三つの流派
5歳になってしばらく経った日のことだった。
俺は城内の騒がしさで目を覚ました。時刻は深夜二時半。
部屋のそとで様々な叫び声がする。どたどたと、ひとが走り回る音もしていた。
なにごとかと思い、布団のなかで怯えていたが、
一時間ほど経ったときに、
――ドガァァァアアアアン……――
という激しい物音とともに、静寂が戻ってきた。
そのあとは、ひとの起きている気配だけが城内に残っていた。
それから十五分ほど経ったとき、ヒスイが部屋に入ってきた。
「なにがあった? なんの音だ? 」
「間者だよ。だが、もう始末した」ヒスイはそう答えた。
「間者だって? いったいどこの? 」
「プロフシフルだ。まあ、気にするな。とにかく私がいるうちはこの国の平和は乱させない」
ヒスイはそう言ってくれたが、俺は動揺していた。
本当に間者がやってきたのだ。ヒスイだけでなく。
「大丈夫だ。私に任せろ」
俺の手の震えに気づいて、ヒスイが手を握ってくれた。
「あ、ああ……」
俺は力なく、そう答える。
正直言って、心底怖い。
いくら魔術量が豊富だと言っても、俺はまだまだ非力なのだ。
間者がこの部屋まで入ってくれば、きっと、あっけなく殺されるだろう。
この世界に来たばかりのころは、死ぬことは怖くなかった。
一度投げ出した命なのだ。もう一度失うことも、取るに足らないことだった。
だが、今は違う。
今はものすごく怖い。
それはたぶん、この世界に執着を懐き始めているせいだ。
ヒスイや、国王や、王女に対して、愛情を持ち始めているせいだ。
死。
それはあっけなく、彼女たちとの関係を遮断する。
そして、二度と会えなくさせられる。
それを思うと、今はとてつもなく怖いのだ。
新たに手に入れたものを、俺は失いたくなかった。
「ヒスイ。なるべく早く、俺を鍛えてくれ。せめて、自分の身だけは守れるようになりたい」
「ああ……」
ヒスイは俯いて、静かにそう答えた。
……
翌日から、さらに本格的な剣術の訓練が始まった。
なんでも、ヒスイには策があるらしく、この日は座学から始まった。
ここ数ヶ月国内の剣術道場に通って、「教え方」を聞いて回ったというのだ。
今までのような闇雲な教え方ではなく、
きちんとロジックに支えられた教え方をするという。
まず教えてくれたのが、この世界の剣術に関するもっとも初歩的なことだった。
ヒスイが言うには、この世界の剣術は純粋な剣術とは違うのだそうだ。
ここは魔術の存在する世界である。
したがって、剣術と言っても、多少は魔術を利用することになる。
その「利用の仕方」によって、大まかにみっつの流派に別れるのだという。
「要するに強化の仕方なんだ」
ヒスイが言った。
「強化の、仕方? 」
「そう。より正確に言えば、強化の“部位”だな。身体のどの場所を強化するか」
「ふむ」
「良いだろう。ひとつ、実践で見せてやろう」
ヒスイはそう言うと、俺を城の裏の広場へと連れ出した。
「まずは草陰派だ。簡単に言えば“脚”を強化する戦い方だ」
そう言うと、ヒスイは木剣を握ったまま、素早く動き始めた。
いや、素早くと言ったが、素早いなどと簡単に言って済む速さではない。
とてつもない速さで俺の周りを回り始めたのだ。
素早いステップ。そこからの軽いジャンプ。
遥か後方に居たかと思うと、もう俺の目の前に迫っている。
そして一閃、俺の鼻先を剣すじが通った。
――シュピィィィン――
「これが草陰派だ」
「な、なるほど……」
草陰派の特徴は、魔術による“脚の強化”ということらしかった。
もっとも、その強化方法に様々な技法があり、ヒスイが見せてくれたあの動きも、
いくつかの技の集合で成り立っているのだという。
魔術で脚を強化させてそれで終わり、という簡単な話ではなく、
いかに瞬発的に魔術を込めるか、脚のどの辺りに魔術を込めるか、
また剣を振る際にいかに軸足に魔術を込めるか、
そういった探究が本を何冊書いても語りきれないほどしつくされているらしい。
とにかく、脚に焦点を絞って強化魔術を付帯するのが草陰派の特徴らしいのだ。
その素早い動きは熟練者ともなると目で追うのが精一杯なほどで、
“風の殺し屋”と呼ばれたヒスイも、
この流派に属すという。それで、まずは得意な流派である草陰派を披露したというわけらしい。
「次が応身派だな。私はこれはあんまり得意じゃないんだが……」
そう言うと、ヒスイは俺に木剣を構えさせた。
「適当で良いから、打って来い」
「あ、ああ」
俺はヒスイに向かって、剣を振り下ろした。
すると、
クルッ。
あ、あれ?
なぜだか、俺は空を見ていた。
いや、違う。俺の身体が宙で反転しているのだ。
――ドタッ。
そして、気がつくと地面に叩きつけられていた。
「これが応身派だ。要するに受け身の技だな。私にはあまり向かない流派なんだ」
まるで魔法に掛かったみたいだった。
もといた世界で言うところの柔道か、合気道と言ったところだろう。
違うのは剣を使ってそれを行うというところだ。
だが、相手の力を利用して相手を攻撃するというのは通ずるところがある。
なかなか難しそうではあるが……。
「この流派はすこし特殊でな。魔術を自分の身体ではなく、剣に込めるんだ。そしてその魔術量のバランスを上手く調整して、相手を投げたり転ばせたりするんだ。ただ、よっぽどの繊細な感性がないとできないと言うか、持って生まれた才能が必要になる。誰でも会得できる流派じゃない。かくいう私も、上手いとは言えないな」
そうなのか?
充分上手かった気がするが……。
「そして三つ目。これが一番特殊だな」
そう言うと、ヒスイは木剣を腰に差した。
そしてそのままの状態で深く腰を落とし、俺を睨みつけた。
「瞬き派と言ってな、シマムラ・刹那という古代の剣客が創始した流派なんだが、
要するに、一瞬にすべてを賭けるんだ」
「一瞬に、すべてを賭ける…? 」
「ああ。相手に瞬く暇も与えない。まさに瞬き派というわけだ。
まあ、見せてやる。そこに立っていろ」
その瞬間、なにかが俺を通り抜けた。
なにが通り抜けたかもわからない。
一瞬の風のようなものが、俺の全身を過ぎていったのだ。
それも、一陣の風ではない。
十個も二十個も、素早い風が俺を掠めていったのだ。
そしてまさに、それは瞬きを許さない一瞬の出来事だった。
――サラサラサラサラサラ……
風に乗って、千切れた俺の髪の毛が流れていった。
「なにも見えなかっただろう。
瞬き派の剣術は相手に見えないほど素早いんだ。
まあ、私程度にもこのくらいは出来る。
本物の瞬き派はもっと素早いがね」
「な、なるほど……」
俺はあっけにとられて、立ち尽くしたままそう答えた。
たぶん、こんなことを当たり前に出来るやつなどそうはいないだろう。
おそらくはヒスイがあまりに天才なのだ。
今の剣すじも、まったく見えなかった。
髪を切られたなど、知覚すらできなかったのだ。
それをさらりとやってのける辺りが、ヒスイの天才たる所以なのだろう。
「大丈夫か? 話を続けたいんだが」
ぽかんとしている俺にヒスイが咳払いをした。
「あ、ああ。頼む」
「この流派の特徴は“腰”を強化するところだな。独特だろう? この剣術は腰の力で剣を振るんだ。
だから、この流派の剣士たちはそれ用の鞘を持ち歩く。そしてそれを腰に差して歩くんだ。
背中に背負う鞘が主流のこの世界で、かなり変わった独特の帯刀の仕方でな。
私なんかはそれが見ていてむず痒いというか、しっくり来ない部分があるんだが、
まあとにかく、問題は、この流派には受け身がない、というところだ。
最初の抜刀で相手を倒せなければおしまいなんだ。この流派のやつらはそのあとのことなんて考えてもいない。
最初の一瞬で相手を殺せれば勝ち。できなければ、即、死。
その一瞬に人生のすべてを賭けるのさ。
そう言った精神性を呼称して、――また創始者の名前と掛けて――刹那派と呼ばれることもある。
生き方そのものが刹那的、というわけだ。
まあ剣の振り方としては面白いんだが、
いかんせん危ないやつが多くてな。剣術に罪はないが、この流派の連中とは関わり合いたくはないな」
暗殺者に「危ない」とか「関わり合いたくない」と言われたくないと思うが、
確かに恐ろしい一派だと思う。
一瞬にすべてを賭ける。
刹那的に生きる。
そんな剣の道があるのか。
俺はなにか、ぞくり、と背筋が怖くなるのを感じた。
そう。
つい忘れがちになるのだが、ここで起きているのは本当の“殺し合い”なのだ。
剣や魔法を使ってお遊びをするのではない。
実際に相手の命を奪い、この世界から消滅させる。
そんな世界においては、瞬き派のような刹那的な生き方が生まれるのもある種当然のことなのだろう。
「と、三つに別けて教えたが、実際には戦うときはこれらの技を混交して駆使することになる。
たったひとつの流派だけでやりくりするというのはめったに無いな。
まあ、せいぜい瞬き派のやつらくらいだろう、そんなことをするのは。
それで、土台としてはどれにする?
混交して使うにしても、どれかひとつを中心に学んだほうが学習としては早いんだが……」
実を言うと、始めからどれかは決めていた。
「おいおい、嘘だろう? 」
呆れた顔で、ヒスイが笑った。
「いや、本気だ」
ヒスイが頭を抱えた。
「まいったな。隠しておけば良かった」
「大丈夫だって。ほかのも学ぶから」
「まったく、お前ってやつは……」
そう、俺は瞬き派を自分の流派に決めたのだ。
確かに危ない流派かもしれない。
自分の命を一瞬のなかに賭博するなど、ある意味で危険思想と言えるかも知れない。
だが、勝算がないわけでもないのだ。
まず第一に、この流派はあまりにも日本の剣術に似通っていた。
抜刀術など、日本の刀でしか考えられない剣の技法だ。
単純に言ってその奇妙な類似に興味がある。
なぜこんなにもそっくりな剣術がこの世界にあるんだ?
これも、ヒスイが教えてくれた、“ふたつの世界”が“紐”状に重なり合うことで起きている連関なのだろうか。
いずれにせよ、自分の国の剣術にそっくりな流派なのだ。
俺の身体に馴染みが悪いはずがない。もしかしたらほかの流派より馴染みが早いのではないか、と思ったのだ。
もうひとつの勝算は、
この流派が「集中力」に依存していることだった。
一瞬のなかにすべてを賭ける行為。
瞬きも許さない極度に凝縮した時間のなかで剣を振る行為。
その研ぎ澄まされた感覚は、
どこかあの「魔導の訓練」の似ているのだ。
指のなかに魔術の源を集め、身体のなかに巡らせるあの訓練。
あれも極度の集中力を必要する。
もしかしたら、そこで培われた集中力が、ここでも活かせるのではないかと思ったのだ。
「お前が選んだなら仕方ないさ。
それに関しては外野があれこれ言えることじゃない。
とにかく、それぞれの流派の訓練方法を教わってきた。
今からお前用に瞬き派の訓練方法を教えてやる。
それを半日ひたすら練習。
それが終わったら、私と内稽古だ」
……
「まずは瞬き派の基本的な訓練法を教えてやろう」
そう言うと、ヒスイが俺の身体に密着してきた。
「あ…」
「なんだ? 」
胸元にヒスイのおっぱいが当たっていた。
や、やばい。
柔らかすぎる……!
「お、おま――」
そう言うと、ヒスイは顔を真赤にして俺から離れた。
「げっ」
や、やばい。
か、完全に勃起していた……。
「ち、違うんだ、これは――」
慌ててそう叫ぶが、もう遅い。というか、自分でも引いた。
「いや、良い。気にするな。私の方も、無防備だった」
真っ赤になった顔を片手で隠しながら、ヒスイが言った。
「男というのは、そういうものなのだろう? 悪かった。少し、距離を開けて話す」
「ご、ごめん――」
「良いから、もう気にするな」
「ヒスイ、ほんとに、ごめん――」
「良いと、言っているだろう。もう、忘れろ」
「ごめん、ほんとにごめん」
ふたりで顔を真っ赤にしながら、そう打ち消し合っている。
いやほんと、めちゃくちゃ恥ずかしかった。
なんというか、予期せずに勃起したのが恥ずかしかったのだ。
というか、ヒスイだから、なのかもしれない。
ヒスイ本人は気づいていないが、彼女の身体からは甘い湿気った匂いがしている。
それがめちゃくちゃ色っぽいのだ。
無闇に近づくと、思わずあそこが立ってしまうくらいに。
いやマジで、今後もこういうことがあり得るかもしれない……。
「ヒスイ。ごめん、マジな話し、今後はあんまり俺に近づかないほうが良いかも……」
「いいから。もう気にするなって」
「じゃなくて。俺さ、この身体を上手くコントロールできないんだよ。なんていうか、俺の魂に対して、若すぎるというかさ」
「ふむ。そういうことも、あるのか」
「今のも、完全に俺の予期しない反応だった。だから、もしかしたら、今後も、嫌な思いさせちゃうかも……」
「お前のほうこそ、わかっていないな」
ヒスイが言った。
「気にするなと言っただろ。それは、身体の反応が起こることを、気にするな、と言ったんだ。お前に悪気がないのはわかった。だから、今後そういうことがあっても、気にするな」
「ほ、ほんとに? 」
「あ、ああ。ほ、ほんとだ。だから、近づかないでいようなんて、その、寂しいこと、言うな……」
ヒスイの顔がまた真っ赤になっている。
そしてまた、前髪をくねくねといじっている。
「だ、だけど、無闇に、それをおっ立てたりはするなよ。ご、誤解するんじゃないぞ! 反応として、そういうことが起こるのは仕方ないと言っているんだ。あ、あんまりそういうことにうつつを抜かしていると、私だって、叱るからな」
「あ、ああ」
「わ、わかったら、と、とっとと訓練を始めるぞ。ま、まだなにも教えていないんだからな」
そう言うと、ヒスイは俺に背を向けた。耳まで真っ赤になっている。
思わず、笑みがこぼれる。
まったく。
とんでもなく凄腕の暗殺者なのに、そっち方面になると、とんでもなく恥ずかしがり屋なんだもんな。
「な、なんだ。あんまりこっちを見るな。こ、殺すぞ…!」
ヒスイは真っ赤な顔で、そう言って俺を脅しつけていた。
……
その日から、俺はヒスイに教わった瞬き派の訓練を日課に加えた。
もっとも初歩的な訓練は、腰に魔術を集中させる、というものだった。
なにしろ、腰を軸に剣を振る剣術なのだ。
それができなければ、話にならない。
「お前、五歳でそれができるのは、すこし異常だぞ」
ヒスイが引いた目で俺を見下ろしている。
「そ、そうか……? 」
一発で腰に魔術を集中させた俺を見て、ヒスイが不気味がっている。
だが、この訓練は散々魔導の練習のときにやってきたものだ。
指先に集めた魔術を全身に移動させる。それを死ぬほど繰り返してきた。
今更、魔術を腰に集中させるなんて、俺にとっては床に落ちた靴下を拾う程度の労力でしかなかった。
「じゃあより高度な訓練を教えてやる。
“滴打ち”と呼ばれる瞬き派に伝わる伝統的な訓練だ」
そう言うと、ヒスイは俺を一本の木のしたに連れ出した。
「どうするんだ? 」
「まあ、見ておけ」
そう言うと、ヒスイは木の枝のひとつに水魔法を放った。
「ウォータ! 」
「へえ、ヒスイも、魔術が使えるんだな」
「まあ、初歩的なものはな。そう殺傷力は高くないがね。あくまで剣術の補助的にしか使わんよ。
それより、枝の下に座れ」
ヒスイの指示に従って、濡れた枝の下に腰を下ろした。
「目を瞑れ」
「あ、はい」
「いいか。神経を研ぎ澄ますんだ。今お前の座っている位置の少し前を、これから水が滴り落ちてくる。
いつ落ちてくるか、そのタイミングは誰にもわからない。
お前は目を瞑ったまま、その水をその小刀で斬るんだ。
瞬き派はごく微細な空気の動きのなかですべてを見極める。
これができなくては、一瞬のなかで命のやり取りなどできない。
おい、そう言ってる間に、ひとしずく、お前の前を落ちていったぞ――」
「え……」
ピチョン……
まったくわからなかった。
いや、それもそうなのだ。
目を瞑ったまま、滴が落ちるのを感知するなど、普通はできるはずがない。
「まあ、始めは難しいかもな」
ヒスイが言った。
「だけど、でなければ訓練にもならん。精々精進するんだな」
「は、はいっ!」
思わず、力強くそう返事をした。
強くなるためなら、なんだってやるつもりだ。
「ふっ。お前は全く、前向きなやつだよな」
意気込む俺を見て、ヒスイが口元に笑みを浮かべた。