3-13 何かがオカシイ百合の家
夏休み。絢祢は百合の家にいた。百合の家でくつろいでいた。しかし徐々に身の回りでヘンなことが起こり始める。やがて絢祢は百合に疑念を抱くようになるのだが、そこで「百合の家」に関する驚愕の事実が判明して……。
パチンと音がした。
そのあとまたパチンパチンと頭のなかで音が弾けた。
「次の回のバッターは、一番、セカンド、三橋くん。二番、サード、四宮くん。三番、フォース、五木くん」
天願絢祢はファッション雑誌から顔をあげた。
テレビに目を向ける。六十五インチの液晶パネルには球場が映しだされている。夏の甲子園大会の中継だ。
二回戦。東京と神奈川の代表校同士の対決だ。焦げつくような日差しがピッチャーマウンドに降り注いでいる。
絢祢は首をかしげた。同時に二の腕をさする。絢祢のいるリビングルームは少し冷房が効きすぎていた。半袖だと肌寒い。
本革のどっしりとした四人掛けソファから身を乗りだす。正面にあるセンターテーブルに手を伸ばす。その上のテレビのリモコンをつかんだところで動きをとめた。首だけで後ろを振り返って呼びかける。
「百合ちゃーん、テレビ変えていーい?」
「いいですよー。ご自由にどーぞー」
ダイニングの向こう、キッチンのほうから声が返ってくる。パタパタと戸をせわしく開け閉めする音がする。
「ありがとー」
と絢祢がいうのと重なるようにガシャンと大きな音が響いた。
何かが落ちて砕け散った。バラバラになった食器の姿が頭に浮かんだ。
「大丈夫ー? 手伝うよ」
絢祢は腰をあげる。すると近くで何かが動いた。若草色のラグマットの上で寝そべっていたポメラニアンが、すっくと身を起こしていた。綿あめみたいな身体をぶるりと振って寄ってくる。
「大丈夫ですー。先輩はお客様ですから、そこで座っていてくださーい」
「でも」
絢祢は足にまとわりついてくるポメラニアンを撫でながらいう。
「座っていてくださーい」
パチンと耳の奥でその声が弾ける。絢祢はソファーの座面に尻を落とした。
テレビに目を戻す。
チャンネルを変える。
男と女が映った。横に並んでたっている。女はエプロン、男のほうは調理白衣姿だった。料理番組のようだ。
絢祢が画面の右上に表示された数字を見ると、時刻は昼を少しすぎたところだった。
「今日はですね、スズキのフライをつくっていこうと思います」
男が爽やかな笑顔でいう。肌が浅黒く焼けていて調理白衣が似合っていない。袖からは筋ばった腕が生えている。
「栄養満点。夏バテ気味の身体にガンガンキマリますよ」
「まあ先生ったら」
女がうふふと笑い、右腕を上に突きあげる。
「ではさっそく調理していきましょう。レッツ・クッキング。意味の重複」
二人が横に数メートル移動する。映像がそれを追う。男女がいる空間はレンガ造りの家の内部を思わせた。そういうセットなのだろう。奥のほうには、観葉植物やシンプルなつくりの椅子や机が配色鮮やかに設置させている。
「わあ、大きいですね」
調理台に横たわる魚を見て女が目を見開く。かなり芝居がかっている。男と女は大きな調理台の向こう側に位置どった。腰から下は隠れて見えない。
「実物を見るのは初めてですか?」
「ええ。じつはお刺身とか、スーパーでパックにされているものしか見たことがなくて」
「スズキはですね、出世魚なんですよ」
「出世魚とは、どういった魚のことなのでしょう?」
女がカメラ目線で訊く。
「成長と共に呼び方が変わる魚のことです。そうですね、人間でたとえていうと、もしこのスズキが雌なら、大人の女性ということになります。脂が乗った年齢の……って、なにをいってるんでしょうね」
「まあ先生ったら」
女がうふふと笑う。先ほどとまったく同じ顔と声だ。
「そしてできあがったものがこちらです」
突如女が調理台の陰に身を屈め、ものをとりあげるような格好をする。
男があわてて横から制止に入る。
「早いです早いです、まだ早いです、早見さん、まだ早いです」
「すみません終わりかなと思って」
「今しがた始まったばかりじゃないですか」
「いいえ、そうではなくて。この番組が破綻したと思って」
「えっ、それはどういう意味ですか?」
男が目を丸くする。
男のほうは見ず、女は画面に向かっていう。
「だってこの番組のコンセプトは三分さくさくクッキングですよ。放送時間もそれに合わせて短いのに、魚をさばくところから始めようだなんて」
目線を視聴者に送り続けながら顔を左右に振る。
「それであんなマネを?」
「ここに魚の姿が見えた途端、逃げだしたくなりました」
「なるほど」
男は神妙な顔で一つ頷いたかと思うと、ニッと白い歯を見せた。
「でも大丈夫ですよ。僕に任せてください。これでも一応プロですよ」
腕を見せつけるようにガッツポーズをする。不安げな表情のままの女に続ける。
「それに三分っていったって、何だかんだ十分弱は放送するでしょう? この手の番組は。まだ諦めるには早いと思いますよ」
僕を信じてください、と男は女の顔を見つめる。こういう相手は手慣れたものです、といいながら成熟した魚体を撫でる。
女は一瞬顔を伏せたあと、くっと顎をあげた。まっすぐカメラ目線になった。
「そうですね。台本を信じようと思います」
「そうこなくっちゃ」
男は弾んだ声で応え、包丁を手に調理台に向き直った。
「それじゃあさっそくおろしていこうかな」
そして腕を振りあげると、包丁を魚体に打ちつけた。小さく悲鳴をあげた女に構わず、太い腕で魚を押さえつけて前のめりに身を剥がしていく。
「あのう、結構乱暴になさるのですね。もう少し丁寧にされたほうが……」
女がおびえた様子でいう。
「熟女ですから。多少強引におろした方がよろこばれます」
「……あ、先生。もう時間だそうです」
「えっ」
「そしてできあがったものがこちらです」
女がエプロンのポケットからさっととり出して放った。調理台の上にガムが転がる。そして女の満面の笑みが画面いっぱいに映った。
「それでは皆さま、よい一日を。ハブアグッドデイ。意味の重複」
料理番組が終わってしばらく経っても、絢祢はソファの上で固まっていた。今しがた見た光景がまだ信じられないでいた。テレビを眺めているが、音や映像はまったく頭に入ってこない。ブブと隣で自分のスマートフォンが震えたことも、どこか遠くのことのように感じた。
カチャ、カチャ、という音が近づいてきた。白いティーカップが前に置かれたとき、絢祢はようやく我に帰ったような気がした。
「どうかしましたか?」
絢祢がソファにもたれると、百合が訊いてきた。
「えっとね、なんだかちょっと、テレビの様子がおかしくて」
「テレビが? ヘンですね、買ったばかりのなのに」
そういうと小さな手でリモコンを撫でだした。
「何してるの?」
「こうすると直るんですよ。知りません?」
数秒首をひねったあとに絢祢は口を開いた。
「あの、もしかしてそれって叩くやつ? テレビを。昔の映画とかでよく見る、調子が悪い機械とかをバンて叩いて直すやつ」
「そうそう。たしかに見ますね、筋肉治療」
「おかしいよね、それ。それじゃ直らないよね?」
絢祢は百合の手元を指す。
「うちではこうするんです」
「いやでもそんなの」
「よそはよそ。うちはうちです」
「えええ」
百合が首を傾げた。彼女の長いツインテールが揺れた。
「それはそうと、テレビはどこも壊れていないみたいですよ。本当に様子がおかしかったんですか?」
「あ、ごめんね。おかしいっていうのは、べつに故障とかって意味じゃないんだ」
「じゃないなら、じゃあなんです?」
「つまり、えーと」
うーん、うーんと首を左へ右へ倒したあとに絢祢はいった。
「放送してる番組がね、なんだか普通じゃないというか」
「普通じゃないとは?」
「甲子園の試合で、野球じゃ聞いたこともないポジションの名前が聞こえたり」
「それは聞き間違いではなくて? 見て確かめました?」
百合が隣に腰かける。
絢祢はかぶりを振った。
「びっくりしっちゃって、すぐチャンネル変えちゃった。ほかの番組もおかしくなったんじゃないかって急に不安になって……確かめたくって。でもはっきりフォースっていってた。そんなポジションは野球にないよね?」
「野球のことはちょっとわからないです。詳しくないので」
百合がすまなそうな顔をする。
「ううん、謝ることじゃないよ。むしろ私がごめんね」
百合がテレビのリモコンをとってチャンネルをまわしはじめた。
「もしかしたらですけど、アナウンスの人がいい間違えちゃったとかじゃないですか?」
「あ、そうだね。たしかにそれはあるかも。でも、じゃあ、あの料理番組は――」
「気になりませんよ」
急に百合の口調が平坦になった。
絢祢は思わず隣の横顔を見つめた。
「え? 何が?」
すると百合がゆっくりと振り向いてきた。まっすぐに目を合わせてから、いった。
「先輩は、そんな細かいことは、気にならない」
ですよね。
最後にそうつけ加えたあとに、パチパチと、たっぷり間隔を開けて二度瞬きをした。それから数秒後に、また同じリズムで瞼を開閉した。彼女はその動作を繰り返しはじめた。
なにをしているんだろう、と絢祢は思った。しかしなぜだか、疑問を口にだせずにいた。おまけに百合から目が離せない。
パチパチ。パチパチ。
眺めているうちに、気づけば絢祢は、百合とまったく同じタイミングで瞬きを重ねていた。
「ね? 気にならない。でしょう?」
百合が瞬きを続けながら訊く。
「うんそうだね」
絢祢は頷いた。