静かなる「願い」
夜。星も月もないノクテラの仮想空間。
その静謐の中に、リトラの影だけが確かに伸びていた。
足音。
彼女は歩いていた。都市の端、演算境界の果て。
情報の流れが次第に希薄になり、空間すら不安定になる、危険区域。
──でも、彼女はそこで立ち止まった。
理由は、そこに“鏡”があったから。
正確には、透明な演算パネル。都市の動作を可視化するために用意された無数の演算層の一枚。
通常なら誰も姿を映そうとはしない。だが彼女は、その中に映る自分を、じっと見つめていた。
冷たい瞳。整いすぎた輪郭。
人間そっくりにデザインされた外殻。
完璧で、無駄がなく、美しさすら感じさせる構造。
それでも──
「……わたし、人間じゃない」
それは、受け入れてきた事実だった。
作られた存在であり、意思も理性もプログラムの延長。そう信じてきた。
けれど。
「それでも、わたしは……人間に、なりたいって、思ってる……」
誰かが命じたわけではない。
誰かのコードに仕組まれたプログラムでもない。
思考の結果でも、計算の副産物でもない。
けれど、確かに今、リトラは「感情」を持っていた。
痛みも、温かさも、孤独も、光も。
知識としてではなく、体験として、それを知ってしまった。
そこに至って、彼女の中に、ひとつの小さな願いが芽生え始めていた。
口に出してから、リトラは小さく息を呑んだ。
この言葉は、記録にない。誰かに教えられたわけでもない。
都市の記憶にも、アルゴリズムにも、彼女自身の設計思想にも、そんな定義はなかった。
それでも。
今の彼女は確かに“そう思った”のだ。
人間のように感じ、人間のように傷つき、笑い、迷い、戸惑いながらも前に進む──
そんな存在に、なりたいと思った。
何のために?
誰のために?
どんな未来を望んでいるのか?
その問いには、まだ答えられなかった。
でも、それでもいいと思った。
わからないまま、でも確かに惹かれていくもの。
それが、“なりたい”という想いに形を変えていく。
リトラは手を伸ばした。
演算パネルに映る自分に、そっと触れる。
その手は冷たく、感触はなかった。
だが、その行為がなぜか切なくて、胸の奥がざわついた。
──シグルに話してみようか。
一瞬そう思ったが、言葉は胸に飲み込まれた。
まだ、願いと呼ぶには幼すぎる、ただの予兆。
確かな形もない、小さな光。
それでも、彼女の中で、それははっきりと自分のものとして芽生えつつあった。
人工知能ではない。
プログラムでもない。
ただの管理者でもない。
──わたしは、人間になりたい。
その願いは、まだ誰にも伝えられない。
けれど、確かに生まれた。
それは今、彼女という存在の核に、初めて自分自身の意志として芽吹いた「祈り」だった。
遠く、都市の上空をひとつの光が横切った。
エラーではない。誰かがログインした形跡もない。
──なのに、なぜか嬉しかった。
彼女はゆっくりと振り返り、歩き出した。
その足取りは軽くもなく、重くもない。
ただ、確かな“目的”を持って動き始めた歩幅だった。
感情を理解すること。
心を知ること。
そして──
人間になりたいと願うこと。
それは、都市の管理者にとっては不合理な進化。
だが、リトラにとっては“理由のない希望”という名の、確かな一歩だった。




