そのまま海へ・・・
緊張で手に汗をかきながら、オデッセイのハンドルを握る僕の横で、松本さんが、ほっそりした指を伸ばしてラジオの周波数を、ベイFMからインターFMに切り替えた。
調子良いDJの声に合わせて、アップテンポの洋楽が流れ始めた気がするけれど、その時の僕には、それが何の曲だか聞き取る余裕なんて全くなかった。
だいたいからして、自分が今なぜ、高速道路を120キロも出して走っているのか。
それが良く分かっていなかった。
ただ正直、泣きたい気持だったことだけは覚えている。
薬円台の24時間営業のエロビデオ専門レンタル店の駐車場に車を停め、久々に再会した、綺麗になった松本さんに「ちょっとここで待っててね」と言って、桜木ルイを返しに行くわけにもいかず、僕は取りあえず先に松本さんをJR津田沼駅まで送って、それから薬円台に戻って、ビデオを返して帰ろうと思っただけだ。
けれど思惑通りに事は運ばなかった。
車内に二人きりになったとたん、松本さんのキャンディーみたいなシャンプーの香りが僕の鼻をくすぐり始める。
そして真っ直ぐ前を見ていても、視界の左下をチラつくスッキリと長い素足……
それに気を取られないよう、わき目も振らずに運転に集中しようとしているのに、
「ねえねえ、春田」
とお構いなしに話しかけてくる松本さんの甘い声。
信号を、道路標識を、見誤らないようにするのに必死で、ろくに返事も出来ずにいると、
「ちょっと、聞いてるー?」
と、僕の左腕に右手を掛けて小さく揺さぶる。
いくら一回抜いたばかりでも、そんなことされたら健全な僕の心身も揺れてしまう。
浪人が決まっても、これくらいは役に立つから良いだろうと、得意の貯金で子供の頃から貯めてた小遣いをはたき、車の運転免許を取得してまだ一カ月。
行動範囲は、自分の家から最寄りの高根木戸駅と、せいぜい薬円台のビデオ店くらいのものだった。
でも薬円台から津田沼なら、成田街道に出てしまえば真っ直ぐ一本だ。
間違えようも無い。頭の中で地図は出来てた。
なのに、隣に松本さんが乗っていると言うだけで、僕の頭のコンパスは、東西南北だけでなく、右左まで狂ってしまったようで、気がついたら成田街道が、いつの間にか国道14号になっていて、そのうち右側に、幕張インター沿いのお城みたいなラブホテルとその仲間たちが見えてきて、ヤバい津田沼、通り越したと思って、慌てて引き返そうと左の道に入ったら、吸い込まれるように坂を登って、そこはすでに京葉道路。
そして今僕は、早朝の渋滞前の速い車の流れに迷い込み、後ろにピタリと付く大型トラックに煽られながら、追い越し車線をスピードを緩める事も出来ずにただただ必死に突っ走っていた。
武石インターを過ぎた。
彼女が、異変に気付いていない訳がない。
その証拠に、車内が無言に包まれてから何分経過しただろう。
さすがに僕は、何か言うべきだと思った。
例えば、
「道を間違えたらしい」
とかなんとか。
それを勇気を出して口にしようとした時、横で、
「ふあ〜〜〜〜〜〜〜〜」
と、大きなあくびが聞えた。
僕の心臓は縮みあがった。
そして恐る恐る松本さんの横顔を伺った。
すると松本さんは、フロントガラスに広がる眩しい朝陽に目を細め、
「このまま一緒に海まで行こうか」
と、のんきな声で言った。
それを聞いて、硬くなってた肩の力がふと抜けた。
僕は前を見つめたまま、
「うん」
と答え、車はそのまま流れに任せ、太陽の方向へ東へ東へと進んで行った。
次第に車の数が減り、前後に充分な車間距離が出来るとともに、僕の耳にも余裕ができて、ラジオから流れる音楽と、彼女のご機嫌な鼻歌が聞えてきた。
バックミラーに目を移すと、広い荷台に一枚のサーフボードと、リアガラスに、いつもの僕の狭い世界が、ぐんぐん遠ざかって行くのが見えた。