もどかしい親機と子機。という時代
それから、何となくビデオ屋には行かなくなって二週間が経った頃……
晩ごはんを済ませてから、僕は部屋で、某予備校の有名講師が書いたという、英語の長文読解の問題集に頭を悩ませていた。
『芸術は必ずしも美とは言えない』
という、結果的にはただそれだけの文章なのに、だらだらと[ , ]で3つの文章が繋がれていて、その中の、
[ even in people ]が、どの『人々に於いてさえ』なのか読み切れない。
てめぇ、普段からしゃべるの下手くそだろ!
と、元文を書いた芸術評論家だかなんかにイラつきながら、解答ページをめくろうとした時、部屋のドアがノックされ、廊下から母さんの声が僕を呼んだ。
「 聡…? 」
僕は無意識に舌打ちし、問題集から顔を上げ、振り返って返事した。
「……なに?」
「勉強中にごめんなさいね…あなたに電話なんだけど……」
少し戸惑うような母さんの声。
高校を卒業してから、僕に電話なんて珍しい。
「電話?……誰??」
「お向かいの松本さんとこの……梨花ちゃん」
それを聞いて、僕は飛び上がるように立ち上がり、部屋のドアを大きく開いた。
すると母さんが電話の子機を手に持って立っていて、僕の顔を見ると、なんでかその子機を隠すように、両手でエプロンの胸当てに押し付けた。
「…勉強中なら、適当に断っておくけど……」
さっき食べた夕食の、肉野菜炒めの匂いが母さんから漂ってくる。
僕は無言で手を差し出した。すると母さんは小さくため息をつき、
「あまり長電話しないでね」
と言って、緑色の保留ランプが点滅する子機を僕に渡した。
「分かってるよ」
僕はそれを受け取り、すぐにドアを閉じた。
そして母さんが階段を下りて行く音を確認してから、ベッドに腰掛け姿勢を正し、それから受話ボタンを押して、もったいぶった声を出した。
「あ、もしもし……」
しかしその時、通話はすでに切れていた。
「えぇっ?!なんで?!?!」
思わず叫び、それから反射的にいつもの窓に駆け寄った。
すると驚いた事に、例の窓のカーテンが全開になっていて、松本さんのほっそりしたシルエットが、僕に向かって手を振っているではないか!
思い描いたシチュエーション!!信じられない!
僕はその影と、自分の手元にある子機を交互に見た。こんな事が起こるなら、うちもナンバーディスプレーくらいケチらないで登録しろよと思いつつ、松本土木のシャッターに、ペンキで大きく書かれた電話番号をもどかしくプッシュする。
外を見ながら受話器を耳に当てると、すぐに呼び出し音が始まって、松本さんの影が、ハッと横を向くのが見えたその時。
「あ”ぁい??」
と、ドスの効いた男の声が、僕の耳に飛び込んできた。それはまさしくリトル小錦!
心臓が止まりかけ、僕は反射的に子機の『切』ボタンを強く押し、それをベッドに叩きつけた。
「わわわわわ……」
一体、何が起きたんだ??
恐る恐る窓の外を見上げると、松本さんの影絵がシンバルを叩くように大きく揺れて、高らかな笑い声と、パン、パン、パンと手を叩く乾いた音が、夜の町に響き渡る。
僕がポカンと口を開けてそれを見ていたら、今度は子機が、怒ったように鳴り始めた。
え、なんで!?うちの番号、向こうにバレるの?ウソ、マジで!?
リトル小錦からの怒りのコールバックに違いない。どうする?シカトか!?
けど、このまま放っておいたら、母さんが親機の方で出てしまう、、、。
仕方ない。怒鳴られるのを覚悟して、僕は素早く投げた子機を拾って通話ボタンを押した。
「すすすすすいません向かいの春田のサトシなんです!!!」
間髪いれずに名乗り謝る。すると、
「あははーー超ウケるぅ〜〜。何やってんのぉ〜〜〜リカだよん♪」
と、今度は松本さんの無邪気な声が、気の抜けた笑い声と共に聞えてきて、
「え?あ?はいっ??」
と、パニくる僕をそのままに、
「ねぇ春田、ちょっと外に来れるぅ?」
と、それだけ言って一方的に電話は切られた。




