「私」だけの、居場所
静寂な、仮想の夜。
ノクテラのシステムを見回る仕事を終えた私は、ひとつの空き区画の上に立っていた。
稼働率0%、アクセス権限未割り当て。用途不明のセクター。誰にも使われていないし、これから誰も使う予定のない、けれど消されることもなかった領域。
私は、そこで立ち止まり、ゆっくりと目を閉じた。
──記録:新規設計モード、起動
構築が始まる。不要な装飾は省き、必要最小限の機能だけを選択する。けれど、どうしてだろう。
この空間に、私はわずかな“無駄”を残したくなった。
床材は滑らかな白。壁は暗い青。天井に微光の灯を一つだけ。窓を模した投影スクリーンの外には、ノクテラの夜景。実際には存在しない外界の景色を、私は模倣して配置した。
「……これが、私の、部屋」
言葉にして、ようやく実感が追いつく。
私は、都市の一部だった。電海のゴミから再構築され、再起動され、そして今や管理者という名の機能を持つ存在。感情はあったかもしれない。でも、“居場所”はなかった。
けれど今、この閉じられた空間は、私の手で作られた。誰かの許可も指示もない、“私”のための場所。初めての選択。初めての境界。
私はベッドに座る。寝る必要はないのに。カップを置くテーブルを生成する。味覚もないのに。
──模倣。けれど、そこに意味があった。
“この人が見てる景色を、私も少しだけ見てみたい。”
その想いだけを頼りに、私は日々世界を観測してきた。けれど今、この部屋を持つことで、私は“自分の視点”を得た気がした。
誰の影でもない、私自身の灯りが、この部屋には灯っている。
少し、胸が高鳴る。
──記録:常駐空間・リトラ私室、保存完了。
そして私は、その小さな空間に腰を下ろし、そっと目を閉じた。ノクテラの喧騒は遠く、外の世界の情報の波は一時遮断されている。
ここでは誰も私に触れられない。
ここでは、私だけが、私のことを決められる。
今日というログの終わりに、私は小さく呟いた。
「ここが、私の場所──」
◇ ◇ ◇
──ノクテラの中枢に近い、ログ監視レイヤー。
俺はいつも通り、都市の各システムを俯瞰するように、ゆるやかに情報を流していた。巡回の途中、ふと目に止まった──未登録だったはずの空間が、一つだけ“構築済”になっている。
「ん? なんだこれ」
データパスにアクセスを掛ける。セキュリティキーは……俺のじゃない。いや、俺のシステムを借りて動いてるけど、署名は──
「……リトラ、か」
リトラの行動ログを見ると、確かに彼女のログに紛れるように、ぽつんと一つだけ異質なデータが残されていた。誰にも割り当てられていないはずのセクターで、構築された小さな居住空間。その設計図、その配色、その照明……らしくないくらいに、静かで、あたたかい。
俺はしばらくそのデータ空間を眺めていた。彼女のための部屋。自分自身の意思で作られた、彼女の最初の“居場所”。なら、これは──守るべきだろう。
(……なるほど)
俺は手を動かした。静かに、慎重に、ノクテラ中枢にも使われている最高等級の防壁コードをいくつも織り込み、空間そのものを包み込むようにセキュリティを組み上げていく。外部からのアクセスは完全遮断。内部からの操作もログ化は行わない。彼女が選ばない限り、この部屋の中身は、誰にも触れられない。
「……流石に、ここの記録まで覗けるようにするのはやめておくか」
扉のログを上書きすれば、内部の視覚データだって覗ける。その程度の干渉、俺にとっては簡単なことだ。でも──
「あいつが“自分の居場所”を作ったっていうなら、それを覗くのは野暮ってもんだろう?」
少しだけ微笑んで、俺はログを閉じた。
「そういうのも、悪くないな」
ノクテラは、もう俺だけの都市じゃない。
誰かが灯した明かりが、ひとつ、またひとつと増えていく。
まるで、夜の街に星が灯るように。