僕と母さんと松本さん
訳も分からず、でも大急ぎで階段を駆け下り、便所サンダルを引っかけて門扉を出ると、すでに松本さんは外にいた。
水色にレモンイエローのラインが二本入ったジャージのズボンに、ピンクのチビTという、パステルカラーづくしのラフな格好。
そして僕を見るなり笑みを浮かべ、ビーチサンダルをパタパタ鳴らして駆けて来て、右手に持った小さな物を、誇らしげに突き付けた。
「いいでしょー、これっ!!」
「あっ!!」
印籠のように僕に向かって出されたそれは、やっぱりピンクの、真新しい携帯電話。
「試しにね、春田いるかなーって掛けたんだけど、なかなか出ないからさぁー。携帯ってデンワ代、高いって言うぢゃん?だから一回切っちゃった。ごめんね!」
「なんだ、携帯からだったんだ、、、知ってたらもっと早く出たよ……。それより、家の電話に出たのリト、、おじさんだよね?びっくりして思わず切っちゃったんだけど……ヤバいかな、、、?」
「ふふふ…すっごい、おっかない声で出たんでしょ?あいつ」
「う、や、まあ……」
「やっぱしね!気にしないで良いよ?うちさぁ、夜の電話は、ほとんどあたし宛てだから、あいつ、ふざけてワザとビビらそうとすんの、超ムカつく。けどもうコレあるから大丈夫」
しどろもどろの僕に、松本さんは笑って言った。
「あ、や、うん。…それ買ってもらったの??いいね、うちは父さんと母さんは持ってるけど……」
「ううん、自分で買った!今月のバイト代で、思い切って契約しちゃったんだー」
「え!自分で??」
僕はちょっと驚いた。
「そう、自腹!」
「へぇ……えらいね、、、。バイトしてるんだ……?」
「そそ、お小遣いくらいは自分で何とかしないと〜!ウチいま、相当ヤバいからさぁ〜」
松本さんが肩をすくめる。
僕はそのまま話を流す。
「ドコモ?」
「ブブーッ!Jフォン。安いしぃ。ほら、まめぞうだよ」
「まめぞう?何それ……」
携帯電話の小さな液晶画面の中で踊る大豆を見せられながら、頭の中では違う事を考える。
『そう、僕んちも相当ヤバいみたい』
それを僕は言えなかった。
別に見栄張ったつもりじゃないけれど、彼女んちは、とりあえず短大の学費くらいは出せてるわけだ。
自営業とサラリーマンでは、ヤバいの程度にもやっぱり違いがあるのだろうか。
「ねね、ところでさぁ、春田にお願いがあるんだけど」
「ん?」
薄暗がりの中、松本さんの宇宙語みたいな携帯解説を上の空で聞いていたら、いつのまにか相当近い距離に彼女がいて、その黒々とした大きな瞳が僕の目を見上げていた。
暗さに乗じて、僕もその目をじっと見ながら訊き返す。
無意識に、スェットパンツのポケットに両手を突っ込んで。
……もちろん寒い訳じゃない。
「今週の木曜ね、また海、連れてってもらえないかなぁ」
「えっ!?」
語尾に甘さを、そして唇に人差し指を添え、小首をかしげる松本さん。
『また海に連れてって』
その誘惑の響きに、そして可愛い仕草に、もちろん胸が高鳴った。
けれど僕は、多分それとは逆の表情をしたんだと思う。
「ね、ね、お願い。道はね、今度は下道、ばっちり調べたの。だから迷子は大丈夫!」
松本さんは両手を拝むように合わせて見せる。
もちろん、誘われて気乗りしないわけが無い。
また彼女と一緒に出かけられるのはすごく嬉しい。
けれどあの一日で、僕は相当の出費をした。
まずは高速代。
そしてコンビニとは言え、余計な昼飯と飲み物とおやつ代。
ゴソッと減った財布の中身と、オデッセイの燃料計。
父さんも母さんも何も言わないもんだから、まだしらばっくれているけれど、次はそうもいかないだろう。
果たしてガソリン代ってどれくらい掛るものなのか?
考えてみれば、僕はまだ自分で給油さえした事が無いのだ。
「うーん、、、海か……」
決断を渋る僕の目が[¥¥]と表示され、スロットみたいにくるくる回っていたのだろうか。
松本さんは僕の腕を両手で掴み、さらに熱を込めて言う。
「お金なら大丈夫、私が全部払うから!!」
セコさを見透かされたようで、僕は慌てて否定する。
「いや、そういうことじゃ……」
「大丈夫! 春田は車だけ出して運転してくれれば良いの!さっきも言ったけど、バイト代入ったばっかなの。高額バイト。ふふっ」
「高額バイト……?」
「あ、そうだ、お弁当作ろうか!春田と二人分。ねねね?だから良いでしょぉ??」
甘えたように、僕の腕を左右に揺さぶる彼女。
いったい何のバイトをしているのか。
訊こうかどうか迷った時、ちょうど玄関から母さんが出てきた。
「あ、おばさん!先ほどは、どーもーっ!」
「ええ……。聡、ちょっと良いかしら?梨花ちゃんも……」
右腕に母さんの鋭い視線を感じ、僕は自分の短い髪を不自然に掻き上げながら、その腕にある松本さんの小さな手を、そっと解いた。
「なに?」
「もう遅いから……あんまり外で立ち話も……」
言いにくそうに切り出す母さんに、松本さんはケロッとして言った。
「あ、スイマセン、もう終わりました!……てなわけで春田、ケントーよろしくぅ〜♪♪」
そして、右手の人差指と中指を裏返して額に付け、左足をピョコッと上げて身を捻り、意味不明のポーズを決めると、母さんにぺこりと一礼して走り去り、長い髪が地面に付かないように抑えながら、シャッターの下に滑り込んだ。
それを見送ると、僕と母さんは同時に深い溜息をつき、それから一緒に家に入った。
母さんが扉を閉め、鍵を掛けている間に、僕はさっさと玄関に上がって部屋に戻ろうと思ったけれど、ふと思い留まり、そして振り返って訊いてみた。
「ねえ母さん、木曜って仕事だよね?」
「え?……ええ、そうだけど」
脱ぎ棄てられた、僕のサンダルの踵を揃えている母さん。
「じゃあ、車、使っても良い?」
「……どうして?」
「うん……ちょっと出掛けたいなと思ってさ……」
「梨花ちゃんと?」
サンダルに手を添えたまま、身をかがめた格好で、母さんが僕の顔を上目づかいでじっと見た。
その責めるような視線。
でも僕は、正直に答えた。
「うん……」
「どこ行くの?」
「海」
「海?」
「うん……実はこないだ車を持ち出した時も、松本さんと一緒に海に行ったんだ」
母さんは目を見開き、手を止めてしばらく無言になった。
それからゆっくりと体を起こし、玄関のたたきに突っ立ったまま、両手を胸に当て、小さく握った左手を、右手でもじもじ擦り始めた。
その手の中にある何かを、まるで庇っているかのように。
しゃりしゃりという乾いた皮膚の音がして、それが何だかやるせない。
だからその音を遮るように僕は話を続けた。
「松本さん、サーフィン始めたんだって。だから海に……」
「それをどうして…あなたが連れて行かなきゃいけないのかしら……?」
今度は僕が無言になった。
母さんの言う事はもっともだ。
どうして浪人生の僕が、松本さんのアシにならなきゃいけないのか。
そんなの誰が考えてもおかしい。
誘う彼女も非常識だ。
自分でも分かってる。
金だって無いのはさっきの通り。
なのに図星を指された途端に、僕は急にイライラしてきて、松本さんと話していた時には決められなかったクセに、今度はもう、意地でも海に行きたいような気分になってきた。
だから、遠慮なく思った通りに言った。
「僕だって、気分転換したい」
それを聞いて母さんは、すっと顔色を曇らせた。
……冴えない表情。
僕はそれを目を細めてじっと見た。
心の奥に密かに感じる、この気持ちは何だろう。
その時ふと、今の母さんと良く似た表情をした人を、どこかで見た気がした。
けれど僕の頭の中には、すでに受験用の知識をびっしり詰めた本棚が壁のように立ち並んでいて、その裏に隠れている、いつか見たような、どこかの誰かの冴えない表情なんて、今、わざわざ辿ってみる気もしなかった。
だからそのまま、母さんの動揺に付け込んで、有無を言わさず決めてしまった。
「それくらい良いよね? 一度きりだよ……」
それから、釘を刺すのを忘れなかった。
「父さんには、内緒にしといてね」




