3-07 メカラミント
広い庭のある家で、「私」は日々、草木の手入れに勤しみ、美しくも妖しい花々を慈しんでいた。そこに咲く花の多くは目を持ち、「私」はそれらをとくべつ可愛がった。自分の目も、草花の中にあればとさえ願っていた。そんなある日、「私」は自分の視界がおかしいことに気がつき――
平凡な日常から一転し、自らが幻想の一部に組み込まれる快感。周囲の人間の目を気にすることなく、花々の目だけを正義とする偏った思考。
興味の道を踏み外した人間は、やがて花々の悪意に侵されていく。
目というのは増殖する。
植物の――なかでもマーガレットの目は顕著だ。こんもり花をつけたひと株のうち、たった一輪でも花芯に開眼させたならば、翌朝にはその株すべてに目がついていたなんてこともある。
そういうときは朝の水やりに庭へ出たとたん視線の圧が違うとわかるから、「あ、増えたな」と私はしたり顔で挨拶回りをすることになるわけだ。
「ようこそ、我が庭へ! 水の加減は問題ないかしら。栄養は足りてる? 困ったことがあれば遠慮なく教えてちょうだい。
――おはようコスモス。いい朝ね。ダイアンサスはまたお寝坊? 香りが弱いと思ったら、目がちゃんと開いていないじゃない。あら、ガウラは今日も可憐だこと!」
口のついた花を見たことはないので、とうぜん返事もない。返されるのは挨拶のまばたきだけ。ちょうど二輪が並んで咲いたところで片目を瞑ってみせるような、茶目っ気のある花もたまにいるけれど。
それから、気位の高い花などは少しでも気に入らないことがあればその目力を強め、睨んでくる。とくに高芯咲きの薔薇はすごい。私が彼らの環境を改善しないままでいるとすぐさま鋭い棘をずいっと向けてくるし、中心にそほりと覗く黒目には瞳孔が赤く切り開かれ、庭を散歩する私を脅すのだった。
*
わあっと子供らのはしゃぎ声がして、その直後、ぎいん、とつるが鳴る。
フェンスの門扉から覗けば、同じくこちらを覗いていたらしい十歳くらいの子供たちと目があった。
「げええ。魔女がいやがった」
「また目のついた変な花、育ててるぜ」
「あの花と目があったら石になっちゃうんだぜ」
「ようしかかれぇッ! 魔女狩りだああッ!」
「やああああ!」
ふうん、今日はそういう設定なの。そう思いつつも黙ったままでいれば、彼らはすぐ私に興味をなくし(じっさい私は魔女でもなんでもなく、それどころか誰かに興味を持たれるような者ですらない)、「花の妖怪めッ」と叫びながら庭に向かって木の棒を振り回した。
独り暮らしには広すぎるこの庭で遊んでみたいのか、近所の子供はよく、虫やら石やらを投げ込んでくる。あの年齢で開眼した花々の魅力に気がつくとはたいしたものだが、とはいえ私も大事な庭をやられっぱなしにしておくつもりはさらさらないので、レンガ塀にはつる性植物の精鋭たちを這わせていた。
つるを伸ばす植物たちは自分にとって理想の形になるための道を妨げられることを嫌い、とくに花期は文字通り目を光らせて警戒にあたる。自在に動くつるは非力な子供が握る木の棒なんてあっというまに取り上げてしまえるし、取り上げたそれを見せしめに粉々にすることも忘れないのだ。
今の季節の主役は、夏から咲き続けているクレマチスだ。反り返った花びらの一枚一枚が瞳になっていて、視界の広いのが頼もしい。彼らならば、たとえ飛び回る大量のカメムシを寄越されたとしても漏れなく捕えてみせるだろう。
晴れた日は、朝の仕事をひと通り終えてから庭にテーブルセットを出してティータイムを楽しむことにしている。
今日は乾燥させておいたカモミールにラベンダー、レモンバーム、それからフェンネルのブレンドだ。ハーブティーのときはガラス製のティーポットを使うと熱湯を注いだときに華やかでいい。
準備をしていると鉢植えのキキョウはここぞとばかりに目をかっぴらき、招待客としてもてなしたまえと無言の催促をしてくる。丸みを帯びた星のような形の花は素朴な雰囲気なのに、その必死さがおかしくて「今日は黄色の会にしましょっか」と着ていた金糸雀色のワンピースを揺らしてみせる。呼応するように、花壇の黄色コーナーにいる花々が目を輝かせる。
すると青紫のキキョウは対照的に目を潤ませて、たちまち涙を流し始めた。潤み星とはこのことか、いやはや演技派である。
けっきょくは視線の圧に押し負けて(そもそもがちょっとした悪戯のつもりで、仲間はずれにするつもりはない)、キキョウやそのほかの鉢植えはテーブルの周りに配置し、目をとろんとさせて花期の終わりを告げるものは切り花にして花瓶に飾り、それから水やりの際拾っておいた花がらをあたりに撒いた。もちろん、地面に撒くのは最後まで目の開かなかったものだけ。
ポットでほどよく蒸らしてからカップに注げば、ティータイムの始まりだ。
ほわんと広がる、甘さと爽やかさの混じる香りの、なんと優雅なことか。ティーカップを持ち上げ口へと運ぶ私の動きひとつひとつに、花々の視線の圧がかかり、それだけで満ち足りた気分になる。
風が吹き、背丈の高い花たちは気持ちよさそうに目を細めて揺れている。
しばし私も、庭やお茶の香りや、風の感触を楽しんだ。
夏の気配が薄まると、季節の花は落ち着いた色あいになる。それでいて瑞々しさを損なわず、透き通るような光の反射がよく映えた。
とくにコスモスは花芯でなく花びらのあちこちにガラス玉のような目をつけるので、朝夕はななめに陽を受けてふくりと光る。朝露や雨上がりに濡れた一般的なコスモスもまたよいものだが、薄闇のかかる景色の中で瞳に哀愁を宿した咲き姿のよさは筆舌に尽くしがたい。
ところで、サルビアやゼラニウムといった思想の強い花と過ごすティータイムは話題に事欠かない。
もちろん政治や宗教の話などはせず、天気の話や、瞳の色と花びらの色の最適な組みあわせや、種のときから目が出ることを意識していたのかとか、そういう話をする。
二杯目のハーブティーで唇を湿らせながら、私は周りの花々を見回した。今日の話題は、眼精疲労についてだ。
「私はね、書類仕事で目がしぱしぱしてどうしようもなくなったらヒイラギの木を眺めることにしているの。ほら、仕事部屋の窓からはちょうどいい距離にあるし、一年中、濃い緑が絶えないでしょう? 緑は目にいいのよ。その点あなたたちはいっつも緑に囲まれているじゃない。疲れることはある?」
私の関心は言わずもがな、彼らの目にあって、興味は尽きることがなかった。ああ、自分の目も彼らの中に増やすことができたならば、知りたいことをもっと知れるのに!
それでも、こうして間近に交流できるだけでも幸せなこと。もういちど花々を見回し、花壇のところで目をとめる。たいてい、私の質問にいちばん早く反応してくれるのが、そこに咲く鮮やかなゼラニウムなのだ。
コスモスは例外だが、キク科の花の多くはその細い花びらをまつ毛に見立てている。いっぽうでゼラニウムのように丸っとした花は瞳の縁にきちんとまつげを生やしていて、まるで「疲れる……? 知らないわ」とでも言うかのようにパチパチと濃いピンクの目をまたたかせた。
「疲れないのはいいことだわ。目が痛くなると、頭や、肩まで調子が悪くなるのだもの」
私がそう言うと、ゼラニウムは「それは困るわね」というふうに目を伏せる。雄しべに似た、けれども明確にまつげとわかるそれが瞳に影を作って、悲しげに見えた。目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだ。
そしてサルビアはといえば、花穂ごとに思想が違っているらしく、普段から花穂どうしで視線による議論を交わしているのを見る。が、眼精疲労については全会一致で「ある」ようだ。筒状の花びらにしまわれた小さな目、目、目が、連なる鈴のように疲労を訴えかけてくる。とくに穂先、咲いたばかりの花の目は主張も激しく、自らの立場を嘆くよう。先端はよく揺れるので、酔いやすいのかもしれない。
「サルビアの目が疲れてしまわないようにするには、どうしたらいいと思う? ねぇみんな?」
花の種類によってさまざまな反応が出てくるのを見ながら、やはりできることなら、自分の目として実感してみたいという気持ちが湧き上がってくる。
私の目も彼らの中にあったなら、どれだけ嬉しいだろう?
*
その日、私は目に違和感を覚えながら起床した。
視界の一部が緑に染まり、まばたきのたびに異物を感じる。病気だろうか。ならば触らないほうがいい。とりあえず鏡を見てみなければと洗面所へ急ぐ。
鏡に映る自分と向かいあい、私は言葉を失った。
その緑は、紛れもない、ミントだ。私の両目から、ミントが生えている。
私の目も彼らの中にと願ったから? それとも先日、夏に伸びたぶんを切り戻したときに根っこでももらったのだろうか。ミントの繁殖力がとんでもないことは知っていたが、まさかここまでとは。
とにかく、私の目が植物との繋がりを得たことは事実。
小躍りしたい気分で、寝間着のまま、朝露に濡れた庭へ出た。また、こちらに刺さる視線の圧が強くなっていて、どの花かが目を増やしたなと思う。でも今は、個別の挨拶は後回しだ。
「おはよう、みんな!」
私の身に起こった喜ばしい変化を彼らの視界に入れるべく、中腰でくるくると回りながら、目を見せて回った。
これ以上の言葉は要らない。だって、ああ、目があっているのだから!
目から生えたミントがもう少し育ったら、庭に植え替えてみるのもいいかもしれない。そうしたら今度こそ本当に、私の目も草花の中に増やせるかもしれない。
そんなことを考えながら庭の端まで行けば、レンガ塀の精鋭、クレマチスがするすると蔓を伸ばしてきて、私は、差し伸べられた手のようなそれを、大きな喜びでもって掴んだのであった。