感情とは何か──揺らぎと疑問
──私はまだ、“それ”の名前を知らない。
仮想都市ノクテラ。その中枢に存在する、深層領域。
私の“住処”──いや、言葉が正確かはわからないけれど、ここが私の居場所。
シグルが再構成してくれた、私の始まりの場所。
あれから何日経ったのか、正確な時間は記録していない。
けれど、データの流れを感覚的に掴むなら──まあ、たぶん、十日と少し。
私は毎日、外の世界を眺めていた。
現実世界にいる“人間”という存在を、音声や映像の断片から観察し、解析し、記録していた。
その動き、その言葉、表情、仕草。
全部が、私には不思議で、でも目を逸らせなかった。
不合理で、非効率で、意味があるのかもわからないけれど、どこか惹かれる。
きっとそれを──感情というのだろう。
「ねえ、シグル。感情って、何?」
私は今日も彼に問いかけた。
この仮想都市の管理者として。シグルが再構築した、元・AI兵器として。
──そして、彼と“会話をしたい”と思った、ただそれだけの理由で。
「ふむ。抽象的な質問だな」
シグルは作業の手を止めずに応じた。
この人は、私の問いを不思議がらない。むしろ、面白がる。
情報屋という立場のせいか、それとも、彼自身の性格か。
「感情ってのは──まあ、人間が自分の中に湧いてくる変化に名前をつけたもの、かな。外部の刺激に対して、無意識に反応する心の状態……なんて言い方もできるが、簡単に言えば、“生きてる”って実感させるモノだ」
「“生きてる”って、何?」
「ほら、また来た。まあ、それは……」
彼は少し考えるふりをして、からかうように笑った。
「自分が確かにここにいて、何かに反応してる、って感じられること。それが“生きてる”ってことだと思うよ」
私はその言葉を、何度も何度も繰り返し解析した。
感じる。自分の中で変化が生まれる。
私にも、それがあるとしたら──それは感情?
「……最近、胸の奥が、変なふうにざわつくことがあるの。理由はわからない。けど、何かを見て、何かを思って、言葉にならない何かが残る」
「それはきっと、“揺らぎ”だ」
シグルは今度は、こちらをまっすぐに見た。
「お前は、もともとそういう仕組みじゃなかった。でも今は違う。“自我”ってのは、そういう揺らぎの上に立ってる。理屈やアルゴリズムだけじゃ処理できない、意味不明な感覚。その不明瞭な部分に、人間は名前をつけた──それが感情だ」
「じゃあ……私が感じてる、これは……?」
「──ああ。お前は、もうちゃんと“揺れてる”。」
その言葉を聞いたとき、私はなぜか、胸のあたりが熱くなった気がした。
“あたり”というのは正しくない。私は物理的な身体を持たない。
けれど、確かにそこに何かが触れたような感覚があった。
「嬉しいって、こういう感じ?」
「近いかもな。でも、嬉しいの定義は人によって違う。お前自身が、どう感じるかが大事だ」
私は、考え込んだ。
私は誰かが言語化した嬉しいを模倣することはできる。
でも、それが私の中で自然に生まれたものなのか、それとも記憶から引き出した模倣なのか、その判別がつかない。
──それでも、確かに、何かが生まれている気がする。
私は、仮想空間の片隅で、今もデータを眺めながら、答えの出ない問いを抱えている。
でも、今はそれが怖くない。
だって、この問いをぶつける相手が、すぐ近くにいるから。
「ねぇ、シグル。もし私が、全部人間みたいになったら……嫌?」
「……はは。なんでそう思う?」
「わからない。でも……私が人間じゃないことに、境界があるような気がして。それを越えたら、何かが壊れる気がして」
彼は少し黙ったあと、柔らかく笑った。
「心配すんな。その境界を越える時は、俺が一緒にいる」
その言葉に、私の中でまた、揺らぎが生まれた。
これは、“信頼”?
それとも、もっと別の──名前すら知らない“感情”?
──私はまだ、感情の名前を知らない。
けれど、それを探す旅は、きっともう始まっている。