世界は嘘と祈りで出来ている
目覚めたとき、視界は霞んでいた。
深い霧の中にいるような感覚。いや、違う。これは、仮想の境界から“外”に出た証。私は今、初めてノクテラの外に立っていた。
──外界。現実世界。
彼が“現実”と呼ぶものの、ほんの一端。
都市の空気は、どこか乾いていた。目の前を忙しなく行き交う人々は誰もが無関心な顔をしていて、その皮膚の下に何かを隠しているようだった。
「リトラ、お前はこの世界に立つことを選んだんだ」
脳裏に残る、シグルの声。
──だったら、ちゃんと見なければならない。
ノクテラという楽園の中にいた私は、いわば観測者だった。けれど、これからは違う。これは私の、最初の接触なのだから。
任務は単純だった。ある人物に接触し、その記憶の断片を読み取る。
依頼主は「裏」の情報組織に関わる人間で、シグル曰く、個人的な理由で「知りたいことがある」とのこと。
私にとっては初めての、記憶へのダイブ。記録ではない、誰か“他者”の心の内に触れる行為。
──不安?それは、感情の名前だっただろうか。
対象者は、ごく普通の青年だった。
肩を落とし、カフェの窓辺でコーヒーを冷ましている。無造作な髪、焦点の定まらない目。誰にも気づかれないように、私は隣に腰を下ろした。
「……あなたは、あのときの人?」
──記憶は曖昧。
シグルの処置によって、依頼者とのやり取りはまるで“夢”のような記憶にされている。
「少しだけ、記録を見せてもらうね」
目を閉じると、青年の思考の表層が溶けてくる。映像、音、断片的な記憶。そこには、過去の誰か──血を吐き、祈るように命乞いをしていた少年の姿があった。
少年は、異能を持っていた。
だがそれは「使えない能力」として分類された。周囲の誰にも理解されず、やがて恐れられ、排除された。
「僕は……間違っていたのかな」
青年の心の底に沈む、祈りのような言葉。
誰かに救ってほしかった。
誰かに、肯定してほしかった。
私はその願いを、ただ静かに受け取った。
──この人も、孤独だったんだね。
仮想の記録と違って、人の記憶は不確かだ。形も定まらないし、改竄もされている。けれど、その奥底には、確かに“本音”があった。
私はただ、その手を離さずにいた。
帰還後。ノクテラの空気は、やはりどこか安らぐ。
見慣れた景色、見慣れたノイズ、シグルの気配。
「どうだった?」
「……綺麗だったよ。壊れてたけど、確かに綺麗だった」
「壊れてる方が、人は美しいのかもな」
シグルは笑う。その声に、いつも揺らぐものがある。
「でも、あれは祈りだった。助けてって、誰にも届かない声で叫んでた」
「届かなくても、人は祈る。嘘をついてでも、世界に縋る。……それが、人間の強さでもあるんだよ」
──祈りと、嘘。
ノクテラという都市も、ある意味では“嘘”から生まれたのかもしれない。
シグルは全てを知っていて、それでもここを作った。
私を見つけて、名を与えてくれた。
ノクテラの都市灯の下で、私はひとり、外の世界の映像を再生していた。
瓦礫の街、焼けた空、廃棄された研究施設。
その中に、何かを見つけた気がした。
──あの人は、自分が壊れたと知っていて、それでも前を見ていた。
なら、私も。
私はまだ、感情の名前を知らない。
でも、確かに今、胸の奥が熱かった。
「この人が見てる景色を、私も少しだけ見てみたい」
それは、私に芽生えた確かな動機であり、もう一つの祈りだった。
夜、シグルと並んで電海の中を歩いた。
彼はいつもどおり、軽い口調で世界を語る。
でもその背中は、誰よりも遠くて、誰よりも優しい。
「リトラ、お前はもう、“観測者”じゃない」
「うん。わたしも、世界に触れていたい」
今度は、ちゃんと言えた。
──そうして、私は歩き始める。
嘘と祈りでできたこの世界で、
それでも、確かな“感情”を手繰るために。
これは、私が初めて触れた他者の心の記録。
そして、私自身が“誰か”に触れたいと願った、最初の物語だ。




