松本さんが呼吸して、動く事によって聞こえてくる音
ようやく辿りついた海岸が、いったい何という名前なのか、僕には分からなかった。
まだサーフィンを始めて間もないという松本さんにも、分からなかったようだ。
ただ、九十九里のどこか海沿いの道に出たので、適当に目にとまった細い脇道を左に曲がって進んで行くと、そこに駐車場も無い、だだっ広い砂浜がいきなり現れ、道はその砂に吸い込まれるように終わっていた。
そのまま四輪駆動を信じて、車で砂の上をゆっくり進んで行くと、松本さんが唐突に「ここにして」と言ったので、言うとおりにそこで車を停めた。
どうして彼女が「ここにして」と思ったのか。
僕たちの他に車は一台もなく、人も全くいない。
前を見ても後ろを見ても、同じような海が広がっていて、上には空があって下には砂があるだけ。
僕には『ここ』と、他の違いが全く分からなかった。
けれどきっと、松本さんの中のサーファーとしての何かが、ここを指定したのだろう。
それから松本さんは、海に入る準備を始めた。
そこから先の事は、僕の記憶には視覚としては残っていない。
なぜかというと、松本さんが何のためらいも無く白いパーカーを脱ぎ捨て、着替えを始めようとしたからだ。
僕は慌てて運転席のシートを大きく倒し、頭の下に両手を組んで目を閉じた。
目を閉じると、松本さんの姿が妄想となって、逆にくっきりとした輪郭を伴い浮かび上がる気がした。
それは久しく、僕の日常生活の中で聞いていなかった、松本さんという人が呼吸して、動く事によって聞こえてくる様々な音のせいだ。
「じゃ、行ってくるね」
松本さんが一声かけ、それから砂の上を軽やかに走っていくのを、僕の耳は寝たふりしながら見送った。
そして本当に、波の音と、風の音しか聞こえなくなった。
そうなるともう、やることも思いつかなかったので、僕は目を閉じたまま、昨日から今朝にかけて暗記した歴史の年号を頭の中で確認した。
すると、数字とそれにまつわる過去の世界の出来事は、自分でも驚くほど正確に、記憶の引き出しに整理され、出し入れ自由になっていた。
僕は嬉しくなって目を開いた。
きちんと暗記できている事にホッとした途端、心を覆っていた黒雲があっという間に消え失せ、晴ればれとした気分になった。
フロントガラスの前に広がる青い空のように。
シートからゆっくりと身を起こす。
空の下の海が、五月の太陽に照らされて、さっきよりもキラキラ光り、青みが増したように見える。
松本さんはどこにいるのだろう?
反射が眩しくて良く見えない。
それでも目を凝らしていると、思っていたよりだいぶ左側の方で、松本さんらしき影が波を追い、立った瞬間、ひっくり返るのが見えた。
「へたくそ」
僕は思わずつぶやいた。
それでも松本さんは、へこたれずに何度も何度も、子供みたいに同じ事を繰り返していた。
そんな松本さんの姿をぼんやり眺めながら、中学生の頃の彼女の記憶を辿っていると、急に眠たくなってきた。
なんでサーフィンなんて始めたんだろう……
僕は再びシートにもたれ、目を閉じた。
そして完全に眠りに落ちてしまう前に、今日の日付をしっかりと頭の中に刻み込んだ。
それから何年も経ったあと、僕は記憶を元に、その海岸を何度も探してみた。
けれど、どういうわけか、どうしても。
そこに辿り着く事はできなかった。