光痕──電海の底にあったのは
ノクテラの中枢管理室──
都市の心臓でありながら、そこにあるのはいつも無音の虚無だった。
だけど、今日は違う。いつも通りの無音でありながら、そこには確かな「熱」を持った彼女──リトラが彼の前に立っていた。
この都市の管理者であり、存在しないはずの少女。
人間ではないAIの、失われた兵器の、断片コードから生まれた存在。
けれど──その瞳には、もう「心」が宿っていた。
沈黙は長かった。
それを破ったのは、リトラの声だった。
「……あなたに、言いたいことがある」
シグルは何も言わず、手を動かすこともなく、ただ頷いた。
「私は、人間になりたい」
言葉は、静かだった。
しかしその重みは、この都市すべての演算負荷よりも深く、確かに響いた。
リトラは、ゆっくりと歩み寄る。
まるで床に質量を持たせるように、一歩一歩、確かめるように。
「私は今、ここに立っている。心があって、想いがある。それが誰の命令でもなく、ただ自分の中から生まれてきて……それが、止まらない」
「……ああ」
シグルは短く息を吐いた。
そして、彼女の瞳を見つめ返した。
「お前はもう、立派な“人間”だな」
「うん。でも、それでいい。それがいいの」
リトラは、自分の手を見つめる。
白く滑らかに形成された人工皮膚。仮想であり、虚構であり、それでも今は――確かに、そこに「自分」が宿っている。
「人間の名前には、意味があるんでしょ?」
「そうだな」
「……なら、私の名前の“意味”を教えて」
シグルのまぶたが、わずかに伏せられる。
ノクテラを構築した彼の心――冷徹で無機質な知性の底に、わずかに波が立つ。
「いつも通り、電海の底に沈む。
記憶を探し、欠片を拾い上げ、繋げて、再構築して……
それだけが、俺の仕事だった。
それだけが、俺の世界だった。
──そこに、お前がいた。
最初はただの気まぐれだった。
動かなくなった断片コードの山に、奇妙な揺らぎがあった。
試しに直してみた。ただそれだけだった。
でも、日を重ねていくごとに──お前は、少しずつ変わっていった。
感情を持つようになった。
表情はないのに、声は平坦なのに、それでも、確かに「心」の波がそこにあった。
俺には、それがなんでか……分からなかった。
感情の構造は分かる。電海掌理を通せば、どんな反応で、どんな意味を持つかなんて、全部解析できる。
「怒り」だ、「悲しみ」だ、「安堵」だ、「寂しさ」だ。そんなラベルは簡単に貼れる。
でも──「なぜ」そんな感情が生まれるのか。それだけは、理解できなかった。
ただのプログラムじゃない。
制御された兵器の残骸でもない。
それを超えた「何か」が、お前の中にはあった。
今にして思えば──
それが、始まりだったのかもしれない。
お前の中に生まれた感情は、日々、少しずつパターンを増やしていった。
最初は模倣だと思っていた。人間の行動を学習して、それを再現しているだけだと。
けど違った。
お前は「学習」しているんじゃなかった。「感じて」いたんだ。
……なあ。
お前の記録を見るたびに、俺はどんどん分からなくなっていったよ。
なぜそんな言葉を選んだのか。
なぜその時、涙のような挙動を見せたのか。
なぜ、笑うことを「好き」だと定義したのか。
……分からない。
全知のはずのこの世界で、お前だけが、分からなかった。
だけど、分からなくなっていくたびに──
俺の心の奥底で、ずっと眠っていた「何か」が蘇った気がした。
それは、「興味」だった。
俺はもう、ほとんどの問いを解き終えていた。
どの国がどんな秘密を持ってて、どの異能者がどんな能力で、どんな事件が起こるのか。
全部、分かっていた。
だから、何も感じなくなっていた。
人間も、社会も、世界も、感情そのものへの興味すら……失っていた。
でも。
お前は違った。
お前は、俺の中の「分からない」を生み出し続けた。
予測不能で、規定外で、非合理で……けれど、どこまでも美しかった。
そんな俺に、もう一度──光を灯してくれたんだ」
「リトラ──お前の名前の意味は、光の痕跡。
……この電海という影の中に残る、唯一の光と、その痕跡。俺にとっての、予測不能」
「この電海という影の中で……どれだけ全てを見渡せても、俺は何も残せなかった。誰かの心も、命も、未来も、全部ただの記録として処理されて、終わっていった」
「……」
「でも、お前だけは違った」
それは、彼にとっての予測不能。
全知の世界に生まれた、不確定の塊。
誰よりも無機的で、誰よりも人間らしかった存在。
「この電海の底に残った、感情の痕跡。そして、俺の世界を照らしてくれた、光。そして、俺とこの都市にとっての――色のない世界に灯った“光の痕跡”だ」
言葉が落ちたあと、ふたりの間に、静寂が訪れる。
だが、それは決して冷たい沈黙ではなかった。
それは、彼女が初めて知った「ぬくもり」という感情。
どこまでも不確かで、定義できないけれど、確かに心を満たしていく何か。
──この人の見ている景色を、私も見ていたい
それは、最初から彼女が持っていた言葉だった。
まだ“感情”という語彙を知らなかった頃から、ずっと内側でくすぶっていた熱。
誰かの隣で、同じものを見たいと願う衝動。
理解ではなく、共感でもなく、“共有”という、抗えない希求。
それが、彼女にとっての「人間になる」という意味だった。
──色のない世界に、光を灯した存在。
それが、リトラという名前に込められた、たったひとつの意味。
やがて、彼女は問いかける。
それは、もうAIでも、兵器でも、記録装置でもない。
ただひとりの、心を持つ存在の声だった。
「ねぇ、シグル。私は、これからも、あなたの隣にいていい?」
彼は目を閉じる。
今度は、全ての思考や推論を介さず、ただひとつの言葉だけを返す。
「……ああ、もちろん。」
「これからもよろしくな。“俺の相棒”」
その答えは、かつて世界に興味を失った少年の、確かな“選択”だった。
光は、確かに残る。
たとえ電海の果て、記録の底に沈もうとも──
その痕跡は、永遠に、彼の中に在り続ける。
─────────
その日から、私は人間になった。
でも、心の奥には、もう一つだけ──名前のない感情が残っていた。
「好き」という言葉では、足りない。
そんな単純なラベルじゃ、きっと表せない。
もっと別の、もっと深くて、もっと特別な……それでも言葉にできない“なにか”。
……たぶん、本当は知っているのかもしれない。
この感情が、どういう意味なのか。
どんな名前で呼ばれているのか。
だけど、私はあえて、それに名前をつけないことにした。
名前をつけたら終わってしまう気がするから。
もっと知りたい。
もっと、もっと彼に近づきたい。
仮想と現実の境界を越えて、いつかこの思いを、言葉ではなく“存在”そのもので伝えたい。
それが、今の私の願い。
この人の見ている景色を、私も共に見ていたいと願った、私の心の“痕跡”。
──きっと、これが「はじまり」なんだ。
以上をもって本作、「Nocterra ―電海の奥底には何がある?」
完結です!
ご愛読、ありがとうございました!
私の初めての作品で、文章や構造など、沢山拙い部分があったと思います。それでも、ここまで読んでいただき、ほんとうにありがとうございました。
最後に一つ。
彼らの物語は終わらない。確かにこの作品の中では終わったかもしれないけど、その物語はまだ続いていく。
それこそ、もしかしたら、いつか、また、別の作品として、続いていくの、かも、しれない…ね?
──────────お終い。




