その名前・・・
「去年、山田プロがグラチャンになった時のモデルで、千葉出身のシェイパーって事で、マチスポの中でもこの津田沼店の為だけに、島村さんが3本限定でシェイプしてくれたやつなんす」
た、高い……
店員が、僕の横にピタリと付いて、説明を始めたけれど、僕はその値段の高さに驚いてしまい、ほとんど聞いていなかった。
せいぜい5万円位かと思っていたら、憧れの、ゼリー色のパソコンとほぼ同額。
手のひらに、にわかに滲み出てくる脂汗。
それがねっとりと、まるで接着剤のように僕の手とサーフボードを繋いでしまって離れない。
恐らく僕は、今、真剣な表情を浮かべているのだろう。
そりゃそうだ。
こんな高い値段のするモノ、店でうっかり触ったことなんて無い。
子どもの頃、母さんと一緒にデパートに行ったりすると、
『買う気が無いのに、むやみに商品を触っちゃ駄目よ』
と言われたことが、今さらのように思い出されて悔やまれる。
母さん、昔は良いこと言ったね。
そして店員は、僕が
『真剣なまなざし』
で、高価なサーフボードに触れたまま立ちつくしているのを見て
『真面目に購入検討中』
と思ったのだろう、そのまま囁くように解説を続ける。
「どうっすか、そのレールの感じ。手に吸いつくようでしょう……?」
「……はあ。吸いつきますね、、、」
横目でそっと伺うと、僕より少し背の小さい彼の胸には、
『スタッフ・力石』
という名札が付いていた。
髪は、栗みたいに黒くみっしりした坊主頭で、円らな瞳で僕の横顔をじっと見上げていて、年上なのは間違いないだろうけど、何だかあどけないと言った感じがする。
そして、僕がうっかり曖昧な同意を返すと、童顔の力石店員は、嬉しそうに目を輝かせた。
「分かります?ほら、このノーズからセンターにかけての微妙なテーパード。
コンケーブはね、ダブルでこんな感じ」
そう言って、僕とサーフボードの間に割り込むように入って来ると、力石店員は、立て掛けてあったそれを大事そうに両手で持って、宝物でも見せるように、裏に返して見せてくれた。
何が低パー度で、根頚部なのかさっぱり分からなかったけど、お陰で僕はようやくサーフボードから手を離すことができた。
「芸術的っすよね。無駄を徹底的に削ぎ落したこのギリギリの厚み。
このレールから生まれる加速を活かして、思い通りのマニューバーを波に刻むんす。
……けど、このボードの良さを引き出せる奴なんて、このショップにはなかなか来ないっすけどね、、、」
そう言って力無く笑うと、力石店員は僕の肩越しに遠くを見つめた。
それにつられて振り向くと、商品陳列棚の前では、相変わらずケミカルギャル軍団がTシャツを胸の前に広げて、軽薄そうな他のバイトらしき店員まで一緒になって、きゃっきゃきゃっきゃと騒いでいる。
力石店員は、肩を竦めて小さなため息をつくと、僕の顔をちらりと見て、それから頭のてっぺんからつま先まで、素早く黒目を二往復させてから切り出した。
「で、どうなんすか、お客様は」
「は? どうって……」
「若いけど、結構やってるんしょ」
「は? 何を……」
「何をって、サーフィン」
力石店員が、どことなくこの店で浮いた感じに思えるのは、多分、サーフボードを見る目はあっても、人を見る目が無いからだろう。
いったい僕のどこを見れば、そんなセリフが出てくるのか。
「いえ、僕、全然です」
「またまたぁ!いつも海、どこ行ってるんすか?」
「えっ?……海は、東浪見から部原辺りですかね」
僕の口からついサラッと、いつも松本さんと行くお決まりコースの地名が出る。
「部原すか!あすこのリーフ、良いっすよね。
そうそう、この島村さんのボード、リーフの硬めの波にも、ビシッと食い付くんすよ。山田プロも大絶賛!」
「へーそうなんですか……」
それ以外、僕にどう答えろと言うのか。
島村なんて、楽器店しか知らないし、山田はうどんのチェーン店しか思い当たらない。
食い付こうが食い付くまいが、力石店員、僕はあんたが食い付いてくるのが一番困る。
ここはひとまず早く話を切り上げなくては。
けれど純朴そうな力石店員は、
「そうそう、コレ見ました?こないだの新島の第三戦!」
と言って、丁寧にサーフボードを元の位置に立て掛けると、今度はそそくさと手近のパンフレットの積まれた棚から、一冊の雑誌を手に取り、僕に向かって開いて見せた。
それはサーフィンの専門誌のようで、ページを開くなり、僕の目に青一色が鮮やかに飛び込んできた。
そしてその中心に、一人のサーファーの姿が写っていた。
見開きいっぱいの、切り立つような大きな波。
その波の斜面を駆け上がる白い軌跡と、サーフボードを蹴るように半身を捻るサーファーの身体。
その筋肉の浮かび上がる厳つい身体を包むように、ダイナミックな飛沫が、虹を含んで飛び散る瞬間。
長い黒髪は、飛沫と同じように大きく弧を描き、まるで紙面からその波とサーファーが飛び出てきそうな迫力が伝わってくる。
「ほら、このボードっすよ。
このボードでフェイスを駆け上がって、リップにバチコーン!て当てこむ。
見て下さいよ、このスプレーの量!半端じゃないっしょ。
山田プロみたいなパワーサーフ、憧れるんすよね……」
熱く語る力石店員のお陰で、これが山田という人だと言うのは良く分かった。
けれどその時僕が感じたのは、このサーファーが優れているとか、スポーツとして見た時の技術がどうのという事では無かった。
それはとても口では上手く言い表せないのだけど……
そしてとても小っ恥ずかしいのだけど……
そう。
ある種、感動のようなものだった。
そしてその、息を飲むような瞬間を捉えた群青色のページの隅に、
photos KOHEI ISONO
という白抜き文字を見つけた。




