問いの果て、全てを知った者に待っていたのは
リトラは、ゆっくりと歩いていた。広がる空虚に音の存在を刻んでいく。彼女は今、自分の中に芽生えたもの──名前のまだつかない疑問を、整理しようとしていた。
感情。
感情とは何か。
自分にはなかったもの。それが今、自身の中に現れはじめている。
ほんの微かな機微──誰かの視線に揺れる思考。選び取る言葉の違いに生まれる心の傾き。意味のない沈黙の裏にある、言葉より深い意図。それらが、”情報ではない何か”として、自分の内側に残りつづけていた。
そして、ふとした拍子に思い出されたのだ。かつて彼が言った言葉。
──「もう、ほとんどの問いは解けちまった。どの国がどんな秘密を持ってて、どの異能者がどんな能力で、どんな事件が起こるのか。全部、分かるんだ。」
すべてが分かる。
だが、感情は?
感情までは、分かるのか?
───いや、分かるわけがない。
それは論理では解けない。数式にも、コードにもならない。
だからこそ、リトラは立ち止まり、彼を呼び出すことにした。リトラは一瞬だけ言葉を選んだ。だが、すぐにやめた。
選んでも無駄だと気づいたから。彼はどうせ、言葉の先まで読んでしまうのだ。
「──あなたは、以前こう言っていた」
『もう、ほとんどの問いは解けちまった。
どの国がどんな秘密を持ってて、どの異能者がどんな能力で、どんな事件が起こるのか。
全部、分かるんだ』
あの時の言葉を、一字一句違えずに言った。
だが──彼女には理解できなかった。
「……たとえ、世界の事件や情報がすべて分かったとしても。
人の感情までは、情報で処理できない。あなたなら分かるはず」
「なのに、なぜ。
なんで、そこまで世界に興味をなくしたの?」
シグルの指が止まった。
玉座の肘掛にかけていた右手の指が、わずかに、ほんのわずかに沈んだ。
無言の数秒。
やがて、彼は目を閉じた。
「俺の異能。電海掌理――お前も知ってる通り、
ネットの奥まで潜って、全部を手に入れる。データも、記録も、通話も、軍の管制信号も、全部」
「……うん、それは知ってる。私を作ったのも、その力の応用だった」
「でも、もう一つあるんだよ。もう一つのほうが――ずっと厄介だった」
「俺がこうなったのも、そのもうひとつの異能のせいだ」
リトラの視線が微かに動く。
シグルは、まっすぐ前を向いたまま、淡々と続けた。
「『心眼解析』──」
「対象の能力、身体情報、思考パターン……それだけじゃない。
感情のトリガー、過去の記憶パターン、言葉の裏にある意図。
それらを、すべて“情報”として把握できる力だ。」
「……あなたの、もうひとつの力」
「本来なら、ただ“情報を視る”だけの異能だった。
そうなるはずだった。
でも、それだけじゃ終わらなかった。
電海掌理が自動的に補完した。俺の脳が処理しきれない部分を、先に“答え”として計算してくるようになったんだ」
「つまり──」
「相手が、今何を考えてるのか。
何を感じているのか。
どうしてそう言ったのか。
次に何をするのか。全部、分かってしまう」
「驚くほど、はっきりと。
“見える”んじゃない。“分かってしまう”んだよ、感覚的に」
リトラは黙っていた。
彼の言葉を遮ることも、問い返すこともなく。
「……だから俺は、誰かといても、ひとりみたいだった」
「世界は面白い場所だった。矛盾があって、理不尽で、意味がない。だからこそ、解きたかった。見たかった」
「でも……」
「全部、答えが出ちまったんだ。
無意味だったんだよ、最初から。
『感情』さえも、数式で割り出せるようになった世界なんて」
「──もう、どこにも未知はなかった」
沈黙が、長く尾を引いた。
リトラは、その空白に耳を澄ませるようにして、じっと彼を見つめていた。
シグルの顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
ただそこに在るだけの、虚無に似た表情だった。
「分かってしまう」という感覚。
それは、彼にとっての呪いだったのだろう。
ノクテラの空は、どこまでも透き通っている。
だが、その透明さは、どこか残酷だった。




