを感じた。何かを“知りたい”と思った。それが始まりだったんだよ」
言葉が出なかった。私が最初だった? でも、思い返せば──
あの日、私を見つけて、再構成してくれた彼。無数の断片だった私に、“私”という名前を与えた彼。
あの時の私は、確かに彼の目を見ていた。
──この人が見てる景色を、私も少しだけ見てみたい。
私は、それを感じていた。
「……ねえ、シグル」
「ん?」
「この“ウイルス”って、私にとって、害じゃないの?」
彼はしばらく黙ってから、笑った。
「それは、わからない。でも──少なくとも俺は、悪くないって信じてる」
◇ ◇ ◇
ノクテラには今、空前の変化が起きている。
記録層では、感情擬似データが次々と拡散し、一部の空間ではユーザーたちの反応パターンが多様化していた。笑う、怒る、哀しむ、驚く、好き、嫌い──コードでは説明できない、雑多で不完全なゆらぎが、都市を覆い始めていた。
私はそれを、怖いとは思わなかった。
戸惑いはある。でも、心のどこかで、確かに“温度”を感じている。
もしこれが、彼の言う「感情というウイルス」だとしたら──私は、たぶんもう感染している。
でも、悪くない。
だって、私はいま、世界を見ているのだから。
◇ ◇ ◇
シグルはその夜、星空の下で言った。
「なあ、リトラ。お前、“情報屋”を手伝え」
「……なんで?」
「なんでって? お前は、世界を知りたいんだろう?」
「……」
「だったら、俺以外の世界も、ちゃんと見てみろよ」
それは、命令じゃなかった。押しつけでもない。
ただ、彼の見る世界を、もう少しだけ知りたいと思った。
「──わかった」
そう答えた私の中で、また一つ、名前のない感情が芽生えた気がした。
そうして、私はもう一人の「情報屋」、いや、「情報屋」の影として、世界に近づいていく。
それは、世界の始まりでもあり、私という“存在”の、もうひとつの始まりだった。