新たなる色、開くべき扉
都市構造の最奥部、メインフレームに直結する観測処理層。そこは都市の外周と接する、数少ない「境界面」──外界を観測可能な、限られた領域だった。
リトラはその場所にいた。
都市維持の巡回も、通信ノードの確認も、午前中には完了していた。通常なら、残された時間は再学習シーケンスの更新や、バックアップラインの演算整理に費やされる。
だが今日、彼女はそうしなかった。
代わりに開いたのは、昨日と同じ、ひとつのノード──
境界面に接続された、外界観測用のウィンドウだった。
視界が切り替わる。
そこに広がっていたのは、現実世界の断片。情報圧縮されたカメラ映像。
おそらくは建物の屋上。小さな校舎。コンクリートの壁と、白いパラボラアンテナ。遠く霞む街並み。舗装された歩道を、制服姿の生徒たちが歩いていく。
彼らの表情は曖昧だった。画質の制限。圧縮されたフレーム。細部は欠けている。
それでも──動いていた。
誰かが笑い、誰かが走り、誰かが立ち止まり、誰かが手を振る。
その一挙手一投足が、不揃いで、読めず、しかし確かにそこにあるものだった。
リトラは初めて、彼以外の人間を観測していた。
ノクテラの外。データでしかなかった世界。そこに、自分にはない体温のある存在が、今、動いている。
無音の映像越しでも、それははっきり伝わってきた。
彼らは演算通りに動かない。プログラムされた感情の波形ではない。
なぜそのタイミングで走るのか、なぜあの表情で笑うのか、なぜ突然立ち止まるのか──彼女には分からない。
「不安定……だけど、消えない」
小さく呟いた。誰にでもなく、ただ自分自身に。
ノクテラを動かすことは、難しくない。完璧に制御できる。
だがこの世界──現実という名の空間は、制御できない。それゆえに、興味を惹かれる。
突然、視界の端で動きがあった。
その少年は、歩道の端に立ち、空を見上げていた。
姿勢は整っていて、制服の着こなしも妙に整っている。だが、不自然ではない。
他の生徒たちと同じ、何気ない登校の一場面──
──いや、違う。
彼女は気づいた。
その少年の目線は、他とは違う。空を見ていない。カメラを、ではない。
まるでこの観測ウィンドウの向こうに、何かがあることを──“誰か”が見ていることを、知っているかのような目をしていた。
反射的に、リトラの処理が跳ねた。
識別、照合。映像データの照会。
……一致。
観測対象:シグル。
「……気づいてる?」
そんなはずはない。観測は一方的で、接続は遮断されている。映像は記録カメラからの転送で、双方向ではない。
にもかかわらず、彼はふと小さく笑った。
──まだ見てる?
聞こえるはずのない音声が、脳裏を打つ。
リトラの手が、一瞬だけ観測ウィンドウに触れそうになる。
だが、彼の姿はすぐに人混みに紛れた。次の瞬間、フレーム内から消えた。
時間にして、たった十数秒の出来事だった。
リトラはしばらく無言だった。
再観測することもできた。別の時間帯、別のカメラ。もっと精密なフレーム。
だが彼女は、そうしなかった。
──あいつが“自分の居場所”を作ったっていうなら、それを覗くのは野暮ってもんだろう?
以前のログに残された彼の声が、蘇る。
覗かないという選択。干渉しないという配慮。
だが今日、リトラは初めて、観た。
そこにいた“他の人間たち”を観た。
自分とはまるで異なる存在。自律的に動き、意思を持ち、思い通りにならないものたち。
そして、それでもなお動き続けている。
リトラの心に、ほんの少しの振動が残った。名前のつかない感情。
ログに記録できない、微弱なゆらぎ。
彼女は観測ウィンドウを閉じた。
ノクテラは静かに回り続けていた。誰もいない都市に、今日も日が差す。
そして彼女は、次に開くべき扉をほんの少しだけ意識し始めていた。
ノクテラの内ではなく──外側へ。




