3-22 運命を紡ぐ女たち
ヴィンクルム領主であるアルットゥリ伯爵が、隣領との戦いで無残に命を落とした。
領地を守るために残されたのは、冷徹な知性を持つ伯爵夫人キルスティと、二人の愛妾、イェレナとロヴィーサだけ。
嫡子がいない状況で、まだ幼い庶子たちを後継者として担ぎ上げるには、あまりにも多くの困難が待ち受けていた。
ヴィンクルムは混乱と不安に包まれ、隣領の脅威が刻一刻と迫る。
三人の女たちは、互いの憎悪や疑念を飲み込み、命運を共にする覚悟を決める。
領地を守るため、彼女たちが手に入れるべきものは、ただひとつ――「勝利」のみ。
キルスティの冷静な指導と、愛妾たちの隠された能力が、混沌の中でどのように花開くのか。
そして彼女たちは、この危機を乗り越え、新たな時代を切り開くことができるのか?
波乱の運命が交錯する中、緊迫した戦いが始まる。
くすんだ白の石灰岩で築かれた高く分厚い城壁は、幾度も敵の侵攻を撥ね除けてきた。見渡す限り、収穫が終わった麦畑が広がっている。ぽつんとそびえる城塞は、大海に浮かぶ孤島のように外界から隔絶され、ただ嵐の到来を待つばかりだった。
夫アルットゥリの留守を預かるキルスティは、城壁の上で風雨にさらされ粗くなった岩肌を指でなでた。しっかりとかみ合い微動だにしない石積みは、彼女に安心感を与えてくれる。
(ふらふらと花から花へ飛び回る夫より、よほど頼りになる)
アルットゥリは幸運な男だった。後継者であった兄が狩猟中の事故でこの世を去ると、領主としての地位と権力が転がり込んできたのだ。父親から期待されず、半ば放任されて育てられた身には望外の僥倖だった。
だが、兄の婚約者までもが彼に転がり込んできたのは予想外だったろう。キルスティは彼の好みから外れていた。貴族として高度な教育を受けてきた彼女は理屈っぽく、一歩も引かない頑迷さを持ち合わせており、気分屋の夫とは決定的に相性が合わない。何より、長身の彼女から冷ややかな眼差しで見下ろされると、彼はしばしば言葉に詰まり、会話は怒号で終わることが多かった。
結婚前からアルットゥリは何人もの女性と浮名を流していた。癖のある金髪と吸い込まれるような深い青い瞳。西方の民族の血を引く母親の美しさを受け継いでいた彼は、女性からの好意に無頓着だった。
結婚後、間もなくして愛妾を迎え入れ、キルスティとの接触を最低限に抑えた。それが互いの平穏のためと言わんばかりの行動だった。しかし、キルスティを放っておくわけでもなかった。
彼女の能力を高く評価していたアルットゥリは、領政をほとんど彼女に任せ、自分は外交と軍事に専念した。彼は地道な積み重ねよりも派手な成果を求めた。
しかし、複雑な力関係でバランスを保つ周辺国の状況は、若輩者のアルットゥリが立ち向かうには重すぎた。同盟国の制裁に関与した彼は矢面に立たされ、隣領へ軍を率いて攻め込む羽目になった。
勝利してもほとんど利益のない争いに身を投じた夫のことは、キルスティにとって頭痛の種だった。軍隊は金を食う。武器、鎧、果ては糧食まで。これまでの蓄えはあっという間に消えてしまった。彼女は眉間の皺が深くなるのを感じ、こめかみを両手で押さえた。
伝令の馬が門をくぐったのは、それから間もなくのことだった。
***
執務室で待っていたキルスティの前に、二人の女が集まった。
一人はイェレナ。庶子ではあったが、侯爵家に連なる血筋。芸術に対する造詣の深さと美しさは評判だった。彼女の手作りの洗髪料は社交界で人気だった。背丈は低い。
もう一人はロヴィーサ。大商会の長女で金勘定に長けている。困窮する貴族に金を貸し、その代わりに権益を得ることで、実家の商圏拡大に余念がない。背丈は低い。
「アルットゥリが亡くなったわ」
キルスティの言葉に二人は息を飲んだ。
「本当ですか……、何かの間違いでは?」
「伝令が届けてくれた騎士団長からの手紙よ。確認してくれる?」
一縷の望みにすがるイェレナの問いを切り捨て、キルスティは手紙をロヴィーサに渡した。癖のあるサインを見て、ロヴィーサは頷いた。
イェレナは息を飲み、机に突っ伏して嗚咽を漏らした。沈痛な面持ちのロヴィーサは、呆然と立ち尽くすばかりで動こうとしない。
手紙に記されたアルットゥリの最後は、決して誉れ高いものではなかった。街を巡る戦いに勝利した彼は、市庁舎を占拠し、娼婦を呼んで楽しんでいるところを奇襲され、裸同然で逃げ出した末、堀に落ちて溺死したという。名誉は地に落ち、泥にまみれていた。
「彼の死が何をもたらすか、理解しているわね?」
キルスティの感情を押し殺した声に、顔を上げたイェレナはハンカチで目頭を拭いながら呟いた。
「……後継者が決まっていません」
「そう、子供たちはまだ幼いわ」
アルットゥリには二人の庶子がいた。イェレナとロヴィーサの間にそれぞれ一人ずつ、八歳と七歳の男の子だ。どちらも飛び抜けて優秀なわけではないが、父親の血を受け継ぎ、蜂蜜色の髪と澄んだ泉のような瞳を持っている。彼らに領主となれる教育を施しているのは、父親と同じ轍を踏ませないためのキルスティの思惑があった。
「隣領が攻めてくる可能性があるのでは?」
「こちらが先に攻めたのだから、恨まれていて当然よね」
ロヴィーサの心配はもっともだった。逃げ帰るはずの騎士団は、どれだけ生き残っているのか分からない。隣領の兵力がどの程度かも分からない。足りない兵力を傭兵で補うにも資金が必要だ。足りないものだらけだった。
「それで、あなたたちはどうするの?」
愛妾たちに対してキルスティが良好な関係を築いていたとは言い難い。アルットゥリは彼女を蔑ろにし、面倒ごとを押し付ける一方で、子供を残さなかった。愛妾を笑顔で迎え入れるわけではないにしろ、家から追い出すような対立関係でもなかった。お互いに逆鱗に触れないよう、適切な距離を保っていただけだった。
「息子は、後継者になれるのですか?」
「ご存じの通り、継承権を持つのはあなたの息子だけではありません。もっと慎重に考えるべきですわね」
「それは、その通りですが、息子は先に生まれていますし……」
「たった一年早く生まれただけで優位に立てるとは限りません。誰が領主に相応しいか判断が必要ですわ」
イェレナとロヴィーサは一歩も引かずに睨み合った。自分の息子が領主になれる幸運が巡ってきたのだ。この機会を逃すわけにはいかない。言葉の応酬は次第に熱を帯びていった。
キルスティは言い合いを続ける二人を冷ややかに見つめていた。彼女の関心は希望よりも現実、この領の未来だった。座して待つだけでは隣領に飲み込まれて終わるだろう。その後、領主の家族がどんな扱いを受けるか。修道院に送られ、死ぬまで幽閉されるならまだマシな方かもしれない。
「後継者は決めないわ」
キルスティの宣言に、二人は息を飲んだ。後継者を決めないということは、彼女が領主代理として利益を独占するという意味に等しい。とても認められるものではなかった。
「私たちが生きる糧は、この領から得ている。後継者争いで内部対立して、どうやって敵の攻撃から守れるというの? 戦うか、逃げるか、今ここで決めなさい!」
キルスティの強い口調に、イェレナとロヴィーサは、金勘定をする目に変わった。イェレナは社交界に人脈を持っているが、逃亡先で兵を挙げる器量がないことを自覚していた。ロヴィーサの実家は大商会だが、ここを本拠地として大きな利益を得ている。二人とも、逃げた先で浮かぶ瀬がないのだ。
「……協力したとして、何かしらの保証は必要です。危機が去った後に追放されるようなことがあれば、それこそ希望を失ってしまいますから」
「そうですわね。考えたくはありませんが、息子が跡を継げない可能性も受け入れなければなりません」
これまでの生活で三人の間に信頼関係が築かれていたわけではなかった。少し前まではアルットゥリを中心に牽制し合う間柄だった。これからの人生を賭けるには、かなり分が悪い。
「私たちをつなぐものは何? 愛、友情、尊敬? そんなものは信じられないでしょう? 私たちが共通の価値を認めるのは、ただひとつ。利益だけよ」
キルスティの微笑みに、二人は笑みで応えた。難しく考える必要はない。簡単なことだ。お互いが自分の利益のために最大限の努力をする。運命共同体となった三人が利益を得るためには、協力するしかない状況を生み出せばよい。
「税収から上がる利益を証券化して三等分にしましょう。より多く儲けたければ、領を発展させればいい。子供たちが成人した暁には、最も優秀な者に跡を継がせるわ。それまでは私が摂政として、この領を治めます」
後継者争いを棚上げする形になるが、競争に負けても別の道を選べるだけの余裕が生まれる。それだけの金が懐に入るはずだ。領政を取り仕切っていたキルスティの手腕があれば、混乱した領内を迅速に治めることもできる。
「……私は賛成します。契約には教会の仲介をお願いできれば、なお安心です」
「承知しました。その提案を受け入れますが、当然、勝算があるのでしょうね? それを確信させていただけますか?」
喫緊の問題は隣領との争いだ。三人の中に軍務を経験した者はいない。軍隊を率いる人材は、帰還するかどうかも分からない騎士団長ぐらいだ。兵士の数も足りないだろう。
「正直、勝つ見込みは薄いわ。やれることをやるしかない。とりあえず、糧食の確保を進めましょう。収穫後だったのが救いね。イェレナ、援軍を求める手紙を知り合いに送りなさい。ロヴィーサ、商会から資金の提供を頼むわ」
「もちろん、利息はきちんと計算させていただきますわ。条件を明確にしましょう」
「法外な利率は取り締まりの対象よ」
口元を歪めるロヴィーサに、キルスティは軽口を返した。三人の笑い声が部屋に響いた。