PV500超え記念番外編 300℃の戦い
これは、少し未来の、なんともないお話。いつか、こんな時間が訪れるのだろうか。
名もない日常。
戦いも、疑念も、役割も――少しだけ脇に置いた、とある午後の記憶。
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扉が音もなく閉じられる。
情報屋としての依頼を終え、リトラがノクテラの中枢――彼と共有する空間に戻ってきた時だった。
うっすらと漂う焦げた匂い。
そして、床に点々と伸びるオリーブオイルの痕跡。
彼はいた。
フードを目深に被り、袖まくりをしたまま、キッチンの前で仁王立ち。
髪に粉、頬にトマト、指先は熱に赤く染まっている。
「お、終わった? ごめん、ちょっと今、窯の前で死闘してた」
「……窯?」
立ち止まったまま、リトラはわずかに眉を寄せる。
どこか呆れたように、けれど疲れた様子は見せなかった。
シグルは、真面目な顔で振り返る。まるで国家機密でも語るかのように。
「今日のテーマは《外カリッ中モチッの至高マルゲリータ》。
三〇〇度で一気に焼き上げるには集中力が要る。
ほら、適当にやってたら世界のバランスが崩れるじゃん?」
リトラは、その言葉の意味を分析するでもなく、ただ静かに見下ろした。
目元にうっすらと、呆れという名の影がさす。
「……私が今まで見てきた人間の中であなたくらいだと思う。情報屋のスケジュールよりトマトソースを優先したバカは」
フードの奥で、彼がにやっと笑うのが見えた。
悪びれもせず、むしろ嬉しそうに。
「任せられる相手がいるからできるんだよ、な?」
その一言に、リトラは応えない。
沈黙――けれど、それは否定でも怒りでもない。
短い間の後、ふと、口元がかすかに緩んだ。
ほんの一瞬。
仮想空間にあって、確かに生きているひとの仕草だった。
「……次、手伝わせて。どうせ後で食べさせられるから」
その声は冷たくも淡々として、けれど、温度があった。
ノクテラの仮想キッチンに、静かな火が灯る。




