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宛のない告白

態度を変える親戚達


 平穏に暮らしていると思っていた両親の仲がギクシャクし始めたのは、かれこれ七年くらい前からだった。

 簡単に家系の説明をすると父は母と離婚した後数年間やもめ暮らしだった。

 離婚した四年後に元妻が死亡すると、その頃から新たな伴侶を探し始めたようで、学生時代に恋い焦がれていた女性に連絡をとり、奇跡的に未婚だったその女性と再婚することになった。

 既に成人して実家から出ている兄と私には式を挙げる一ヶ月前に「結婚することになった」と連絡があり、あれよあれよという間に義母ができた。

 当時、私の結婚が決まっており、式の支度に何ヶ月も前から準備していた矢先、まさか父の結婚式を先に行うなどとは思ってもいなかったので、兄も私もかなり焦ったのは言うまでもない。

 私の挙式はそれから三ヶ月後。

 そのひと月前に義母の姉の娘、いわゆる姪の結婚式もあったようで、それに併せて留袖一式を誂えたようだった。

 当時はそんなことも知らず私の式に合わせて新調したものと思い、新しい奥さんを着飾ってお披露目したいんだろうななどと思っていたのだが、そういうわけではなかったようだ。

 奇しくも同じ式場にわずかひと月と間をおかずに身内として参列するというのはどういう気持ちだったのだろうか。

 義母にしてみれば自分の挙式の二ヶ月後に姪の結婚式、三ヶ月後に継子の結婚式に参列するというハードスケジュールをこなしたことになる。

 父は包容力があることを見せつけたいのか、ことあるごとに義母に物を贈り、義母と旅行し、義母の好みに家の中を飾っていった。

 兄も私も父の気の済むようにすればいいと思っていたので、義母の妹一家が年中遊びに行っていることも別段気にはしていなかった。

 仲の良い親戚が一家で訪ねてくれば、子供たちにお小遣いを与え、豪勢な食事でもてなし、お土産を持たせる。

 そうやって妻のみならず妻の親戚も大事にしていますアピールをしたいのだろうと思っていたのだ。

 その一家が食わせ者だと気付いたのは義母の認知症が進み始めた頃、父が大腿骨骨折のため入院を余儀なくされた時だった。

 親切にも義母の世話をしに実家に泊まり込んでくれた義母の妹Tさん。だが、認知症の義母を連れ郵便局に現金をおろしに行っていたことが父の退院後に発覚した。

 父は結婚当初から義母の通帳に毎月8万円を給料という名目で振り込んでいたらしかったが、結婚してから二十年もあればかなりの金額になっている筈のその残高が無い。

 顔見知りの郵便局員が義母とTさんがお金をおろしに来ていたと、後々父に教えてくれたためにお金の流れの経緯が明らかになった。

 郵便局員曰く、本人確認ができ、本人が希望すればお金は引き出せる。例えそれが高額であったとしても正式な手続きだから断ることなどしない。

 当然だ。状況的には詐欺でもなんでもない。Tさんは単に義母の付き添いとして一緒に郵便局に行っただけなのだから。

 Tさん一家は立川に住んでいる。

 その住んでいる自宅の隣の家が売りに出されたらしく、前々から購入資金を義母に無心していたようなのだ。

 当然父は同意しない。毎月振り込んでいたお金は義母の老後を心配して貯めたものだったからだ。

 それが蓋を開けてみれば義母とTさん(もしくはTさんの娘)との共同名義で立川に家を買っていたとわかった父は、自分の入院中に勝手なことをしたと義母をなじった。

 当然、今まで仲良くしていた義母の妹一家とも険悪になり、出入り禁止だと息巻く始末。

 結果、Tさんたちが実家を訪れなくなったことで、認知症の義母がやらかしてしまうあれやこれやの後始末要員として私の帰省の機会が増えた。

 父は義母に対し「家があるんだから出て行け」「お前ら一族は信用ならない」とあからさまに義母を邪険に扱っていた。

 おじさん、おじさんと懐いていた従姉妹たちもTさんと一緒で金が目的だったのかと思うと憤りが収まらなかったのだろう。

 私は「義母が自分から家を買うなんて言い出すはずがない」「Tさんにいいように言いくるめられたんでしょう」と父の言い分に反発したものの、一方的に怒られているのが気に入らない義母は父の怒りに対し「いつだって出ていけるわよ」と反論し、さらに険悪さが増すという悪循環に陥っていた。

 この当時私は義母名義の家が立川にあるという事実を疑っていた。

 Tさんにお金を無心されてお金を貸している状態だと思っていたからだ。

 まぁ、Tさんは「貰った」と言い張るのだろうから騙し取られたようなものだと義母を哀れんでいたのだ。

 父は公正証書に家の権利や財産をTさん一家に譲ると書かれていないか調べて来いと言い出し、兄まで巻き込まれそうになっていた。

 用意周到なTさんはどうやら公正証書まで作成しているらしかった。

 そこまで言うなら父も遺言書を作成して遺産配分を決めればいいのにとは思ったが、下手な口出しは返って二人の仲をこじらせるだけだと黙っていた。

 そうこうしているうちに父に今度は癌が見つかり、胃の摘出手術のために入院を余儀なくされた。

 父は認知症の進んでいる義母を一人で家に残すことが不安で、兄にちょくちょく様子を見に行くように頼んでいた。

 義母は一通りの受け答えと日常の身の回りのことはこなせていたため、側から見ればそれほど重症だとは思われない。

 しかし実のところはかなり物忘れが激しく、次々に買い込んだものをしまい込み、野菜や惣菜その他諸々が棚の中や冷蔵庫で腐り、デロデロに崩れた原型がわからない物体が家のそこかしこで悪臭を放つという状態で、冷蔵庫や食器棚や戸棚を開けるのには勇気がいった。

 当然、そういった処理は私にお鉢が回ってくる。

 私は義母の見ていない時に腐った野菜を捨てまくり、冷蔵庫を漁る私に不信感を覚えてつきまとう義母の前で消費期限が何ヶ月も前の鮮魚や肉、異臭を放つ腐った物体を見せて、「これ、捨てますよ」と納得してもらっていた。

 義母に気を使う私に対して、父は今まで黙っていたTさん一家の数々の悪行を吹聴し、義母を孤立させようとしているようだった。

 見舞いに行くたびに不平不満を口にする。

 入院していれば気も滅入るし、とにかく言いたいことは言わせて反論せずにとりあえずは頷いていた。

 実際、私自身もTさん一家を疑いたくなる心当たりが無くもなかった。

 私は祖父の遺品の「刀の柄と小柄と鍔の三点セット」を譲って貰おうと目論んでいた。

 父が無造作に飾っているものを眺めては欲しいなと思っていたのだ。

 だが、Tさん一家が雑多に飾ってある骨董部屋を片付けてくれた後、小柄が見当たらない。

 どこにしまったのか聞いてみたが、知らない、そんなものは見ていないとの返答。

 疑うのも嫌だったので「昼間は鍵をかけない家だから誰でも入り込めるしね」と言うと「きっとそうよ」と語気荒く返された。

 口調から【何か知っているな】とさらに疑いの気が高じたが、確証のないことは口には出せない。

 言い出したらきりが無いのだが、父の入院中にTさん一家が手伝いと称して実家に出入りしていたと兄から報告があった。

 認知症を患った人の世話がどれだけ大変かは祖母が患った時に痛感している。私は素直に有難いと感じていた。

 だが、退院してきた父から「家に金が全く無い」と聞かされて、Tさん一家が義母を言いくるめて“お小遣い”を大量にせしめたのではないかと思ったりもしたのだ。

 ここまでくると義母と父との亀裂は修復不可能に思われた。

 世の中新型コロナウイルスがニュースで取り上げられ始め、浮かれる要素が一つもないお正月を終え、次に実家に行くのは三月のお彼岸か、と気が乗らない日々を送っていた矢先、父の訃報が届いた。

 実家の近所で付き合いのあった夫人から携帯電話に連絡が入ったのだ。

 認知症の義母に変わり、連絡帳を探し出し心当たりの番号にかけてくれたらしい。

 兄はすぐさま実家に向かったが、私は仕事もあるため家で連絡待ちということになった。

 しばらくして兄からの電話で父の死因と不自然な状況を聞かされた。

 義母は朝、父がいないことを不審に思い探していたところ風呂場で見つけたと言う。

 しかし警察と救急に連絡を入れてくれたのは、たまたま家を訪れた業者の方。

 その方が実家の近所の家にも状況を知らせてくれ、それを聞いた夫人が兄と私に連絡してくれたのだ。

 運よく定期的に訪れている業者さんの訪問日だったのが幸いした。

 父は一晩中熱湯がかかった状態でいたらしい。

 惨状に関して兄は「一目で死んでいるとわかる状態だったらしい」と言葉を濁してくれた。

 義母は認知症とはいえ、多分、第一発見者だ。

 父は夕方風呂に入る習慣だった。

 父がいないことに気付くのが翌朝、しかも業者の方が救急連絡を入れてくれたと言うことに疑問を覚えるのは当然だ。

 ここで私は仮説を立てた。

 義母が父を発見したのは夜だ。

 どうしていいかわからない義母は誰かに頼ったはずだ。

 出し放しになっていた熱湯。

 いくら認知症とはいえ出し放しの湯を止めないだろうか。

 死亡時刻を誤魔化すように入れ知恵されたとは考えられないだろうか。

 長時間熱湯をかけられていたため処置が大変だったと聞かされた。

 そして翌朝、訪れた業者。

 義母は業者を第一発見者にしたかったのではないだろうか。

 家の修繕も他人が入るのは嫌だからと頑なに拒んでいた義母が、業者を家に上げるだろうか。

 あくまで仮説だ。

 警察に事情聴取を受けた義母の話は二転三転し、要領を得ない状態だったものの風呂場での事故で処理された。

 死因は急性心不全、または脳卒中。

 寒い日に老人が風呂場で死亡する要因は大体どちらかだ。

 父の死に疑問はない。

 ここ数年病気で弱っていたし、糖尿病も患っていた。

 ただ、死に際に悪意が紛れ込んでいたと思えるのは気のせいだろうか。

 私が実家に着いた時、義母は普段と変わらなかった。

 父が死んだことを理解していないような振る舞い、父が居ないことにも疑問を抱いていなかった。

 義母の中では父の存在は消去されてしまっていたのだ。

 私はそれで良かったのだと思えた。

 ここ数年諍いの絶えなかった日々を忘れることは非難されることではない。

 死体の惨状も忘れた方が良い。

 死んでしまった父には悪いが、残された義母が悲惨な記憶に苛まれるよりは良いだろう。


 ここで話が終われば良かった。

 兄と私とで義母の今後を話し合えば良かったのだ。 



 父の初七日の法要が終わり、認知症の義母をどうするかという問題が残り、兄と私、義母の弟と妹、そしてお経を上げてくれた住職さんも同席してくださり今後のことについての話し合いが行われた。

 私は正直に「私が引き取ることになったならば近くの施設に預けて週に一度程度面会に行くという形になると思う。施設が見つかるまでは近所にアパートを借りてデイケアなどを利用しながら面倒を見ることになると思う」と申告した。

 兄も同様に「施設に入ってもらうことになるが当面の世話はどうするべきかが問題だ」と告げた。

 非情に思えるかも知れないが、実際に祖母が認知症で終日見張っていなければならない状態を実体験しているのだ。仕事を辞める覚悟がなければ安易に引き取るなどとは言えない。

 幸にしてある程度の蓄えはある筈だったので、義母の財産分与の取り分1/2に兄と私から幾ばくかを足せば金銭面ではどうにかなりそうだった。

 当面の問題は施設が見つかるまでの預かり先である。

 そこに名乗りをあげたのがTさんだった。

 「今までお世話になったのだから姉を預かるくらい問題ない」と言ってくれたので、正直私は助かったと思った。

 何日も仕事を休むわけにはいかないし、義母を見ながら施設を探すなど考えただけで気が遠くなる。

 それならば当面の資金援助で施設に入るまでを凌いだほうが有難い。

 どのみち遺品整理などを含め家の片付けをしなければならないのに義母の面倒まで見るのは物理的に不可能だと思えた。

 想像して欲しい。

 いらない空き箱や缶、ビン、包装紙、リボン、服の端切れ、枯れた鉢植え、籐の籠、壊れたのに捨てずに放置してある家電。

 輪ゴムや割り箸、クリップ、プラスチックのスプーン、おまけでもらった小物、プラ容器、レジ袋などなど。

 そればかりか何時のものかわからない草や種や果実を漬け込んだ瓶がごろごろある。

 結婚して二十数年、ために溜め込んだ“いつか使うかも知れないモノ”が溢れかえっているのだ。

 それに加え、認知症が進んだ義母が通信販売で買ったと思われる全国各地のコケシやら、玄関に飾る干支の置物やら、何かのDVDセットやらが封を開けることもなく段ボールに詰め込まれているのだ。

 実家は広いので収納スペースも私の家の数倍はある。台所には作りつけの棚の他に食器棚二つ、冷蔵庫二つ、L字型のシンク下の棚。各部屋には押入れや天袋。外には物置まである。

 夫婦二人で暮らしていたので使っていない部屋は実質それら不用品の物置と化していた。

 因みに物置と化していた部屋は五部屋に及ぶ。

 義母にしばらくTさんの家で生活してもらうことになったと告げると、夫婦の寝室と嫁入りの時に持ってきた食器棚と台所の一角に置いてある私物には絶対に触らないようにと言いおいて、意気揚々と出て行った。

 Tさんは義母の当面の着替えや小型のテレビや使えそうな鍋など、色々と車に運び込み、義母を連れ立って行った。

 流石に電子レンジや炊飯器、電気ポットまで持って行こうとしたのでそれは勘弁してもらった。

 笑い話になるが、兄は後々、ツナ缶まで持っていくとは思わなかったと呆れていた。

 その時義母はすぐに帰ってくるつもりだったのだろうし、私にしてみてもそのまま帰ってこない状況に置かれるなどとは思ってもみなかった。


 その後の兄とTさん一家のやりとりは理不尽としか言いようのない事態に発展した。


 暫くして不動産会社から義母宛に【ご購入いただいた物件はその後いかがでしょうか】的なことが書かれている挨拶の手紙が届いたのだ。ここへ来て私は漸く立川に家があるということが事実であったと認識した。

 それまでは半信半疑、父が大袈裟に「家があるんだから出ていけ」と言っていても、本当のところはお金を騙し取られただけで家などないのではないかと思っていたのだ。

 さらに義母の通帳残高がなくなって以降、父から給料の名目で毎月二十万円の振り込みがされていたことも判明した。

 金が無いと言いながらも妻の老後を心配して八万円だったお小遣いを二十万円にしていたことに対しても兄は気に入らなかったようだ。

 それはそうだろう。

 実母と三人で暮らしていた頃はおやつも滅多に食べられないほどひもじい生活を送っていた。駄菓子を買う余裕すらなかったのだ。

 何だかんだと言いながらも前妻や実子よりも後妻さんの方が大切なようだ。

 まあ、学費は出してもらったのでそれについては不問としよう。

 兄が激怒したのはそこではない。

 この時点でTさん一家は義母を引き取るから権利をよこせ、義母の財産分与のお金をもらえれば後は何も要らないから実家にある義母の物は勝手に処分してくれと言い出したのだ。

 兄は義母を劣悪な環境の施設などに放り込まれることを懸念して、第三者の成年後見人を立てない限り財産分与には応じないと突っぱねた。

 それにブチ切れたのがTさんの旦那さん。義母の後見人には自分の娘を立てる気でいたようで、どうやら義母を引き取れば早々に財産が貰えるものと思っていたらしく家庭内で揉めたようだった。

 兄に電話で違法だから裁判を起こすと息巻いたらしいが、残念ながら兄はそこそこ法律に詳しいので、相手の主張が通らないことはわかっている。それならばこちらも弁護士を立てますと言うと怒鳴り散らして電話を切ったらしい。

 私は一方的に怒鳴りつけられた兄に対し、後々のことを考えて通話を録音しておけばよかったねと慰めの言葉をかけておいた。

 その後は私の所に兄の横暴さを切々と綴るメールが送られてくるようになった。もちろん私は全部保存している。

 私としても義母のものを勝手に処分はできないし、義母の容体も気になるし、アルバムや手紙なども残されたままになっているので、今後のことについて一度話し合いの場を設けて欲しい旨を返信しておいた。

 どうにか折り合いがつきTさん一家が成年後見人を立てたことで財産分与の話が進むかに思われたが、Tさん一家は処分は勝手にしていいからお金をよこせの一点張りで埒が明かない。

 義母が出て行く時に手を付けるなと言った場所を勝手に片付けるわけにもいかず、夫婦の寝室にある父の遺品にも手をつけられないまま、さらには義母は今どういった状態なのかと聞いてもはぐらかされ続け半年が過ぎた。

 新型コロナウイルスの感染拡大が懸念され話し合いが延期になったことで業を煮やしたのか、Tさんは成年後見人を実家に向かわせると言い出した。

 当日は兄と私が立ち会い、義母のものを取りに来たというTさんの娘二人と成年後見人を含む弁護士事務所の三人が何やらどんどん車に荷物を積んでいくのを見て「今持って行ったのは何に使うんですか?」と成年後見人に聞く私、という構図が出来上がった。

 義母のものを取りに来たと言いながら、服やアルバムなどは持っていかず、持ち出した荷物の確認すらさせて貰えないうちに挨拶もせずに従姉妹達は帰ってしまった。

 部屋には税務関連の書類などもあるので持ち出したものの一覧なりなんなりを確認させてくれるのが普通ではないのか、部屋数が多いので兄と私が全部をフォローできるはずもなく、二人の行為を監視するために弁護士事務所の人が来たのだと思っていた。

 そのことを告げると「今更そんなことを言われても困る、Tさんの娘は今後後見人になるのだから荷物を持っていく権利があるはずだ」とこちらの意見は無視された。

 では、何のために大勢で来たのだろうか。本当に弁護士の対応だろうか。「今後の」後見人は「今」勝手に判断する権利は無い。

 結局、何を持ち出したのかは分からなかった。義母の服は大量に残されたままだ。捨てることをしない人だったので洋服箪笥、和箪笥の中はもちろんのこと、衣装ケースだけでも20は超えている。

 弁護士事務所の人から義母は既に群馬県の外れにある施設に入居しており、施設には私物は持ち込めないので処分して欲しいと説明された。今後義母の私物を取りに来ることは無いそうだ。

 後日、その施設に電話を入れたところ、管理が大変なので私物は持ち込めない、服は六着程度、食べ物の差し入れはダメ、コロナ禍のため面会もできないと告げられた。さらに、詳細は全て後見人のTさんの娘に聞いてくれと言われてしまった。

 納得がいかないながらも、これでようやく寝室にある父の私物の整理ができるようになった。

 父の洋服箪笥の小さい引き出しからは宝石の鑑別所や保証書がいくつも出てきた。

 ダイヤのネックレスと指輪、ルビーの指輪、真珠のネックレスとイヤリングのセットなどなど。

 義母がアクセサリーを身につけているのを見たことはなかったので、父が宝石を義母に贈っていたことなど気付きもしなかった。

 鑑別所があるということは宝石があるということよね。それって私が貰ってもいいってこと?

 大量のゴミの処理にうんざりしていた私はウキウキと寝室を物色した。

 鏡台の引き出しや、ベッドサイドの棚、押入れの小物入れからは宝石のケースが出てきた。

 お気付きのことと思われるが、中身が入っていないケースのみが出てきたのである。12個も。

 腹立たしいことにはチェーンが切れたものや、明らかに安物とわかるアクセサリーは残っていたのだ。

 父が義母に買ってあげたものだろうから、義母の元に届けられるのならば文句は言うまい。

 娘が欲しがっていたフェラガモのバッグが無くなっていたのも、義母の元に届けられるのならば文句は言うまい。

 唯一の救いは祖母がまだ健在だった頃、当時小学生だった私に譲ってくれると言っていた指輪が残っていたことだ。

 祖母の遺品整理の際、どうしても見つからなくて諦めていたものが、残されていたアクセサリーの中に紛れていた。

 祖母の指輪はデザインが古く、メレダイヤがいくつか欠けていたため価値が無いと判断されたのかも知れない。

 私にしてみれば、1カラットを超えるダイヤ※よりも約3カラットのルビー※よりも9mm玉の真珠のネックレス※よりも価値がある。

 ※鑑定書と鑑別所と保証書から推察

 この一件でTさん一家と仲良くするのは無理だと諦めがついた。

 今までは友好的に接していたと思っていたのに、一言の挨拶もせずに帰ってしまうとは思わなかった。

 兄はもう義母のことはTさん一家に任せると言い、置いて行った義母の私物は全て廃棄することになった。

 乱雑な扱いをされたようで桐の箪笥の引き出しが壊されていたため、使うつもりでいたそれも廃棄。

 勿体無いとは思ったけれど、しがらみを一切断ちたいのであろう兄の意見に同意した。

 ただ、卒業アルバムや父との写真や手紙などは後で引き取りに来るかもしれないので念の為避けておいた。


 それからは弁護士を通してのやり取りのみでTさん一家との交流は途絶えてしまった。

 必然的に義母の情報も入ってはこない。

 ゴミの処理費や家の修繕費は財産分与に準じて支払いを済ませ、漸く落ち着いた頃には父が亡くなってから一年半が過ぎていた。

 一度くらいはお見舞いに行きたいと思っても緊急事態宣言、コロナ第5波と機を逃し義母には会えずにいた。


 もう忘れてしまってもいいだろうか。

 縁が切れてしまったのだから、この先父の三回忌の法要にも声をかけることは無い。


 そう思っていたというのにTさんから電話がかかってきた。

 遺産分割協議が済んだからだろうか。

 こちらは老朽化が進んだ建物を取り壊すには数千万円の費用がかかるだの、父が持っていたはずの土地が売られていて、その分の収入の追徴金の支払いだの、後から出てくる出てくる。

 毎月義母に振り込んでいた給料と言う名のお小遣いは本来なら家の修繕費に積み立てるお金ではなかったのか。

 風呂場のタイルは剥げているし、天井の雨漏りを直さずに放置していたせいで天井と畳が腐っているし、台所の床下には穴が空いているし、いくら他人を家に入れたくないからと言っても放置しすぎだろう。

 兄も私も全部放り出して逃げたい気分だった。

 私だってお金だけ貰って後の処分は好きにしていいと言いたい。

 二十数年同居していた妻が本来ならばやるべきことを、認知症だから出来ないと言うのであれば成年後見人が代行すればいいじゃないか。お金がないなら家を売ればいい。

 私はそんなやさぐれた心情だというのに、先日義母のところへお見舞いに行った際、涙を流して喜ばれたと報告された。

 そのついでのように父の日記について何か兄から聞いていないかと質問された。

 父の日記にはいつ誰とどこで何をしたかが事細かく記されている(らしい)。

 実際、兄からTさん一家にお小遣いがどれだけ渡されていたかなどが書かれていると聞いていたので、義母からもお小遣いをせしめていたTさん一家は都合が悪いと思ったのだろうか。

 あえて私は「見せてもらっていないので内容は知らない」と答えた。

 するとTさんは本当に知らないのかとしつこく食い下がってきて、兄に頼んだけれど断られたので私から兄に見せてもらえるように頼んではもらえないかと訴えてきた。

 それもそうだろう。

 先日の分けておいた荷物の中から義母がメモ帳に残した腹立ち日記なるものが出てきたのだ。

 一部を抜粋すると

 「全てが嫌になる 何もする気が起きない 全て 遣らなければならないのに 只々 殺気だって落ち着かず 全ての物 全ての人が憎くなる 特に T子 こういう生活に追い込んだ張本人 以下略」 日付は17年1月20日

 「カーテンを開けて始まる嫌な日が」「目が覚めて 脳裏を過ぎる 一日を 許さんT子と 呟きぬ」 日付は17年2月13日

 Tさんは義母から恨まれるようなことをしていたのだ。父の日記の内容も気になる筈である。

 本当に見せてもらっていないという私にTさんは、実は…と秘密を打ち明けてきた。

 内容を書くのはいかがなものかと思うが、要するに義母に内緒で父と会っていたという告白だった。

 ホテルで密会といえば言わずもがなだろう。

 どうしても断れなかった、屈辱的だったというTさんに「父の骨を踏み潰してそこらに打ち捨てましょうか?」と言ってやった。

 分別のある大人なら二人きりで会わなければいい。会う場所を考えればいい。急用ができたと言って会ってもすぐに帰ればいい。

 父がTさんに渡していたお小遣いには別の意味もあったようだ。

 父が女性に対して節操がないのは知っていた。

 みっともない。なんなら骨壺ごと海に流してもいいくらいだ。不法投棄になるからやらないけれど。

 Tさんは私に秘密を打ち明け、私が父に対して怒ったことで長年の杞憂が晴れたのかもしれない。

 それ以上日記を見たいとは言わなかった。


 もう忘れてしまってもいいだろうかと思っていたのにぶり返した。


 義母が認知症になって一番救われたのはTさんだ。

 ー 憎まれていた過去を忘れてもらえたのだから。

 父が死んで一番安心したのはTさんだ。

 ー 夫や子供、ましてや実の姉には知られたくない秘密を口にされることはもうない。


 義母が父の存在を忘れてしまったのは良いことだと思っている。

 不貞の輩の死を悼む必要はない。

 でも、妹にされた仕打ちまで忘れてしまったのは果たして良いことなのだろうか。

 気心の知れた妹や姪と老後を過ごすために家を購入した筈の義母は、今現在、都心から4時間以上かかる山奥の施設に入っている。

 

 

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