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時を刻む水時計  作者: るりまつ
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ミッキーマウスの猫背の背中


 急に気が重くなり、それでも「ただいま」と言って深呼吸し、それから車を勝手に持ち出した言い訳を頭の中でもう一度確認した。

 すると何かを床に落とすような大きな音がして、それから母さんが慌てたように洗面所から廊下に出てきた。


「お、お帰りなさい。…夕方くらいって言ってたのに、随分早かったのねぇ……」


 どうやら留守電は確認済みらしい。

 そして母さんも外出から帰って来たばかりのようで、いつもより、しっかりと色の目立つ口紅で塗られた口元は笑っていたけれど、その声に、動揺した響きが含まれているのを僕は聞き逃さなかった。

 そしてパートに行く時とは違う服を身に付け、目立つネックレスを付けていることぐらい僕にも分かる。


「早くて悪かった?…そっちこそ厚化粧して……どこ行ってたんだか!!」


 何でそんな事、言ってしまったんだろう。

 僕は言い捨てたまま二階の自室に駆け上がり、大きな音を立ててドアを閉じた。

 そしてベッドに仰向けに倒れ込み、陰気な天井の木目をじっと睨みつけた。


 母さんは浮気している。


 僕は知ってる。

 今までも父さんが会社に行って、僕が学校に行っている間に、誰かに会いに行ってたんだ。

 いつもならきっと車に乗って。

 多分、パートで働くようになってから……。


 父さんは去年まで、大手4社の一つと言われる証券会社で、バリバリ働くサラリーマンだった。

 けどいわゆるバブルってのが崩壊した後、会社はどんどんヤバくなってたみたいで、でもその頃、僕はまだ新聞もニュースもあんまり感心無くて、うちにそんな暗い影が忍び寄ってるなんて思いもしなかった。

 それで僕が高校生になったタイミングで、今までお嬢様育ちで専業主婦で、働かせた事が無いというのが父さんの自慢だった、世間知らずの母さんが、三つ先の駅近のショボいスーパーで、レジ打ちのパートなんかするようになってようやく、

『あ、うち、ひょっとしてお金が無いのかな』

 って気がついたんだ。


 それから去年の秋、父さんの働く証券会社が、社会的な大事件を起こして、そのあおりを食って、父さん自身は何も関係ないのに、ずっと勤めてきたその会社をクビになってしまったのだ。


 それまでキリッとネクタイを締め、ビシッとスーツを着て、朝早く出勤して夜遅くまで働いてた父さんは、会社を辞めさせられた途端に覇気を失い、どっと老けこんだように見えた。

 それから数カ月、船橋の職業安定所にほぼ毎日通ってたんだけど、その時もいつもスーツを着て、会社にいた時と同じ時間に家から出て行った。

 そんな早くに出かけたって、職安が開いてるわけがない。

 でもきっと、うちの近所の人に、クビになったことを知られたくなかったのかもしれない。

 どこか公園にでも座って、ハトに餌でも撒いて時間をつぶしてたのかも。

 そのくせ帰宅は早くって、僕が学校から帰ってくるともう大体家にいて、その時はジャージに着替えて、不機嫌そうに居間のコタツでTVを観てた。

 そして夕方、パートから母さんが帰ってきて、疲れた母さんは、言わなくても良いような嫌味を父さんにチクチク言ったりして、それで何だかすごく、空気が張り詰めた感じになって、僕はそれが耐えられなくて、部屋に籠ってひたすら勉強した。

 とにかく必死に。まるで強迫されるように。

『合格しなきゃ、合格しなきゃ、こんな毎日は、あと少しで終わるから』

 と、呪文のように唱えながら。


 でも、結局、落ちたのだ。驚いた事に全部。

 まさかと思っていた滑り止めにすら。


 僕の全落ちが決定した頃、父さんはようやく、当時不況の中でも、羽振り良くCMをしていた消費者金融に職が決まり、母さんは週3日、昼過ぎから夕方までの4時間だったパートを週4日のフルタイムに変え、そして僕は、同じように浪人が決まったクラスメイト達が、次々と予備校の手続きを始める中、自宅浪人を決めた。


「元々コツコツ自分のペースでやる方が性に合ってるから」


 クラスメイトにはそう言った。

 けれど本当の理由はもちろん、経済的なものだ。

 父さんにもそう告げると、父さんはホッとしたような表情を浮かべ、

「お前は几帳面で計画的だからきっと大丈夫だ。来年までにはなんとか……」

 と言って、それから急にモゴモゴと口ごもり、

「でもな、良い大学に行くだけが人生の全てじゃないぞ…特にこれからの時代は……」

 と力無く言った。それを聞いて、僕は思わず噴き出しそうになった。


 今さら何をおっしゃる?

 これまで僕に、それこそ小学生のころから勉強しろ、塾に行け、バカは相手にするな、良い高校に入って良い大学を目指せ、負け犬になるな!と散々言い聞かせてきたクセに。

 自分が負け犬になった途端にそう来たか。

 だったら僕、このまま就職しようか?家計のために。

 ていうか、もし今年合格してたとして、入学金、払えたの??

 もし来年大学受かったとしても、私学じゃ学費払えないかもしれないね。

 奨学金?そういうのって、サラ金で働く父親のいる家庭にも出るのかな?

 この家のローンだって、何でか知らないけど急に買い換えた車のローンだってまだ残ってるだろ?

 ねえ、うち、他にどんだけ借金あるの??

 父さんが知らない間に、母さんこっそり宝石みたいなの買ってるの知ってる??

 バブルの頃の浮かれた生活、切り替えられなくて、今でも西武に行ってブランド物たまに買ってる。

 そういうの、払えなくなったらどうなるの?父さんが払えなかったら、僕がまんま引き継ぐの?

 でも母さんだってストレス溜まるよな。

 父さんがやっと仕事見つかって家から出るようになったのに、今度は俺がずっといてごめんね。目障りだよな、今までは自由にしてたのに……


 ……ぁぁぁぁああああああああもうっ!!冗談じゃないよ、カンベンしてくれ!!


 僕はたまらない気持ちになり、ベッドから弾みを付けて起き上がった。

 そして部屋の東側の窓の、昨日から閉じっぱなしだったカーテンを乱暴に左右に開き、いつもは風を通す以外に用も無い窓の外をじっと見た。

 道路を隔てて建つ、松本土木興業の自宅兼事務所。


 シャッターが全開に開き、業者さんや職人さんたちの出入りが多くあった頃は、その事務所の横の駐車場には、松本さんのお父さんの黒塗りのベンツと、二人目のお母さんのゴルフのカブリオレと、お婆ちゃんのワゴンRが三台並んで停まってた。

 この事務所の他に、松本さんのお父さんは坪井町にも広い土地と営業所を持っていて、そこには現場作業用のトラックや、大きな掘削機なんかが、たくさんあるって聞いてたけれど、僕はそこに行ったことも無いし、今もそれがちゃんとあるのかどうかも知らない。

 ただ中2の頃、その二人目のお母さんが松本さんとは血のつながりのない妹さんを連れて、出て行ってしまった時、カブリオレが無くなって2台になり、それから中3の時に、今のおばさんが、自分の小2の女の子と一緒に来た頃には、ベンツはクラウンの中古車になって、それから去年の夏、そのクラウンも見なくなった時から、事務所のシャッターが上まで開く事は無くなった。


 僕は、その半開きのシャッターを見ながら溜息をついた。


 松本さんのお父さんは、僕らと同じ年頃の近所に住む男子からは、

『リトル小錦』

 と呼ばれて恐れられていた。

 小錦とはいうまでもなく、ハワイ出身の超巨漢の相撲取りのことだ。

 身長は低いけど、ガッチリとゴツい体形をしていて、目がギョロリと大きく、声も野太く、豪快という言葉が似合うおじさんだった。

 船橋の湾岸地区の大規模開発に携わる、大手のゼネコンから仕事を貰ってたみたいで、景気の良かった頃は、松本さんちは本当に派手な生活をしていた。

 僕のうちも、多分小学生の頃まではそれなりに良い暮らしをしてた方だと思う。

 ていうかその頃はみんなそうだったから、それが普通だと思ってた。


 けど、松本さんちの金持ちぶりは、その中で一番といっても良かったと思う。

 少なくとも、当時のクラスメート達からはそう思われてた。

 松本さんちに遊びに行くと、おばさんはいつも、美味しい高級洋菓子を惜しげも無く出してくれた。

 けれど僕の母さんが、松本さんちでこんな物を食べたとか、あんなものがあったとか報告すると、

「土建屋さんは、サラリーマンと違ってお金づかいも派手だからねぇ」

 と、笑っているのにどこか嫌な言い方をするようになったので、僕は母さんにそういう事は言わないように決めた。

 松本さんのお父さんは、ビルを建設する前の基礎をつくるための、地盤の掘削工事や、古いビルの解体なんかを専門にやってたみたいで、その時に出る残土や産廃を、どこか千葉の山奥の処分場に棄てに行く仕事も請け負っていたみたいだ。

 なので今思えば、母さんの中には、そういった職業に対する蔑視があったんだと思う。


 その時の母さんの口ぶりと、さっきの口ぶりを思い出し、僕の胸はまたムカムカしてきた。


 僕は窓から、松本土木興業の3階を見上げた。

 他の窓が、全て白っぽいレースのカーテンが掛っている中、一番右端の窓だけが、ピンクに大きな水色の水玉模様という、趣味の悪いカーテンが掛っている。


 そのカーテンの真ん中の切れ目が、ひしゃげて開いた隙間から、長いこと放置されて色褪せた、猫背のミッキーマウスの背中が見える。

 それが松本さんの部屋。


 彼女は今、何をしているだろう……。

 あの部屋の中にいるのだろうか。


 車の中で、松本さんは過去の話を一切しなかった。

 三年間、顔を合わせない間、彼女がどんなふうに過ごしてきたのか。

 あれだけくだらないジョークをかき集め、賑やかにしゃべり続けながら、僕が知りたい事は一言も、語られなかった。




 ねえ、松本さん。


 僕たちは何も悪い事なんかしていない。


 そうだろ?


 たまたま、そういう時代に生まれてしまっただけだ。 




「僕らは、被害者なんだ」




 ミッキーマウスのしょんぼりとした背中を見上げながら、僕はそうつぶやいた。








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