焼いたスルメとオランウータンの関連性
その日から、僕は起きるとまず東の窓のカーテンを開いて、松本土木興業の三階を見上げ、それから一階の半開きのシャッターを見おろすのが日課となった。
自宅浪人になってからというもの、起きる時間なんていい加減なもので、徹夜した日は昼まで眠ってしまったり、そのまま朝と夜が、ズルズルとズレていくような不規則な生活をしていた。
出掛ける予定も無いのだから、パジャマ兼、部屋着であるスウェット姿で一日を過ごし、風呂にも三日に一度くらい……いや、さすがに最近は暑くなってきたから、まあ平均して1.7日に一度ぐらい、ざっとシャワーを浴びるかんじ。
そんな、うっすらとした不潔感を当てつけのように身にまとった浪人生の僕が、向かいの家に住む同い年の、いつの間にか飛びきり可愛くなった幼馴染の姿を求めて、自室の窓からこっそり覗いている……
それは去年あたりからやたらと騒がれ始めた、ストーカー行為に近いものがあるかもしれない。
けど誰だって、気になる女の子の家が目の前にあるとしたら、それくらいの事はするだろう?
松本さんの行動を逐一監視してどうこうするわけじゃないし、ほんのささやかな息抜きだ。
それに残念ながら、そうするようになったからって、僕が松本さんの外出、もしくは帰宅する姿を運よく見かけられた事は全然無かった。
それでも、三年間まるで無関心だった松本家に、急に興味を持ち始めてから、僕なりに気付いた事がいくつかある。
まず一つ。
シャッターは、一日のうち数回は、ガラガラガラと大きな音を立てて、多少は上下に動かされているという事。
僕が最初にその音に気付いた時、もしかして松本さんが出てくるかと思って、外を覗いてみたんだけど、そこにいたのはリトル小錦。つまりおじさんだった。
そしてその数時間後に、またガラガラガラと音がして、僕がまた窓から覗くと、その時は、痩せて焼いたスルメのように背中の丸まった、松本さんのお婆ちゃんがいた。
それが朝夕、何度か繰り返される。
つまり、おじさんは体が太っているので、身を屈めるのが面倒みたいで、出入りする時に、シャッターを半分より上の位置まで押し開けるけど、お婆ちゃんの方は、用心深いのか何なのか良く分からないけど、自分が出入りできるギリギリの位置まで、それを閉めておきたいみたいで、おじさんがシャッターを上げてった後は、しばらくして必ずお婆ちゃんがそれを下げに来る。
そしてお婆ちゃんは、丸まった背中をグイと伸ばすと意外に背が高く、太ったおじさんと、実は同じくらいの身長で、そして今まで二人は似ても似つかないと思っていたけど、そのシャッターを上げ下げする瞬間、そう、ほんの一瞬なんだけど、まるでオランウータンが木の枝にぶら下がるように、長い両手をシャッターに掛けて、やや背中を逸らすようにした時の姿が、まるっきりそっくりで、僕は、『ああ、この二人は本当に親子なんだな』と、感心してしまった。
松本さんや、三人目のおばさん、そして今は小6くらいの義理の妹さんは、どちらの高さにも対応できる体の柔軟性を持っているのか、それとも重たいシャッターを開け閉めするのが嫌なのか分からないけど、僕の全く気付かないうちに、上手くその下を出入りしているようだった。
こんなに大きな家なのに、なぜ他に玄関か勝手口を作らなかったのか。
僕は不思議な気持ちで、四角くて素っ気ない松本家の全体を見渡す。
そして三階の右端の窓はどうかというと、夜になると電気が点いて、朝になると消えている。
閉じたカーテンのひしゃげ具合とミッキーマウスの背中は、西日を浴びたまま微動だにしない。
おそらく松本さんは、普段は通りから見えない、南側の窓しか使っていないのだろう。
だから、水玉模様のカーテンが不意に開いて、松本さんが姿を現し、彼女の登場を待ちわびていた僕に気付いて、シンデレラのように手を振ってくれる……
そんなドラマみたいに素敵な事は、全く起こらなかった。
けれど夜中、そこに明りが点いているのを見るだけで、僕は何ともいえない、幸せのようなものを感じることができた。
そして僕の詰め込み過ぎの頭の中に、青い色が広がって行く。
それは、全てを吸い込むような、空と海の青だった。
その色が、過熱した脳をクールダウンしながら隅々まで広がると、それに合わせて、復習した単語や熟語や何やらが、記憶の中にすーっと浸み渡って行くように思えた。
あの日、歴史の年号が、すっかり覚えられていたのと同じように。
そしてそれから、目を閉じて、
松本さんの、生きて呼吸する、確かな音を思い出す。
波のように繰り返されるその音に、
僕は自分の呼吸を重ねてみる。
それから、ほんの一瞬、触れただけの指先の感触と、
左の胸のふくらみに見つけた小さなホクロ。
それらが僕の胸の鼓動と合わさって、切ない疼きを引き起こす。
そして彼女の幻想が、僕に向かって手を差し伸べる。
僕はその優しさに逆らわない。
その記憶をたよりに、僕は自分の体を慰める。