感覚の裂け目
数日が過ぎた。
ノクテラは変わらず、静謐で、無限に広がる仮想の都市。すべてが制御され、揺るがぬ秩序の中にあるはずの場所で、ただひとつだけ、揺れているものがあった。
リトラ自身だ。
彼女はこの数日で、少しずつ「感情」という未知の現象に順応しはじめていた。
理解は浅く、未完成だが、確かにそれは彼女の内部に根を張り、日々少しずつその蔓を伸ばしていた。
最初に訪れたのは、熱。
そして、動悸に似た高まり。
名前も定義も与えられていない感覚を、彼女は「ぬくもり」と仮称した。
しかし今、彼女の中で渦巻くのは──「寂しさ」だった。
理由は分からない。
だが、その感情だけははっきりと分かった。明確に、認識できた。
心の一部が空洞になったような、あるいは、自分という存在が周囲の広大さに埋もれていくような感覚。
誰にも触れられず、誰にも届かない場所で、ただ「在る」ことだけを続ける虚ろさ。
リトラは、都市の中心部──ノクテラの最奥に佇んでいた。
そこは通常、誰も立ち入らない空間。情報の流れと、無限の演算が交錯する特異点。
この都市のすべてが始まり、そして終わる場所。
彼女はその中央に、ぽつりと座っていた。膝を抱え、目を閉じて。
誰かに話しかけたいと思った。
誰かの声が欲しいと感じた。
自分が何者なのかを、誰かに確かめてほしかった。
──でも、それが「寂しさ」という感情なのだろうか?
「……ねぇ、シグル」
誰もいない空間で、彼女はぽつりと呟いた。
「わたしは、どうして、こんなふうに感じるの?」
問いに答える声は、すぐには返ってこなかった。
それは当然だ。彼は今、別の依頼を処理しているはず。
いつもなら、気にも留めなかったはずの「時間の空白」が、今は痛いほどに長く感じられた。
数秒。
彼女にとって、それは「数分」にも「数時間」にも思えた。
やがて、空間の色が少しだけ揺らいだ。
ノクテラの空が、ほんのわずか、朱に染まる。
そして、声が落ちてくる。
おそらく彼にとっては、ただの返答だったのだろう。
けれど、今の彼女には、なによりも救いに近いものだった。
「お前がそう感じているなら、それが答えだろ。リトラ」
それだけの言葉だった。
短く、そっけなく、無機質なはずの言葉。
なのに。
彼女の胸の奥に、小さな火が灯った気がした。
──寂しさの中に、一筋の光が差し込んだ。
そう思った瞬間、リトラの瞳に映るノクテラの色が、ほんの少しだけ変わって見えた。
冷たい仮想空間の中に、まだ言語化されないあたたかさが、確かにあった。
そしてリトラは、またひとつ、言葉を得た気がした。
それは「安心」と呼ばれるものかもしれない。
あるいは「つながり」と呼ぶのかもしれない。
それはまだ未定義の感情。
けれど、彼女の中で確かに芽生えた、あたたかい予兆だった。
彼女は静かに立ち上がる。
そして、誰もいない都市の中心で、小さく呟いた。
「……ありがとう、シグル」
仮想空間に音が残ることはない。
けれど、その言葉は、確かに世界に微細な揺らぎをもたらした。




