間話 偽名の教室と、陽光の仮面
現実世界の朝は、ノクテラのそれと違っていた。
演算で生み出された昼光ではなく、気まぐれな雲間から差し込む不安定な日差し。校舎のガラス越しに照りつける光が、椅子の背もたれに斜めの影を落とす。
彼の机の上には、何もない。
教科書もノートも、ペンすらない。かろうじて手帳のような端末が伏せられているだけで、黒板に目を向けることもない。
周囲の生徒たちは、その存在を妙に気にしない。ある者は眠り、ある者は内職し、ある者は真面目に教師の話をメモしている。彼の隣の席は空いていた。
──炬燵 雷
この教室では、そう呼ばれている。本人がそう名乗ったから、周囲もそう認識している。ただ、それ以上の情報を持つ者はいない。
住んでいる場所も、過去の学校も、家族構成も。誰も尋ねようとせず、彼も語らない。
シグル──いや、雷は、その距離感を心地よく思っていた。
彼はあくまでここでは“誰でもない”。履歴も背景も、空っぽの存在。ただの学生として、適度に関わり、適度に流し、情報を抜き取る。
この学校に来る理由はただひとつ。外部との接点を“人の皮”を被った状態で保つため。
──学校という場所は、一定の匿名性と閉鎖性を持つ“生”の情報収集ポイントでもある。
生徒たちは無自覚なまま、日々の中で小さな真実を漏らしていく。家業、趣味、政治、時事、家庭の空気。何気ない言葉の中に、都市では拾えない“現実”の痕跡が隠れている。
放課後、体育館裏で誰かが喧嘩をしている声。
美術準備室で眠っていた古いデータ端末。
職員室の雑談から漏れた「認証エラー」や「転校処理」の言葉。
彼はそれを全て聞き流しながら、必要なものだけを引き取る。耳に残す。必要なら記録する。
──けれど今日は、妙に“虚”が多い。
三限目の空白。授業中のデータも、発言の記録も、断片的だ。音が薄く、情報が軽い。何かが起きている、というより、何かが起きなさすぎる。
ノクテラと同じだ、とふと彼は思う。
静かすぎる都市。誰もいない管理卓。
リトラが今、あの空間をどう維持しているかを、彼は意識の片隅で感じていた。
「あーあ、もう限界……午後サボるかも……」
前の席で、女子生徒がつぶやく。誰にともなく。教科書の間から顔を伏せ、寝ようとしている。午後は選択科目。抜けてもバレにくい。
──ふと、彼女がノートを落とした。
雷は反射的に拾い、手渡す。その時、彼女の手が軽く触れた。
「あ、ありがと……炬燵くんって、指、冷たいんだね」
そう言って笑う彼女の目を、彼は一瞬だけ見た。
その目は、何の疑念も持っていなかった。彼の名前を本名だと信じて、そこに「人間」がいると信じて、目を向けていた。
彼は少しだけ笑い、黙って席に戻る。
──生きている、ふりをする。
ここではそれでいい。誰も気づかない。誰も知ろうとしない。
だが、それでも、と彼は思う。
ノクテラと違って、ここには確かに人がいる。感情が、体温が、重力がある。
そして、嘘はあまりに自然に溶け込む。
「炬燵 雷」という偽名で生きるこの教室。
それは、“シグル”という存在をどこまでも薄める場所であり、同時に外界を観測する仮面の“窓”でもあるのだ。