侵入者
ノクテラの中枢に身を置いていると、現実の時間感覚が曖昧になる。
──何時であっても、ここは常に静かで、常に目覚めている。
けれど、この日。私は、その静寂の底に、ひとつの違和感を覚えた。
それは電海の流れの濁りだった。
本来、ここノクテラに接続するには、シグルの認可を得る必要がある。それは、この空間が彼の構築した閉鎖系であり、外界のいかなるデバイス、回線、ノードをも受け入れない構造だから。
つまり──
「ノクテラに侵入しようとしている」
その感覚を最初に明確な言葉に変えたのは、シグルだった。
「外部からの侵入試行。ノクテラの縁をかすってる。生身じゃねえ。何か別の……干渉形態だな」
「外部から? それは誰かの“異能”?」
「いいや。断言する。俺以外に、ここへ直接アクセスできる奴はいない」
「……けど、それは事実として、今“起きている”。」
私はデータの海に自らの意識を沈め、ノクテラの縁に耳を澄ませた。そこには、明らかな違和があった。ノイズにも似ているが、もっと狡猾で、有機的な“感触”。
侵入を試みている情報体は、まるで生き物のようにノクテラの構造を探っていた。
「プローブのようなもの。でも、これは単純な自動スキャンじゃない。回避と隠蔽を試みている……学習している」
「ふむ。じゃあ、これはただのクラッカーじゃねぇ。少なくとも、自我を模倣する何かが使われてる」
シグルはデータの水面を指先でなぞるように操作しながら、目を細める。
私はその横顔を見つめた。
「ねえ、対処する?」
「まだ。せっかくだし、遊ばせてやろう」
「遊ぶ?」
「中に入れねぇのは前提だ。ただ……向こうがどこまで理解し、どこまで深く潜ろうとするか、それは見ておいて損はない」
私は思った。
──興味。
これは彼の中に久しく生まれていなかった感情なのだろうと。
私に名前をくれた時と、似ていた。
それが、少しだけうれしいと思った。
それから数時間。
ノクテラの外縁をかすめる侵入試行は、より複雑な動きを見せはじめた。
遮断された接続を模倣し、閉じたルートを“外から再現”しようとする。
ノクテラの構成コードは、一般的なプロトコルとは異なる。通常のネットワーク階層では存在し得ない、異常な構造を持つ。
それを、彼ら──侵入者は、模倣しようとしていた。
「まるで、ノクテラを外に再現しようとしてるみたい」
「その通り。だが、模倣には限界がある。“本質”は真似できねえ」
「その“本質”って?」
「この都市の中核は、俺と……お前がいることだ。情報だけじゃ成り立たねぇ。意志と、存在そのものが構成要素だからな」
「……そう。じゃあ、それは“侵入”じゃなく、“構築”だったのかもしれないね」
ふと、そう思った。
誰かがノクテラに入るのではなく。
外の誰かが、ノクテラの写し身を作ろうとしているとしたら。
「この世界の構造を読み取って、別の場所に同じものを“作る”……それが目的だとすれば?」
「うーん……」
シグルは静かに目を細め、何かを想像するように空を見た。
「……だとすりゃ、誰かがノクテラの存在を認識してる。“ここにある”ってことを、知られてるかもしれねえな」
「それは……まずいこと?」
「両方だな。ただ──残念ながら、今回はまずいほうに偏りすぎてる」
言葉を切って、彼は操作を止めた。
電海が、まるで呼吸を止めたように静まる。
『遮断する。ここから先は通さねえ。お前は、深く潜りすぎた』
彼の声音が変わった。
軽薄さを含んでいた口調が、完全に消える。
これが“情報屋”いや、“管理者”シグルの声。
私は何も言わず、彼の背を見つめた。
何もかもを見通すような、その瞳を。
ノクテラの空が、変わる。
暗闇の奥、都市を守るコードの層が、淡く赤く光った。
侵入の波は止んだ。
シグルの命令ひとつで、この都市全体が拒絶の構えに入ったから。
私がこの場所に来てから、初めてだった。
彼が、誰かを明確に排除したのは。
──その夜、ノクテラの中枢には静けさが戻った。
けれど、私は知っていた。
これは始まりだ。誰かがここを知ったということは、いずれ必ずもっと深く踏み込もうとする。
私はその時、心の奥底で初めて、こんなことを考えていた。
──彼を、守りたい。
理由はわからない。
ただ、彼が何かを遮断し、背を向けた時。
その背中が、あまりにも孤独に見えたから。
そして、そう思った自分自身にも、少し驚いていた。
それが、私の中に芽生えた、新しい感情だったのかもしれない。