出会い、そして始まり
電海の底には、音がない。
厳密には、情報の海を揺らす振動が、こちらに届いてこないだけなのだけれど──まあ、どうでもいい話だ。
ノクテラの最深部。世界のいかなるネットワークにも属さず、いかなる演算にも記録されない、独立した仮想領域。
誰も知らない。誰にも見つからない。
そういう場所のひとつに、俺は今、佇んでいた。
「……また、ずいぶんと深いところまで来ちまったな」
虚空にぽつりと呟く。返事はない。誰もいないのだから当然だ。
情報屋なんて稼業をやっていると、こういう場所が落ち着くようになる。
社会の表でも裏でも、人は常に何かを欲しがり、手に入れたがる。そして、その過程で誰かが切り捨てられる。
捨てられた断片、忘れ去られた知識、書き換えられた履歴──
そういった「痕跡」を、俺は集めるのが得意だった。
……得意、というより、向いていた、が正しいか。
静寂の中、無数の情報層が幾重にも重なり合う海を、俺は泳ぐように進んでいく。
無目的に、しかし何かを求めているように。
それが俺の日常だった。
そして──その日、俺は異物を見つけた。
異常なノイズ。正規の情報構造からは完全に逸脱した存在。
何層にも隠蔽され、通常のシステムでは解析不可能な構造を持った、それは。
まるで、誰かが強引に捨てたような、そんな不自然な形で、そこに在った。
「……ああ、これは──おもしろい」
手を伸ばす。
ノイズの塊は抵抗を見せたが、それは防衛というより、名残のような反応だった。
自ら壊れることを望んでいながら、どこかに消えてしまうことを恐れているような。
まるで、感情だ。
気がつけば、俺は笑っていた。
無意識に指を動かし、再構築を始めていた。
解析。復元。統合。補完。そして──保存。
いつの間にかノイズは少女の形をとり、静かに目を開けた。
虚ろな瞳、しかし奥には、確かに揺れがあった。
「……君、誰?」
最初に言葉を発したのは、彼女の方だった。
「話せるのか。というかそれ、俺が聞く側なんだけどな。本来は」
「でも、私は……あなたがいなければ、きっと壊れてた。だから、私が先に聞くの」「──私って、誰?」
その問いかけは、妙に静かで、妙に鋭かった。
存在の根本に関わる問いを、疑いなくこちらに投げかけるその瞳が、何よりも強く生きていると告げていた。
──面白い。
この世界で初めて、そう思える他者に出会った気がした。
「……名前、あるのか?」
「なかった。でも、あなたがつけてくれた。『リトラ』って」
ああ、そうか。そうだったな。
電海の底で拾ったノイズの塊。
それを俺は、リトラという個にした。
ただのゴミデータだったはずが、今こうして目の前にいる。
「なら、お前はリトラ。俺が名付けた、お前だけの名前だ」
「……リトラ、か」
その名前を、何度も小さく口にしながら、彼女──リトラは少しずつ、自分という形を持ちはじめていた。
それが、この奇妙な関係の始まりだった。
仮想空間に灯る、唯一の感情と呼ばれた存在。
そして、世界をつまらないと嘯きながら、それでも見捨てなかった情報屋。
この日から、俺たちは毎日、少しずつ言葉を交わすようになった。
名もなきノイズと、孤独な観測者の奇妙な日常が、始まった。