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異世界ドラゴン~この世界をひとつに~  作者: あんちおいでぃぷす
第一章 フローゲン編
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フローゲンの民の祝福








 実は大変なのはそれからだった。

 なにしろ一世代丸々失われていた“ドラゴンの加護(かご)”がこの国に快復したのだ。

 それは地面をひっくり返したような大変な騒ぎだった。

 俺たちが城に着く頃には、王も王妃も大慌てで城内を駆け回り、兵士たちはなにが起こったかの調査に奔放(ほんぽう)していた。

 

 城に戻ってくる俺たちを見つけて、

 「おい、まさかとは思うが、これはお前たちがなにかしたのか? 」王が呆れた顔でそう言った。

 まったく、その顔ったらなかったな。

 まあ、笑うのも悪いけどさ。

 でも、笑っちゃうくらい王の口はあんぐりとしていた。


 そのとき、

 


 ――ザッッ――


ヒスイが王の前に(ひざまず)いて言った。


 「王様。報告いたします。

 今日の日中から、王子様にご同行し、龍の加護を快復する任務にお供させて頂いておりました。おそらく皆様もすでに確認しておられる通り、その任務は無事に成功いたしました。

 ひいては、すべてレイゲン様の手柄でございます。

 なにとぞ、王からの褒美(ほうび)を――」


 そして静寂(せいじゃく)

 そこには二十人ほどの王の配下が集まっていた。その二十人が全員押し黙っていた。あっけに取られて。


 そして、静寂を破る歓声――。

 

 「うぉぉおおおおおぉおおおおぉお!」


う、うるせぇ……!


 「レ、レ、レ、レイゲンちゅわぁぁ~~~~~ん!!!」

 ま、また始まった…!

 親父が俺に目掛けて突進してきていた。

 それも両手を広げて…!

 「お前なら、いつかすごいことをやってくれると思っていたよ~~ん」

 まったく、多分端から見たらひどい光景だった。

 なにしろ髭面のいかめしい王が泣きながら幼い俺に頬ずりしているのだ。

 その後ろで王女もハンカチを目に当てていた。

 まったく。

 子煩悩(こぼんのう)というか親ばかというか、

 愛情が深いというか……。



 だが、俺は悪くない気分だった。

 なにより、“家族”に喜んでもらえることが嬉しかった。

 もちろん、フローゲンの国民たちに喜んでもらえることも嬉しい。それにこの国の防衛が快復したことも嬉しい。

 もしどこかで他国の間者がこの状況を見ていたら、当分はフローゲンに攻め入れないと判断するだろう。おそらくはそのことを見越してセイラは障壁(しょうへき)に色をつけておいてくれたのだ。 

 だが、そんな障壁とか政治とか王宮とかよりも、自分の好きなひとたち――家族たち――が喜んでくれていることがなによりも嬉しい。

 そう、それはこの世界の転生する前にはなかった喜びだったのだ。



 あの世界の俺は家族と上手く行かなかった。好きで結婚したはずの妻とは上手くいかず、娘にもデフォルトで(さげす)まれていた。家にいることは苦痛で、かと言って会社にも居場所はなかった。

 今でもときどき、あのギスギスした家のなかの空気を思い出す。嫁と娘は結託(けったく)して俺を憎んでいた。俺に対する(さげす)みや負の感情を隠そうともしなかった。俺をバイキンのように扱い、汚いもののように(さげす)み、いじめられっ子をいじめるように侮辱していた。そして俺も、そんな彼女たちが憎かった。そしてなにより、そんなギスギスした家庭が嫌だった。


 あの頃の俺には逃げ場所もなかった。会社での成績も悪く、愚痴(ぐち)を零せるような相手もいない。嫌なことがあると俺は町中を歩くしかなかった。意味もなく電車に乗って、……そしてまたもとの家に戻ってくるしかない。会社に要求されるノルマに追われ、ひととき、社用車で昼寝することだけが唯一のやすらぎだった。まったく――

 

 今思うとなんて地獄のような暮らしだろう。


 誰にも認められず、誰にも評価してもらえない生活。その苦しさと言ったらひどいものだった。俺はあのころの自分が好きじゃなかった。毎日が、劣等感(れっとうかん)との戦いだったのだ。自分を好きになりたくても、そうなれるチャンスさえなかった。


 でも、今は違う――。


 ここには俺のしたことを喜んでくれるひとたちがいる。

 彼らは俺のしたことを一緒になって自分のことのように感激してくれる。こんなふうに髭面を頬に当てたり(少々痛いが…)、ハンカチで目の端を拭いたり、隣で優しく微笑んでくれたりする……。


 「悪くないもんだな……」

 ふと、そう呟いていた。

 「なんだって? 」

 隣にいるヒスイが俺を見下ろした。

 「ん? ああ、いや――、家庭ってやつはも悪くないなって思ってさ。前にいた世界では俺は家庭を愛すことは出来なかった。そこは俺にとって辛い過酷(かこく)牢獄(ろうごく)にしか過ぎなかったんだ。あのころは家庭から逃げたくて仕方なかった。そして、そんな自分自身も好きになれなかった」

 「なるほど、この世界で家族のありがたみを噛み締めている、というわけか…」ヒスイが腕を組む。「だが、家庭のありがたみは私には今もわからんよ。なにせ、今まで一度だって家庭の暖かみを味わったことなどないのだからな」

 「そ、そうか…」

 強がってはいるが、ヒスイの顔には哀しみが宿っている。

 きっと、その通りなのだろう。

 これまでヒスイは奴隷の入れられる檻のなかでしか両親と暮らせなかったのだ。家庭の暖かみなど、味わう暇もない。

 それはきっと――、俺が想像するのもおこがましいほど辛い体験だったに違いないのだ。


 

 「ならいつか必ず」俺は頬を寄せ合う両親の幸せそうな顔を見ながら言った。「ヒスイにも家庭の暖かみを味あわせてやらないとな――」

 すると、

 「な、な――? 」ヒスイが狼狽えていた。

 こういうとき、とことん鈍感な俺は続けて言った。「だってそうだろう…、家庭の暖かみを知らずに過ごすなんて寂しすぎる。ヒスイ、俺は必ずお前に家庭を持つ幸せを味あわせてみせるよ」

 見上げると、ヒスイの顔が真っ赤に上気(じょうき)していた。

 「お、おま――」ヒスイが狼狽(うろた)えて言う。「それがどういう意味かわかって言ってるのか?」

 「なにがだ? 」俺はヒスイに笑みを向けた。「俺はただお前に家族の暖かみを教えると言っているんだが……」

 そして、ハッとした。

 こ、これじゃあまるで、求婚(きゅうこん)しているみたいじゃないか――。

 「ば、バカ、お前、そんなこと軽々しく言うべきじゃ……」ヒスイは真っ赤になって、顔を逸らす。その動きを見て、途端に俺も恥ずかしくなってくる。

 「ち、ちが――」俺は慌てて弁解する。「そ、そういうつもりで言ったんじゃ……、俺はただ、ヒスイにも幸せな家庭を作って欲しくて――」


 すると顔を真っ赤にさせたヒスイが、


 「そういうつもりで言ったんじゃ、…ないの? 」


 と、潤んだ目で俺を見つめた。


 や、ヤバい…。

 ヒスイが時折見せる“女の顔”になっている…。これを見ると、俺は排水口に吸い込まれる水みたいにヒスイに釘付けにさせられてしまう――。


 い、いいのか? ここで一気に求婚しちまって、良いのか…?


 と、そのとき――


 

 ドォーーーン……



 大きな破裂音が空に聴こえた。


 「祝砲だ」

 西の空をヒスイが見上げた。

 「祝砲? 」

 「そうだ。この国ではめでたいことがあると、祝砲が上がるんだ」嬉しそうにヒスイが言った。「見ろよ――、夕方に見た風景には負けるが、レイゲン、これはこれで綺麗だろ? 」


 ヒスイに促されて、俺は西の空に上がった祝砲を見上げた――。

祝砲は空で弾けて色とりどりの破片を破裂させていた。

 魔法を込めた特別な砲丸を使用しているらしい。簡単に言えば前の世界で言う花火に近いものだった。

 祝砲は立て続けに上がり、西の空を延々と明るい色に染めていた。


 「ああ――、すっごく綺麗だよ」

 空を見上げているヒスイの隣で俺はそう呟いた。


 ヒスイとの結婚話が祝砲にかき消されたのは残念だったが、それはそれでこの瞬間は紛れもなく素晴らしかった。なにより、ヒスイの嬉しそうな笑みを見れるのが嬉しかった。それこそ本当に、いつか家族になりたいくらいに……。


 城の方を振り返ると、城の屋根に腰を降ろしたセイラも同じように祝砲を見ていた。

 セイラはあそこにいることで、たぶん、隣国にあからさまにアピールしてくれているのだろう。

 この国には龍の加護があるのだ――、ということを……。


 「しばらくここで見ていようか、ヒスイ」

 俺がそう笑いかけると、

 「ああ、そうだな」ヒスイは子供のように笑い、また祝砲のあがる空を見上げた。


 「レイゲン、私は今幸せだよ。とても、とっても幸せだ――」




 ……



 その日、フローゲンの国では国あげての宴が始まった。こんな大騒ぎこの世界に来てから一度も見たことがない。俺たちの住む城内から城下町に掛けて、見渡す限り屋台と人の群れで埋め尽くされていた。そこかしこで音楽団が楽器を演奏し、酒に酔った住民たちが歌を歌っていた。そして王と王女が、夜通しパレードを続けていた。


 俺は何度も何度も国民に話しかけられた。

 「レイゲン様、ありがとうございます」

 「王子様、ありがとう、ありがとう…!」

 泣きながらそう手を握られたこともあった。

 「龍の加護が戻るなんて。私はもう、今まで不安で不安で…」

 老人にそう泣かれもした……。

 それはそのはずだ。この国の住民たちは厳格に龍の加護について話すことが禁じられていたが――ましてや龍の加護が失われていることは決して口にしてはならなかったが――そのことで不安を感じていないはずはなかったのだ。いつ隣国に攻め入られるか……彼らは怖くて仕方なかったに違いない。


 俺とヒスイはふたりだけで城下町を練り歩いた。

 すでに国中で俺のしたことの成果が話し伝わっている。どこを歩いていてもすぐに群衆に囲まれてしまう。

 そのたびに食べ物をもらったり、手を握られたりする。

 ある通りを歩いているときのことだった。

ひとりの老人が近くに寄ってきて、言った。

 「レイゲン様、少し良いですか」

 「え、ええ……。どうしました? 」

 老人はなに言わずに俺を裏通りに俺を連れ出した。

 そこは人通りが少なく、俺とヒスイとその老婆のほかには誰もいなかった。

 ただ建物の背後で延々と続く祝砲の音だけがしている……。

 


 老婆は立ち止まり、俺の手を握ると、祈るようにそこに額を当てて言った。

 「レイゲン様、どれほど感謝してもしつくせません――」

 「そんな、やめて下さい。大したことじゃないですから」

 慌てて俺が手を引っ込めようとすると、老婆はそれを強く握り締めて続けた。

 「いえ――、大したことなのです。フローゲンの民にとって龍の加護は民族としての誇りなのです。レイゲン様、この国には国旗がないのはご存知ですよね? 」

 そう。このフローゲンはこの世界で唯一、国旗がないのだ。実はそのことには俺も気づいていた。妙なことだとは思っていた。

 老婆は続けた。

 「それはこの国の民は国旗を必要としないからです。なぜなら私たちフローゲンの民には、常に龍がいるからです。ほかの国の民のように、風に布をはためかせて自分たちが何者かを知らしめる必要がありません。龍がいる。――だから私たちがいるのです。龍は私たちにとって、かけがえのない誇りなのです」

 そう言うと、老婆はまた俺の手に額を当てて泣き始めた。

 「ありがとうございます。レイゲン様、――ほんとうにほんとうに、ありがとうございます……」

 老婆の目から溢れた涙が俺の手を濡らし続けた。

 


 目の前で老婆に泣かれて、俺はすっかり困り果てていた。助けを求めてヒスイを見上げると、ヒスイが目を瞑り、――意味ありげにしゃくりを上げた。

咄嗟に、そのジェスチャーの意味がなんとなくわかった。

 それで、俺は跪く老婆の頭に手を当てて言った。

 「そう言って貰えて嬉しいよ。さあ、顔を上げなさい。あなたの感謝は伝わったから今日は宴を楽しみなさい。そうすることが、私にとってはなによりも嬉しい」

 いかにも王子らしく言ったのだ。それがこの場に相応しい気がして……。もちろん、少々こっ恥ずかしくはあったが……。

 すると老婆は立ち上がり、

 「そうですね。そうしましょう」ととびっきりの笑みを見せてくれた。

 「その方がきっと、龍も喜ぶ」

 俺がそう付け加えると、

 「ええ、ほんとうに、ほんとうに――」

 泣いたような笑ったような顔で、老婆は立ち去っていった。



 「どうだ? 悪くなかったか? いかにも貴族らしく振る舞ったつもりなんだが」

 「まあまあだな」

 ヒスイが目を瞑って言う。

 「だけどこっ恥ずかしいもんだな。少々こそばゆかったよ」

 「まあ、この国にとってお前は今やちょっとした英雄なんだ。英雄には英雄なりの立ち振舞というものがある。あれで良いのさ――」

 「そうか。なんだか俺、とんでもないことをしちゃったのかな」

 俺がそう言うと、ヒスイが立ち止まり、呆れた顔で俺を見下ろしていた。

 「お前、本当に自分の行動に自覚がないみたいだな……」

 「ヒスイ、そんな呆れた顔で言わないでくれ……」

 だが、確かに俺のしたことは非常にレアな出来事なのだ。たぶん、洒落になれないほどの利益をこの国にもたらしもしたのだろう。案外、気軽にやってしまったが……。


 この国における龍との対話は王から王子へと繋ぐ一子相伝の秘儀である。

 王から、息子へ。――そしてまた王はその息子へとその技を繋ぐ――。そうして今までドラゴンとの対話はこの国で続けられてきたのだ。

 だが俺は、それをまったく別のルートから実現してしまった……。

 古代に記された謎の書物を読み解き、そのなかからドラゴンとの対話術を見つけ出してしまったのだ。

 そんな技、誰も想像しない奇蹟だった。

 それほど気兼ねなくやってしまったが、俺は多分、この国を絶望から救い出したのだ。そのことは、あの老婆の涙を見ているとわかる……。



 しかし、それだけにあの古書の存在は謎に満ちていた。

 いったいなぜ、あんなものがこの国に存在するのか…?

 本来、文字として本に残すことを拒絶してきたはずの龍と対話(たいわ)儀法(ぎほう)を、なぜあの本は文字として残すことが可能だったのか――。


 あの作者はあの本を書いたころ、この国でいったいなにをしていたのだろう。

 考えれば考えるほどわけのわからない本だった。あれだけの秘密が書かれていながら、この国の書庫に平然と並んでいたのも不思議なことだった。


 今のところはっきりしているのは、多分この国の有史以来、あの本をまともに読めたのは俺だけだっただろうということだ。

 何度も考え直してみたが、どうもそうとしか思えない。

 でなければ龍との会話術はとっくに他国に漏れていてもおかしくない。それに、あんな無茶苦茶に変態的な――言語(げんご)実験的(じっけんてき)な――本を俺のほかに読めるやつがいるとも思えない。

 俺のこの身体――レイゲン――が異様に利口だったから出来たに違いない高等技術なのだ。


 この世界の全言語を網羅的(もうらてき)に学習し、暗号的にシャッフルされた独自の混交(こんこう)言語(げんご)を紐解く――


そんなアクロバティックな読解を実行出来るやつは、たぶん二千年にひとり現れるかどうかの天才だけだろう。つまり、俺――というかこのレイゲンの頭脳――が凄すぎるのだ……。



 ブルッ……。


 

 思わず身震いが起こった。

 あの本を書いた作者についてもっと知りたかった。

 あれだけの天才なのだ。この世界にこの本以外にも足跡(あしあと)を残しているはずだ。いったいなにをし、なにを探求した人間なのか。

 いや――そもそもあの本の作者は人間なのか……。それすらも、わからない。

 いつかこの国を出て、世界中を旅したい。そして、あの本の作者の足跡(そくせき)を辿りたい――。

 俺はそんな夢をあの本をきっかけに懐き始めていた……。





 ……



 一通り屋台や関係者の間を回ったあと、ヒスイと二人きり城の見晴台で一息ついた。

 空は若干明るくなっている。涼しい風が果てしない地平線から吹いてきていた。



 「あ~気持ち良いな」

 城壁から乗り出して俺がそう言うと、

 「ああ、ほんとうだな」

 とヒスイも俺の隣で身を乗り出した。


 思わず、ドキリとする……。

 俺はヒスイの見せる無防備な瞬間に弱かった。それは鋼鉄の鎧を纏った兵士が素肌を見せる瞬間に似ている。

 ヒスイはどんなときも緊張していた。身体を強張らせ――咄嗟のアクシデントに反応出来るよう神経を張り詰め続けていた。それは謂わば、重く(いかめ)しい鎧を常に身に纏っているようなものなのだ。

 だがヒスイは、俺の目の前でだけ時折その鎧を脱いでくれた。その瞬間が、あまりにも無防備で、あまりにも魅力的なのだ。

 気づくと俺はヒスイの横顔に魅入っていた。


 「どうしたレイゲン、なにを見ているんだ? 」

 ヒスイの頬に微かな紅が差している。たぶんさっき軽く酒を飲んだせいだろう。

 「い、いや別に――」思わずそう逃げる。なんだか妙に恥ずかしかった。

 「いいからお姉さんに言ってみろ」ヒスイが言う。だが、ヒスイが自分のことを“お姉さん”なんて言うのは初めてのことだった。それくらいに、彼女は鎧を脱いでくれているのだ。

 そのとき――、


 「ん~~~~? 」

 

 にんまり微笑んだヒスイが俺の顔を覗き込んできた。

 

 「なにを考えているんだよ、レイゲン……? 」

 

 や、ヤバい。


か、可愛すぎる――!



 いくらヒスイの鎧を脱いだ姿が魅力的と言っても、ここまで脱がれると、どうしたら良いかわからない。今この瞬間のヒスイは、まったく暗殺者らしくなかった。ただただ、十代の女の子に戻っている。

 「い、いや、その――」と俺がたじろいでいると、

 「なあこの匂いがわかるか、レイゲン」とヒスイは空に鼻を突き出した。「朝の匂いが感じられないか? 私はこの匂いが好きなんだ。夜が終わり、朝がやってくる瞬間。そのときにだけ薫る香ばしい自然の匂い。私はそれが堪らなく好きなんだ――」

 ヒスイの髪が風に揺れていた。そして、睫毛さえも揺れている。

 なんていうありとあらゆる細部の美しい生き物だろう……俺は思わずそう見惚れる。

 ヒスイ。

 額から鼻に掛けて形良く丸みを帯びている横顔。つんとした鼻。ぷっくりとしたいたずらっぽい唇。――そのすべてが可愛かった。時折髪のなかから現れる真っ白な耳も好きだった。ヒスイが生きてきた血なまぐさい現実と相反(あいはん)するような、無垢(むく)な、――穢れない白い耳。

 

 「レイゲン」これ以上無いほど無垢な笑みを見せてヒスイが言った。「またふたりで出かけような」

 あっけなくその言葉に胸が貫かれる。あっけなく、恋の湖の底へと突き落とされる――。

 

 これは紛れもなく青春だった。甘酸っぱい、少々小恥ずかしい、とんでもなく幸せな青春――。どうやら俺は、この世界に来てそれをやり直しているのだ……!

 

 「ああ」俺も最高の笑みを作ってヒスイに言った。「きっと、――いや、必ず、またふたりきりで出かけよう」


 「ああっ!」


 微かに朝焼ける空のなかで、風に髪を揺らしながらヒスイがそう頷く。そして俺は、その横顔に見惚れ続けていた。









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