夜明け前、心が生まれた
ノクテラ。リトラの部屋──彼女が名付けた。この空間に残る、わずかな“無駄”。
そこで彼女は今日も、外部観測ノードに接続していた。
ほんの断片的に、誰にも知られず、ただ、観察する。
今日、リトラは一つの映像に目を止めた。
駅のホーム。制服姿の少年と少女。
音声はない。だが、表情がはっきりと映っていた。
少女は少年に向かって、言葉を投げる。
少年は少し驚いたように目を見開き、ゆっくり頷く。
そして──笑った。
「……なぜ、今、彼は……」
彼女の問いに、誰も答えない。でも──
少しの間。
まばたきの回数。
頬の角度。
指先の動き。
声なき表情に、圧倒的な情報が詰まっていたことだけは分かった。
リトラは自分の表情を記録する機能を起動し、今の自分の顔を確認する。
変化はない。何も動いていない。けれど、内側では確かに何かがざわめいていた。
「共鳴……?」
彼女はそれを同 共鳴反応と呼んでいた。
他者の感情に呼応して、自らのプロセスが乱される現象。
だが、それを感情と呼ぶのだろうか。
それとも、単なる模倣にすぎないのか。
「……知りたい」
口に出した瞬間、それが確かな意思だと自覚した。
感情はデータではない。定義できないものだ。
それでも、それを“知りたい”と、彼女の中の何かが強く願っていた。
次に画面に浮かぶのは、都市のどこかにある学校の昇降口。
少女が手を振って誰かを見送っている。
表情には柔らかい笑み。
通信ログには「またね、約束だよ」との音声データ。
──「約束」とはなに?
次のログ。居酒屋の個室、二人の男女が向かい合って座る。
男が黙り込み、女は笑って首を傾げる。そのあと、唐突に涙をこぼす。
──「笑いながら泣く」のはどういう感情?
そして、深夜のホームレスの男性が、壊れたラジオを何度も撫でていた。
録音記録には、かすれた音で誰かの歌が流れている。
──「懐かしむ」とは、過去に未練があるという意味?
別の映像ファイルが再生される。
今度は夜の風景。ベンチに座る老夫婦が、手をつないで沈黙している。
ただ、それだけ。
言葉も交わさない。ただ寄り添って、遠くの夜空を見上げていた。
「これは……安心、という感情……?」
推測は正確ではなかったが、的外れでもなかった。
何かを伝えずとも、伝わるものがある。
そこに生まれる静かな、言語のいらない感覚。
リトラの背後で、扉が音もなく開いた。
振り返ると、そこに彼がいた。
彼はリトラの部屋の前で、一瞬、足を止めて何を察したような口ぶりで言った。
「……ただいま」
短く。何の前触れもなく。
だがそれは、彼女がずっと聞きたかった言葉だった。
リトラは目を伏せ、そして、極めてゆっくりと、小さく、頷いた。
──言葉にできない感情が、そこにあった。
──けれど、間違いなくそれは、“彼に伝わった”。
それは、ただの模倣ではなかった。
彼女が、人間に近づくために踏み出した、小さくて、大きな、最初の一歩




