本の四季
Bitter
四月の春頃、冬の冷い空気が名残惜しく残り、陽に当てられ暖まる。春の独特の匂いは人々を魅了し、活気付ける。新しいモノやコトの連続、若者は日々充実していた。
苦く、落ち着いた色をした温かいブラックコーヒーの香り。それをちびりちびりと啜り、紙を捲る。周りの雑音はもはやBGMとなりつつある。春の匂いを紙に染み込ませ、読む者に直接与え、感情を揺さぶる。鳥肌が立ち、脳まで昇る高揚感、胸の高鳴り。人は感情を求めて読むのだと思う。
新品で綺麗に綴じている本をテーブルに置き、コーヒーを飲み干す。一息吐いて感慨に耽る。
春の陽気に照らされて夢を見ているかの様な気持ちになっていた所、落ち着いた微高い声が掛かった。
「コーヒーのおかわり、要りますか」
黒い制服に茶色のエプロンをした店員。
自分に話し掛けられたと認識するのに十秒。
コーヒーの白いカップが空いているのに気づき、やっと答えた。
「え、あ、ああ。お願いします」
「畏まりました」
喫茶店の店員は店内に戻って行った。その間も暖かさに身を任せて無心になっていた。
もう一杯飲んでから出よう、そう考えて待つ。
「お待たせしました、ブラックコーヒーです」
カチャとテーブルに置かれる。湯気の立ったコーヒーを見つめて一口。温かいビターな香りと味が嗅覚と味覚を刺激する。ふと隣を見ると先の店員が立っていた。
「……どうしましたか」
そう聞くと「すみません、なんでもありません」とだけ答えた。内心ではもの凄く気になるが、気にしていない体を装ってコーヒーをもう一口。白いカップを白い皿にゆっくりと置いて、もう一息吐く。隣から目を逸らして出来るだけ気にしない様にしていたが、ついに限界が来てしまい、結局自ら無言の間を切って話し掛けた。
「本は読みますか」
自分は本が好きだから、そんな何気ない理由で聞く。
「はい、読みます。お客様もそちらの本、読まれるんですね」
店員の視線の先には新しい本、ではなく、ボロボロになるまで何回も読み返した本だった。
それを手に取り眺める。
「これ、何回も読み返しました。あまり有名所ではありませんが、とても気に入っている本です。まさかご存知だとは思いませんでした」
そう言うと店員は微笑む。
「私も、まさかご存知だとは思っていませんでした。私も好きですよそちらの本」
最後にまた微笑んで店内に戻って行った。すっかり温くなってしまったブラックコーヒーを飲み干すと、いつもより少し、苦い気がした。
Sour
八月の夏頃、緑は視覚的にも嗅覚的にも強くなる。草の匂い、樹木の匂い、花の匂い。暑い太陽に照らされて汗をかいている。蝉は鳴き、人々はさざめく。葉っぱを通してチラつく陽の光は美しく、感情を持つ者を揺さぶる。そんな中、俺は今日もテラス席の端で一番目立たない席に座って本を読んでいた。
「お待たせしました。レモンティーです」
レモンを供えた透明なグラスが置かれる。レモンの黄色が氷に写され、さらにグラスに写る。透明感のあるレモンは夏にピッタリだと言えるだろう。
レモンティーをちびり、清涼感のあるレモンがスカッと味覚を刺激する。冷たさも相まって美味であった。とっておきの本を幾つか鞄の中に入れて、いつもの喫茶店へ。
いつもの様に本を読んでいるとこの前の店員が来た。
「いつもその本読んでますね」
俺の隣に立ち、言う。繊細な優しい声は鳥の囀りの様だ。
「はい、お気に入りなんです」
「新しい本は読まれないのですか?」
当然の疑問だと思う。新しい本はあまりここでは読まない。何回も読んでもう一度読みたいと思ったものを適当に持ってきている。
「いいえ、読みますよ。ただ家で読むので持ってきていないんです」
そう言うと彼女は少し表情を緩くする。
「今度お勧めの本を教えていただけませんか」
彼女とは何度か会話を交わすことがあったが、本の勧め合いなどと頼られることは今までなかった。「はい」と答えると「ありがとうございます」と言う。
彼女は微笑み、去って行く。その唇や髪、瞳に吸い込まれそうになり、暫く見惚れてしまう。艶やかでサラサラとした髪は陽に色を持っていかれる程に煌めいている。その眩しさにまた目を惹かれて心を奪う。脳と胸が熱くなり、動悸は激しくなる。血の流れは速く、体温が上がっているのに気づく。
まさか、俺……彼女が気になっているのか……?
確かに何度か話したが、今までそんな雰囲気にはならなかった。彼女を意識するきっかけはなかった筈なのにどうして、こんなに胸が締め付けられるのだろう。
人々はざわめき合い、子の声や犬の鳴き声、そして夏を象徴する蝉はやけに五月蝿く、酸味のあるレモンティーはやけに甘酢っぱく喉を通り過ぎる。口の中にはいつまでも酸味と甘味が残っていた。
Sweet
秋の夕焼けは人の心を虜にする。紅色の空と灰色の雲はまるで著名な美術作品の様だ。腐った落ち葉はこれから冬になることを表し、動物達に警告する。熊は冬眠、人は衣替えなどと色々と忙しい。食の秋、運動の秋、読書の秋という様に秋には色々な面があるが、俺は専ら読書に没頭していた。
「こんにちは、今日もあの本ですか?」
いつも通り彼女が話し掛けてきた。彼女が言うあの本とは何回も読み返したボロボロの本のことだ。
「はい、そうですよ」
春に出会い、今はもう秋。毎週の様にこの喫茶店に通い詰めた。いつも座るテラス席は時々取られているが、今日は座れた。もういいだろう、もういいだろう、そう毎日思っていた。何度そう思っても、中々実行に移せない。苦悩して過ぎて行く日々。寒くなって行く世界。今日決心しなければ後悔しそうだ。腹を括ろう。そして
———彼女に告白しよう。
いつものテラス席。まずは一杯ミルクティーを一口。温かいミルク。少し砂糖が入っている微糖が好きだ。
いつも通り彼女は隣に。寒くなったからか制服が長袖になっている。
「……この後、話があります……」
第一声、そう言う。彼女は首を傾げて「分かりました」と言う。
彼女の業務が一通り終わり、時刻はもう六時頃。夕日をバックのいい雰囲気だ。彼女が来る。高まる動悸、体温。寒さか緊張かは分からないが唇は震え、中々次に声が出てこない。寒い筈なのに汗が出る。背中や頭が濡れて気持ち悪い。気持ちが焦り、心臓の音が大きくなって、相手に気づかれそうで心配になる。色々な感情が溢れ出そうで気持ちが一杯だ。どんな反応なのか、本当にいいのだろうか、色々考えてしまう。だけど、今日決心した。
「今日はありがとう、来てくれて」
そしてついに———
「君が好きだ、付き合って下さい……」
彼女の目を真っ直ぐに見据えてそう言った。美しい瞳はより一層澄んだ気がする。
色々なセリフを考えた。だけど伝えたい事があり過ぎて、何を言えばいいのか分からなかった。だけど今日この言葉に決めたのは、あの言葉のおかげだった。待つ時間はとても苦しい、今にも逃げ出したい気持ちだ。
ふと目を開けて、彼女を見る。すると彼女は泣いているのだった。
そして彼女は
「———はい 喜んで——」
と微笑んだのだ。俺はホッと頬が緩んで、涙腺も緩んだのか涙がツーッと垂れて来るのが分かった。その涙の味は、とても甘く感じられた。
Salty
冬の月はとても青く煌々としている気がする。シンシンと降る雪の中人々は装飾された街を往来する。街の中心に佇むツリーの周りにはカップルだらけだった。いつもはそれらに興味をそそられることもなく、そそくさと家に帰りシングルベルを過ごしていた。それが今年は彼女ができ、二人でクリスマスを過ごすことになり緊張している。白い息を吐きながらツリー前で待つ。待ち合わせまで後三十分もあるのでかなり早く着いてしまった様だ。ヤバい、段々と緊張してきた……。別に一緒にご飯を食べるだけだと言うのに、その後何かする訳でもないのに心臓がキツく締められている。
「こんにちは、早いですね」
そんなことを考えていると声が掛かる。愛しい彼女のものだ。
「君こそ」
照れて頭を掻きながらそう言う。その様子が可笑しかったのか笑う彼女。
「それじゃあ行こうか」
振り向き加減で言うと彼女はいつもの様に隣に並んできた。歩く調子を彼女と合わせて、危険因子がないか周りを見張る。ホントこういうことしてると彼女ができたと実感するな。
内心気持ち悪い笑顔をしていると彼女が自分の手を握ってきた。
これはもう強烈、顔はまともに見れない。
俺にとっては半ば照れの拷問の様になりつつも予約しているレストランに着いた。そこそこ良いレストランの筈だが意外とドレスコードは緩い。なので普通に外出用のとっておきの服を着ている。
席に案内され暫くすると頼んだコース料理が次々と運ばれて来る。
一通り食べ終わり、いよいよ最後となった。
「今日はありがとう、付き合ってくれて」
彼女は口を布巾でそっと拭ってから「こちらこそ、こんなにいい所連れて来て貰っちゃって」
と返した。感慨に耽りながら外を見る。雪は降り続け人も往来し続けるばかりだ。
「あの、この後どうしますか」
「い、いや、何も考えていないけど……」
どうしますかって何!?これ誘ってる?いやいや流石に早いだろ……あってもケーキ食べる位だろ……?
内心かなり動揺している。
「それじゃあこの後、どちらかの家行きませんか」
上目遣いで聞いてくる彼女。これはもうその認識でいいのか。心拍数が上昇し、自分でも顔が火照っているのに気付く。彼女からこんなことされて耐えられる男は世界にいないだろう。
「あ、ああイイデスヨ……」
微妙に棒読みになる。俯きがちに言ったので彼女が顔を覗いてくる。
「よ、ヨシ、俺の家行こうか!」
勢いよく席を立ち上がる。彼女も立ち、ついて来る。
家に帰る道中適当にケーキを買ったり、甘いものは好きかなどの話をした。家はこの地域にあるので十分程で無事に到着。二階建てのアパートで一人暮らしをしている。
「おじゃまします」
どうぞと返事しつつ不審な物がないかをチェック。部屋は普段あまり片付けていないが、正月に大掃除するのも面倒なのでもう済ませている。
「綺麗にしてるんですね」
と素直に感心されてしまった。普段はもっと汚いなどと言うと、こうなることを期待していたのかと疑われてしまうので何も言わない。別に下心あって掃除した訳ではない。
「と、取り敢えずケーキタベヨウッカ」
「お皿借りますね」
そう言って食器棚へ向かう。適当に皿を見繕って小さいフォークも一緒に持ってきた。
俺は無難なショートケーキを買ってきたので皿に乗せる。彼女はあまり甘いものが好きではないらしいので少し甘いモンブランを買っていたのでそれを乗せて二人とも床に座った。
かなり彼女を意識しているので味がよく分からない。ガチガチに固まりつつケーキを突く。すると彼女がこちらに身を乗り出してきた。思わず顔を下げる。
「ちょっと顔を上げて下さい」
「え、え、な、何?」
彼女の手が俺の顎に当てられ上げられる。そして頬を触って———
「はい、取れましたよ」
俺はその場で呆然としていた。
そんな俺に見かねたのか彼女は言った。
「クリームが付いていたので」
あ、ああなるほど。そりゃそうだよな。、まだ早いよね……。
ふと彼女の顔を見ると頬が赤く染まっていた。俺もなんだか居心地が悪くなって急いで目を逸らす。落ち着くためお茶を入れてそれを飲む。
「それじゃあそろそろ……」
「ああ、うん。気をつけてね……」
微妙に顔を俯け荷物を整理する彼女。そして鞄を持って玄関まで見送った。
月明かりが程よく道を照らし、彼女の顔がよく見える。
お互い様か……。
その感覚が今日の濃さを強調する様に塩辛く口に溶けていった。
Sweet &Sweet
四月の春頃、冬の冷い空気が名残惜しく残り、陽に当てられ暖まる。春の独特の匂いは人々を魅了し、活気付ける。今日もいつもの喫茶店で温かいブラックコーヒーをちびり、甘味と苦味が舌を刺激する。新しい紙質の本をペラペラと捲り、またコーヒーをちびり。
こうしていると去年を思い出す。あの時もこうしていたら彼女が隣にやって来て、話し掛けたんだ。思えばあの、ゆったりとした様な優しい様な———しかし煌めいている微笑みに魅せられたんだろうな。
「こんにちは、今日は新しい本ですか」
「うん、今度貸すよ」
ありがとうと微笑む彼女。
春の陽気はとても暖かく、彼女の髪を照らし揺らして色素を奪っていく。
サクラの花弁が浮いたブラックコーヒーは温かさと甘みを多く含み、本はまた人生をとても味わい深く、色濃いものにしてくれるのであった。