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カリテイモの酒

作者: 三沢 龍樹

 八月の下旬を夏の終わりとして『晩夏』というそうなのですが、冗談ではございません。いくら日が経とうにも日中の気温は下がることなく、汗っかきである私の不快指数は上昇する一方にございます。とはいっても、私のストレスは外の暑さだけではなく、勤めている会社でのストレスが大半を占めているのですから、皆様に私の日頃の苦労と屈辱を聞いていただきたいのですが勤め先は北九州戸畑区のIT企業で、企業情報漏えいとなりますと大事にございます。従いまして、私の勤め先の同僚で威圧的なお局四七歳永久に独身、無能で横柄な小娘彼氏ナシ(たぶん処女)等々のお話はまた次回にて。

 半ば強引な有給休暇により短期間ながら女ばかりのブラック企業から解放された私はこの度、住まいにございます北九州は八幡西区折尾から小倉駅に向かいまして、いったんは小倉にて兄で弁護士の志芳賀空一と食事でもしながらこの度の仕事についてある程度の話を聞き、さらに新幹線で熊本駅に向かう予定でございました。熊本駅からも私のこの度の目的地である私たち兄妹の育った故郷でございます天草鬼来村へは何度も乗り換えが必要でその途中、兄空一が仕事の都合で私との会食をキャンセルすると一方的に申したものですから小倉駅では市街に出ることなく熊本行の新幹線に乗込み昼食は駅弁で済ますことになりました。従いまして、この度の私がお話いたしますことは北九州とは一切関係ないことをあしからず、ご理解くださいませ。

 因みに申し遅れました私、北九州市在住の霊媒師志芳賀由美二八歳、独身でございます。

 さて私が今向かっております場所は熊本県天草にあり、鬼が来ると書いて鬼来村、オニキムラと読みます。霊媒師と言いましても、私には兄空一や鬼来村に未だ健在である祖母の泰子に比べれば霊力はそれほどたしたことはございません。せいぜいさ迷っている死者の言霊を耳寄せする程度にございまして、そんな私が故郷の鬼来村に帰省しどんな仕事をするのか? その前に鬼来村について説明させていただきます。

 鬼来村は熊本県天草市の下天草南西部に位置し、名の由来の如く鬼の来る村として知られておりました。その名の由来でございますが、文化や言葉が異なる外来者を『鬼』と呼び、そのような人の来るところだから「おにき」と呼ばれるようになりました。ここでの外来者といたしましては、東シナ海を挟んだ対岸・中国大陸の人が考えられ、近くには唐干田とうぼしだとか唐人瀬とうじんせなど『唐』の字がつく地名も残っています。七~八世紀に遣唐使の船が難破して漂着したことも記録されていますが、それは朝廷に報告する必要があるから記録されたので、報告する必要のない漂着などの接触や交流はいろいろ形で行われていたことでしょう。

 その外来者との接触の中で、祖母泰子は神々も持ち込まれたというのです。つまり、現在に至る大陸から渡来したと言われる神々は、私どもの生まれ育った鬼来村から我が国に入って来たというのでございます。その証拠に祖母泰子には、私たち一族は、神の中でも安産と子育ての神でございます鬼子母神様を崇め、親より先に亡くなった子供の霊が見えるといわれ育てられました。確かに私どもには死者の声や姿が見えますが、その能力とこの国に言い伝わる神話が一致しているという話には多少無理があると私は思うのでございます。因みに私より霊力と学歴の優れております兄空一は何の疑問も抱かず、不平不満など一切なく、泰子の言いなりで仕事をこなしております。さらに言わせていただけば、親より先に亡くなった子供たちの霊と親が会い語り合うには、これから私が目指す鬼来村までどんな親であっても訪れる事必須となっているのでございますが、馬鹿親たちの支払う依頼料があまりにも高額でして、もちろん、金額を決めたのは金に欲深い泰子でございますが百万円と聞いた時が私の思春期の頃ではなく既に成人していた頃で良かったと度々思わされるのでもあります。

 これまでの話の中からある程度、お察しいただいたとは存じますが、私どもの仕事、とは言いましても祖母泰子は鬼来神社の神主で鬼子母神様も護っており、兄空一は北九州は小倉で離婚調停専門の弁護士、そして私は兄と同じく北九州でIT企業のキャリアウーマン、いや派遣社員としてそれぞれの仕事を持った傍ら、生まれ持った特別な霊力を使い、我が子への想いを断ちきれぬ親たちの為に百万円で不可能を可能にするのでございます。しかし不可能を可能にしたといってもその先の大半の親たちが味わうのは思いもよらない絶望でございますが。

 新幹線で熊本駅に到着しますと、駅前のバス停から天草急行便が数時間に一本出ており、そのバスに乗り込んで数時間後、さらに本渡バスターミナルで牛深港行へ乗り換えなければならないのですが、本渡辺りまでくれば私が卒業した牛深高校の卒業生の住む町をいくつか通り過ぎることになるのでございます。大半の旧友たちは三十路前にもなればそれなりの相手と結婚し、公務員が相手であればなおよろしい、子供を産んで猟師町の専業主婦になっていることでしょう。私がこの歳まで独身でしかも鬼来村とは何のゆかりもない北九州に住んでいる理由は、特に私の持ち得ている霊力が災いしているわけではございません。単に北九州の短大に進学しそのまま住んでいたマンションに居続け、大した就職先もないため今の職場に七年以上も居座っているだけでございます。決して霊力が災いして男に縁のない孤独な生活を送っているわけではございません。今の私の環境、今の私の状況は単に私が流されてそうしているだけにございます。ただ時折、死者の声は聞こえますがその内容がどんなものであれ私は一切口外しないようにいたしております。何故なら、死者にも個人情報を守るべく守秘義務があってしかるべきと考えているから、でございます。

 さてさて、やがて私の目指す故郷鬼来村に辿り着こうとしております。改めて帰省し、その度に思うのですがこの村を、『漁村版八つ墓村』と私は表現してしまうのです。北九州の知人に私の地元を聞かれた時、鬼だの、神だの、霊だのと説明しても中には怪しむ人も少なくはございませんので、過疎化の進む辺鄙な村として漁村版八つ墓村と申しております。不思議なことにある程度の年齢の高い相手ですと、その一言で鬼来村がどんな場所かご理解いただけるのでございます。

 もう何十年も改修工事を行っていない防波堤はヒビだらけで、波止場にあった農協、ガソリンスタンド、駄菓子屋、郵便局、そして私たちの小学校は全て閉鎖されております。平成の市町村合併というのでしょうか、牛深市と本渡市、他の町が合併して天草市となり、私たちが小学生の頃は辛うじて村の青年団も村おこしとばかりに活気づいていましたが、若者は都会に進学や就職で出て行き今となっては村人は既に三百人を割り八割が六十歳以上といいます。こんな村に帰って来たところで嫁の貰い手も期待できません。それ以前に、誰もそんな話ですら私にはないのでございますが。

 今は経営しておりませんので、正確なバス停名は『旧村崎旅館前』となりますが、子のバス停で下車いたしまして私は大きなキャリーバッグを曳きながら、この集落の最も山手の奥にある鬼来神社へと向かいます。山手の奥と言いましても徒歩十分もない近距離でして、古い家と家の間の小道を通り過ぎ昔はにぎわった中央通りを横切って奥へと進みます。さらに小道へ入るとその脇道には山の斜面に沿ったように登り道があるのですが、その登り道を上がりきれば小ぢんまりとした石段が横に聳える鬼来神社の境内となります。石段の登り鳥居をくぐればそこからはこの鬼来村の全てが見渡ることが出来るのでございます。

 なんとか努力すれば数えられるほどの民家の屋根、誰も耕さなくなった田畑の跡、そして広がる海、本当に目の前の海に鬼子母神様を始め多くの神々は大陸を渡って来たのでしょうか。帰省する度に私が考えるのはその程度の事でして、他の出身者のような感慨深い想い出や環境の変化は全くと言っていいほどございません。せいぜい、こんなにこの村は小さかったのか、その程度の事しか頭には過ぎらないのです。私や兄空一にこの鬼来村に戻って相手を見つけ子供を産んで育てるよう、あの口やかましい泰子が言わないのは、私たちにとってこの村は既に過去になっているからなのでございましょう。一度、故郷を離れある一定期間別の場所で過ごした者が再び戻って生きていくということはそれ相応の覚悟が必要でございます。安易に都会から田舎に結婚相手、たとえば空一が小倉から嫁を連れてこの村に永住するとすれば想像を超えるような困難が待ち受けていることを本当に田舎で暮らそうとしている定年退職者は分かっているのでしょうか。コンビニエンスストアがないは愚か、鬼来村には自動販売機もなければ信号機ですらありません。携帯は圏外でインターネットの光配線も引かれてはいない始末です。無論、田舎に住むということがその程度の不便さで済まない事は、他に具体的ではなくとも何かあることはここまで話せば察しが付きましょう。

 たとえば北九州のコンピュータの仕事をしている志芳賀の娘由美が帰ってきた。都会では当たり前でも着ている服、化粧、持ち物全てここでは珍しく、そうそう使いこなせる田舎娘は存在しません。勿論、話題のない田舎では話題のネタにされてしまいます。そこで私がこの田舎に永住しようものならば、噂が広まり最初こそ物珍しいと捉えるこの村の老人たちは優しく接してくれますが、彼らは与えるのではありません、求めて来るのです。何を求めて来るのか、それは最初こそ私の愛想ですが、それ以上を求めて来ることもあります。そこでいざこざになり事件になる可能性ですら十分にあるのでございます。仮に明らかに私が被害者の立場であったとしても田舎を出て行かなければならないのは私のほうとなるでしょう。永住を決めて来たのに、今さら何処へ行けというのでしょうか。こんな田舎で起こりうる事件の具体的な内容ですが、ここで話すことはやめておきましょう。

 ですから私は、帰省頻度の高い兄空一のように毅然とした態度で村人たちに接し、愛想よくも鋭い視線を時折見せ距離をおくような事はせず、さっと来て村人たちには気付かれないように、さっと北九州に戻るつもりでございます。それがこの衰退していく村の神秘を守る事にもつながる、私はそう信じているのでございます。・

 早速ですが鬼来神社、鬼子母神様を祀った小さな祠を参拝して、早速、この度の仕事の準備に取り掛かることにいたします。

 この度の私の仕事とは、毎年気温こそ下がりませんが晩夏のこの時期に泰子のいいつけにより請け負うこととなっております。どうしてこの時期なのか、どうして年に一度なのかはよくわかりませんが、私が成人した年から毎年八月の下旬、鬼来村に帰省しては鬼来神社の膝元のあたり、神社の石段を下った場所から流れる小さな、本当に人ひとりがなんとか通れるような小道を下り、もうほとんど誰も住んでいない民家の並んだ一角に誰にも気づかれぬよう構えている小料理屋の女将を演じる事でございます。客は泰子、空一が依頼を受けた御一人様のみ、一晩の飲食代は先ほど申したように百万円にて承っております。

 私しか預かっていない店の鍵を取り出し、古い建物ではありますが手入れはしっかりしておりますので一年振りに扉を引いても難なく記憶を取り戻すことが出来ました。広さは三から四坪程度、つけ台には席が五つ、つけ場は女性である私が一人入れるくらい、照明は一抱え程度の丸い提灯が一つで本当に狭くしゃれっ気のない店なのですが、この店が存在する意図を考えればこれで充分だと私は思っております。築何十年かは存じませんが、この辺鄙な田舎村で酒癖の悪い漁師相手に金儲けをしようと考えて祖母の泰子はこの店を作ったわけではございませんのであしからず。

 腕時計を一瞥し時間を確認した後で手首から外し、簡単に掃除を済ませ、キャリーバックから化粧道具やヘア用品などを取り早速メイクに取り掛かりました。この店には一年振りとはいえ、鏡や手拭、食器や箸、酒や料理といつでも開店できるよう整っているのですが、さすがに私好みの化粧道具はございませんのでこれだけは北九州から持ち込むことにいたしました。不思議なものです、二十歳で初めて女将になった時の化粧にくらべ、私の彩られる顔は今の方が確かに若々しく見えるのでございます。私も悲しいかな、歳を重ねるごとに素顔を化粧で誤魔化す腕が上がって来ているということでございましょう。

 店内を清掃し、髪と化粧を整えますと私は昨年仕舞っておいた着物を身に纏います。柄は派手過ぎずにはこだわってはいるのでございますが、かといって地味であれば私の美しさが映えません。地味で無愛想な三十路前の独身女に誰が身の上を話そうものでございますか。すれ違えばほんの少しチラ見していただいて、末長く姿が頭に残る和風美人、としておきましょう。

 一夜限り御一人様のみの小料理店の準備はひと通り整いましたが、そういえば私この度のお客様について何も存じ上げておりません。空一と泰子があえて教えてくれぬということではありませぬが、何も知らぬは女将としての面目が立ちません。今更、小倉にいる仕事中であろう空一にこちらから連絡を取ったところで邪魔になってしまいますから、どうせ暇を持てあましている泰子を探し出して事情を聞き出してみましょう。先ほど神社の本殿奥、そこが泰子の住まいで私と空一は育ったのですが参拝する際回り込んで覗いてみたのですが不在でした。再び、神社へ上って見る事にします。それとお店の玄関前に打ち水しておくことを忘れておりました。こんなに暑い日です、店前に水を撒いておくことで幾分ではございますが気持ちが安らぐと聞いたことがございます。

それにしても私としたことが、準備は整ったと申しておきながら、手の届いておらぬところはまだまだございますわねえ、お恥ずかしい限りでございます。

私は一旦、お店の鍵を閉め神社に上りました。境内前の清めの水の桶と杓子を借り水を入れて再びお店に戻りまして、早速、水を撒こうとした刹那にございます。

「あよー、まこてー、由美やっか! 来とったとにゃあ!」背後から耳の奥まで響くその声は私の祖母泰子でございます。私が打ち水している何時の間に背後に現れたのか? これが彼女の尋常を卓越した老婆ならぬ動きの不気味さでございます。私の半分ほどの身長ながら、推定年齢は百歳を超えているはずですが、腰はしっかりしており年寄りの気遣いなど返って邪魔というほどの女なのでございます。

「何処、行っとったと?」私は泰子の表情を覗き込むようにして尋ねました。

「下駄カカアんとこさあい、たのどったショウロウダマばとりさんじゃっかあ!」

歳を感じさせない歯切れのいい口調なのでございますが、この村独特の方言がございまして、私も北九州に住んでいる故に方言を使うことはございますがここまで意味不明な言語は慣れた者でなければ理解できません。ここまでの彼女の言葉を訳しますと、「あら、由美じゃないか、来ていたのね」というところでしょうか、次に、「下駄カカア(泰子と同世代の村民の名前です)のところよ、頼んでいたショウロウダマを取りにいっていた」そうです。

 さらにこの後にお見えになられるお客様までもう少し時間がございますので、泰子の登場を際に解説いたします。

 泰子のいう『下駄カカア』ですが、吉野光江、推定年齢百歳くらい通称下駄カカアは昭和初期に旧制小学校を卒業後、自ら貯めたお金で大阪に渡ります。大阪の商い界隈を渡り歩き、数年後に鬼来村に戻って来るのですが、その時に持ち帰って来た品々がこの村にはない珍しい物ばかりだったらしく、村の娘たちを始め大半の人々がお金を出してでも彼女が持ち帰った品が欲しいと評判になりました。物がない時代だったということも手伝いまして、それに味を占めた下駄カカアは度々大阪や東京へ渡っては品物を仕入れては鬼来村だけに限らず牛深、天草を大きな風呂敷を背負って売り歩いていたそうです。

 但し、ここで留意点がございまして、下駄カカアは彼女の売りさばく物は何でも売れると思い込んだため、まがい物まで売るようになりました。陶器市場の隅で淋しそうにしている古いただ同然の器や、自ら筆を執ってさっさと描いた紙を額縁に入れその品々をそれは、それは、かの有名な誰々の品々でこれを家宝にしておけば家は幸せになり、また後々価値が上がった時に売れば大金が舞い込むなど、まあ次から次へと村人たちからお金を巻き上げ中にはなけなしの金を出した村人もいたそうにございます。

昭和初期に詐欺罪はなかったのか? と法に無知な私でさえ首を傾げてしまいますが、そのまがい物を売る商いを見て黙っておかなかったのか祖母の泰子だったそうでございます。泰子は本人が言うには若い頃は私とは比べ物にならぬほどそれは、それは美しく、その対極にあった醜い顔の下駄カカアは常々妬むほどだったそうでございます。ここまでお話すれば、吉野光江という女性が何故、『下駄』というあだ名がついたのか、お察しいただけましょう。歪んだ商いをする下駄カカアを見逃さなかった泰子は博多に自ら出向き、そこでその手の品々に詳しい方を鬼来村まで呼び連れ、村人たちの前で下駄カカアが売りさばいた品々はまがい物だと証明したのでございます。

 現代であれば彼女の行いは詐欺行為として被害届が出され起訴され罪を問われますが、当時は時期も時期で法曹の世界の僅かな知識ですら持った者は全くおりませんでした。それでも一時は下駄カカアも村を追い出されるか、彼女の家族まとめて村八分にされるかまで追い込まれたそうですが、ここからの話が真実であれば私も泰子が美しかったという話を信じるかもしれません。

当時、若くて美しい鬼来神社の女神主であった泰子の提言によって、下駄カカアへの村人たちの攻撃が治まったそうでございます。

「皆さま、光江がまがい物を売りつけたことは許しがたき悪行でございます。しかしその品々を彼女の言葉を信じて買ったあなた方にも責任はございます」

まあ、ここまでであれば今も昔も変わりません。泰子のいっていることは間違ってはございませんが、騙されたあんたも悪いんだから諦めろ、と言われて本当に割り切れる人がどれほどいるのでしょうか。その前に罪人にどこまで罰を与えるのか、それを問うのが先だと思います。今は冷静な世の中ですが、当時はそうは行きません。それこそ映画『八つ墓村』のワンシーンにございますように、村人たちは手に凶器を持って下駄カカアの家まで押しかけている状況にございます。中には松明を掲げ今にも下駄カカアの藁葺の家に火を付けんばかりの盛んな漁師もおりました。

家に引き籠り罪深き醜い女と怒りに任せ家の中に彼女の親年寄りまで焼き殺しかねない村人たち、その間に割って入った泰子は大きな鉈を高く掲げこういったそうでございます。

「皆さま、彼女にはいつか罰が下るでしょうが、私たちの手によって彼女を裁くことはできません。それでも皆さまの気が治まらぬのであれば、私がひと時、光江の罪をかぶりましょう。その証として今、ここでこの頬に記を残します!」

泰子は村人たちの前で大きく鉈を振りかざし、まだ熟れ若い乙女の頬に刃を当て一思いに曳き斬ろうとしたのでございます。

 私には到底出来ぬことでございますが、その光景を目の当たりにした村人たちの怒りが一瞬にして治まったと聞いております。その後、村の村長さんが話を付けるため泰子の前に立ちました。そして泰子は神仏に仕える者でもあり、もし泰子の身体に我々の怒りの痕を残せば神の怒りに触れることになる。光江の処置は泰子にもそれなりの考えがあるのであろう。ここは皆、引き下がりなさい。とのことでその場は治まったそうでございます。泰子が本気で彼女の頬を切り裂こうとしたのかどうかは分かりませんが、私が幼い頃村の長老で村長も務めていたという老人にその話を何度も聞かされました。

村の怒りを買ってしまった吉野光江通称下駄カカアは一時人目を避けるように鬼来神社の奥で奉公人のように働くようになったそうでございます。そして神社で奉公するようになった下駄カカアはカリテイモが仏門に帰依し鬼子母神になったかの如く、人が変わりその分美しくなったそうでございます。私どもが幼き頃から知っている下駄カカアは既に歳を重ねた老婆ではございましたが、下駄カカアという愛称や寂れた漁村に似つかわしくない教養と気品のある夫人という記憶がございます。ただ未だに『下駄カカア』という呼び名が消えないのは彼女がまだ、カリテイモがお釈迦様に諭され仏門に帰依して鬼子母神として神格化に至っていないことを表しているのでございましょう。

ここまでの下駄カカアの説明の中で鬼来村の逸話でありながら方言を無視した語り、神々を祀る鬼来神社に仏教の鬼子母神がお祭りされているという神道と仏教の混在した解釈など、矛盾していると思われるかもしれませんがこの曖昧さこそが鬼来神社に祀られる神様の柔軟さなのでございます、あしからず。

さてここまで下駄カカアの事をお話したのには理由がございまして、彼女は鬼来神社に奉公するようになりガラス細工を学ぶようになります。元々、彼女は多くの品々を仕入れるために多方面に出向いて多くの品々を見聞きしていたものですから、中でも息を吹き込みプカプカと音を立てるチャンポンや、キリスト教また他の新たな宗教が登場しましたがこれも鬼来村の神様は受け入れますており、教会の窓に細工されたステンドグラスなどに大変興味を持っていたようにございます。そこで彼女は独自の伝手を使い自ら出向いてガラス細工を学び、鬼来村に帰って来ると工房をこしらえました。そして数十年かけて造り出されたのが今日この日の為に泰子が受け取りにいっていたという下駄カカア自信作のショウロウダマなのでございます。

 泰子が大切そうに持っている新聞紙にくるまれたミカンほどの塊なのでございますが、私どもは下駄カカアによって作られたその塊を物心つく頃より何度も、いや何十、何百もみて参りました。もちろんこの晩夏の時期のみに、でございます。

 「あよー、由美よいこばみんかじゃっとお! よかとのできとっとざあい」そう言いつつ泰子は私の前で新聞紙の包み紙を開き出しました。一応、泰子の言葉を訳しておきますと、「ほら、由美みてみなさい! 良い物が出来ているわ」というとこでしょうか。

 新聞紙の中からは下駄カカアが人生を掛けて創作したショウロウダマというガラス玉出て来たのでございますが、この『ショウロウダマ』こそが、今夜の仕事には欠かせない品物にございます。

 『ショウロウ』名前の由来までは存じませんが、火をともした灯籠を、お盆のお供え物などと一緒に、海や川に流すお盆の送り火の一環の行事の『トウロウ』が語源として繋がりがあるような気がします。灯篭が訛りショウロウとなり、そしてガラス細工の玉となって『ショウロウダマ』になった、それが正しいのかどうかは分かりませんが、ショウロウダマの方が行事としては実用性を兼ねている事は間違いございません。

 実は下駄カカアがショウロウダマを創作する以前から鬼来村にも灯篭流しの行事はございました。大小それぞれの船を作って送り火を灯して海に流しておりました。しかしそれはお盆の時の灯篭流しで、もちろんこの晩夏の時に行う仕事も私どものような特定の人間と特定の霊魂を対象とした儀式も行っておりその際も似たような船を作って海に流していたのでございます。しかしそれでは村の湾を出る前に沈んでしまい、御供え物や崩れた船の残骸で海が汚れてしまっておりました。海が汚れるのであれば漁師たちが泳いで清掃すればいい、その程度で済んでいたのですが、さすがに私どもの仕事はそうは行きません。遠方から高額な料金を払って親より先に亡くなった子供の魂を木で造った船に送り火を灯して下手して海の上で燃えてしまってはいくら罪深き親であっても不憫にございます。

 そこで下駄カカアが考案したのが手のひらに乗るほどの小さなガラス玉『ショウロウダマ』にございます。手のひらに乗る程度の饅頭のようなガラス細工でございますが、中は真空になっており海に浮かべても浮き球のように沈むことはございません。また玉に宿った魂が入っても飽きないようにと、スタンドグラスのような五色鮮やかに彩られておりますので夜浮かべても月の光や灯台の灯りに反射してキラキラ輝きそれは、それは美しいものでございます。しかし私が見て来た輝きは反射のようなものではなく、親より先に亡くなった子供の魂がショウロウダマに宿り輝いているように見えるのでございます。

 そう実は本当に宿っているのでございます。灯篭流しは送り火として船や箱に蝋燭の炎を灯しておりますが、ショウロウダマは先も申しましたように真空になっております。従いまして、私どもの手で玉の中に火や光を灯すことは不可能にございます。しかしそれが不思議なことに、この儀式に訪れた霊が本当に玉に宿って海からあの世へと向かうかのごとく、ショウロウダマは海の上で五色の輝きを放ちながら沖へと流れて逝くのです。

 海に浮かんだショウロウダマの輝きはまさに神秘と申しましょうか、私にはあのような美しき光景が人の手によって作り出されるのかは分かりません。ただひとついえるのは、あの輝きはこの世に留まらずあの世へと向かう魂の輝きであるということにございます。

 私がこのお店で親より先に亡くなられた霊を迎え入れお話して、依頼者の親が納得する子供からの返事、私がこの儀式を受け持つようになって一度も親の納得するような返答を子供から聞いたことはございませんが、子供からの返答を親に伝え魂はショウロウダマの中に納めて海に流す、ここまでがこの儀式の仕事にございます。

 因みに昨年の親より先に亡くなった無職の二十代男性の霊ですが、彼は仕事もせずアイドルに親の金で入れ込んでおりました。結局、気を病んでしまった父親の手によって青年は殺されてしまい止むに止まれず母親が祖父母に連れ添われ鬼来村まで足を運んで来たのでございますが、その時の息子の最後の返答が、「着物の女性と付き合いたい」でございました。つまり、私と交際したいというのでございました、最後の言葉が。私は思わずショウロウダマを叩き割ろうかと思いましたが、その時の私がある程度分別のつく成人女性で良かったと思うのでございます。先に、思春期に此の儀式が百万円と知らなくて良かったと申しましたが、仮に十三.四歳の少女が何も分からぬまま高額なお金の価値も分からず、知りもしない子供の霊に気持ちを寄せられてしまったら、その相手が憧れもときめきもない男であれば恋に恋する少女こそ止むに止まれず、生きていく術が見いだせず心の闇の中をさ迷った事でしょう。

 私が成人してからこの儀式を任せたのには泰子の適確な判断があったのかどうかは分かりませんが、それでも疑問は残ってございます。「これ、売ったらいくらするんかね?」私は泰子の掌のショウロウダマを見つめて訊いてみました。「なんてな、こるがいくらかてか? 下駄カカアはそがんこたせん!」つまり、無償だそうでございます。しかし泰子はしっかりと今夜のお客様にも代金は前払いでいただいているはずにございます。そこがこの歳になっても疑問、というより泰子の金への欲深さを感じるのでございます。

 「そがんことよりさあい、空一はなんもいうとらんとじゃろもん?」確かに空一からは今夜のお客様について何も聞いてはおりません。

「毎年んごった、しんだこどんがどがんいうとか、わらそっばいえばよかとさなあ」

通訳します。「毎年同じで、亡くなった子供がどういうか、お前はそれをそのまま言えばよい」と言っております。年々、この仕事に慣れることによって空一と泰子の私への扱いが雑になっているように思うのは私の勝手な思い込みでございましょうか、今日の小倉の食事の約束も空一はキャンセルしたのですが。

 「じゃばってんが、ましとつ、いいよったとじゃがあ」もう一つ言っていた? 誰が? 「知っとってしたとか、聞けてじゃっかあ」知っていてやったのか聞け? 泰子の小柄ながら私の引寄せ耳打ちするように囁く言葉と細めた目に何かしらの重みがあるのでしょうが、その時の私には何のことかさっぱり分かりませんでした。

 泰子は私にショウロウダマを渡し、神社の方へ一人歩いて行きました。

 私はあまり他の人の気持ちに関わらないようにしております。それは北九州でも同じで、幅広い人間関係は築かず、毎日同じことの繰り返しで生活しております。時に不慮の死を遂げた子どもの霊とそれに嘆く母親に限らず、心を痛めている生きた人の姿を目の当たりにすることも多々ございます。それが身近な人であれば傍に寄り添い話を聞くだけでもその人の気持ちも少しくらいは楽になるでしょう。

 しかし私が見て来たのはどうにもならない、ある意味残酷な親子関係の終末なのでございます。私にいわせれば、失恋した、仕事で失敗した、などで気を病んでいるのは転んだ子供が泣いている程度にしか過ぎないのでございます。先にお話ししました父親に殺された無職の青年も、幼少期は賢い良い子でございました。しかし息子を思い通りにしないと気が済まないという父親に威圧的に操られ、その重圧に耐えられなくて呆けてしまった失敗作になり、失敗作は廃棄するとばかりに父親は息子を殺めてしまったのでございます。子供を育てるまでに何かできなかったのかと心を病む母親の気持ちを安めようと青年は誤魔化すように、私に好意を寄せているような言葉で最後の別れとしたのでしょう。今の私であれば分かりますが、中学生の幼かった頃の私であればそれが理解できずに青年の母親をさらに傷つけていたかもしれません。

 泰子や空一ほど強くない私にとって、死者の気持ちを残った者に伝えるこの仕事は年に一度が限界でございます。それでも私は毎年晩夏に鬼来村に舞い戻り、村人には誰にも会うことなく小さな小料理屋の女将を毅然として演じるのでございます。

 魂の輝くショウロウダマが私の掌の上で美しく座っております。


 子育てと安産の神、鬼子母神様は関東の御堂に祀られておりますが、そこに至る経緯まではあまり知られておりません。経緯とは、大陸を渡って関東の現在の御堂に祀られるまでの経緯なのか、鬼子母神に神格化するまでの経緯なのでしょうか、皆さまがご存じない経緯とはその両方にございまして、鬼来村は深く関わっているのでございます。

 鬼子母神様がお釈迦様に諭され仏門に帰依る以前は、武神の妻であり五百人から千人の我が子を溺愛しながらも他人の子を攫っては食らうカリテイモという鬼女にございました。我が子は無数にいるのですからカリテイモは、人の子を食べなければ養ってはいけなかったのでしょう。そうはいっても我が子を奪われた親にとってはその悲しみは計り知れません。相手は大きな城を構える武神の妻で到底かなう相手ではなく、生まれたばかりの大切な可愛い我が子を奪われてもただただ悲しみ泣きひしがれるしかなかったのでございます。

 天の国よりその様子を窺っていたお釈迦様は見るに見兼ねてカリテイモの留守中に末の子を攫ってしまわれました。城に戻り、一人足りない、末の子の姿がないことに気付いたカリテイモは驚き、失望し、悲しみ、泣き叫びました。日にも日の失った我が子を想うカリテイモの様子を天の国より見下ろされていたお釈迦様はやがて、これまで我が子を奪われ失った親たちの気持ちを理解しなさい、と諭されました。諭されたカリテイモは我が子を失った人の気持ちを考えるようになり、やがて仏門に帰依して後の鬼子母神となります。仏門に帰依するということは修行にございます、苦行とでも申しましょうか考え苦しみ耐え抜くカリテイモが自ずと子供の肉を欲するのは必然、お釈迦様は苦行に耐え抜えるカリテイモにザクロをお与えになりました。カリテイモはザクロを食べることによって、子供の肉への執着を棄て修行したといいます。

 さて先に申しましたように、鬼子母神様が現在祀られている御堂に至るまでの経緯の中と、鬼子母神様の前身でございますカリテイモが鬼来村に深く関わっている、という話でございますが、この鬼来村の名を派生した由来に迫ってみようではございませんか。

 あしからず、この村には密教的ではありますが、私のように年に一度帰省して親より先に亡くなった子供の言霊を伝える者、泰子と空一、そして私になりますが、今も存在しております。私どものような者が執り行う儀式が現在でも残っており神社の隅に祠を建てて祀っている神を鬼子母神様であると教えられたことをはじめとして、名の由来である「鬼が来る」ことに着目した場合、いくつかの疑問が生じるのでございます。

 ひとつめとして、この儀式を残したのはカリテイモなのか、鬼子母神様なのか。二つ目は私どもの執り行う儀式を受ける子供の親はカリテイモのような鬼女なのか、鬼子母神様のような徳の高いお方なのか、二つの答えは容易でして、仮に私どもが恋人や家族と一緒に関東の鬼子母神様を祀られた御堂に観光に行くとすれば、カリテイモよりも鬼子母神様の名を頼って向かうのではないでしょうか。しかしここはあまり耳には心地よくない『鬼の来る村』なのでございます。では『鬼』とはなんのことなのでございましょうか、もうお分かりでございましょう。そうカリテイモなのでございます。

 カリテイモ(鬼女)はこの村にやって来て改心し、鬼子母神様に神格化し関東の御堂で祀られておられるという経緯がございます。但しこれに関しては諸説ございまして、鬼来村と鬼子母神様との関わりの整合性を問われましても鬼来村が地図にですら載っていないものですからお答えできないとしか申し上げられません、あしからず。

 問題は次の経緯の『鬼女』なのでございます。いや、鬼来村を訪れる鬼女についてお話する前に、もう一つ申し上げておかなければならないことがございます。それは鬼子母神様に纏わる話の中のお釈迦様の矛盾にございます。

 私どもは一年を通して複数の神様に祈りを捧げます。それはこの国特有の風習のようでして、今さらそこに矛盾を感じるということではございません。私も数年前まではクリスマスイブの夜は前日までは予定を入れないようにしておりましたが、イエスキリストは秋に生まれたということを本で読み十二月二十四日を全く意識しなくなりました。それ以来、クリスマスイブの夜は女友達同士か独りで過ごすことがほとんどで恋人など影形もございません。私もただ何も考えず哀れな独身女でいたわけではなく、この場合は私の婚活問題ではなく、神仏への祈りについて考えたのでございます。結論から申せば、神は救ってはくれないということでございます。いくら拝んでも、私に素敵な恋人が出来た事はございませんし、祈ろうとする自分が余計に惨めで一人でお酒を飲みながら何度泣いたことか。

 私のことなどはどうでも良いのでございますが、神への祈りは個々によって千差万別でございますが、結論でも申しましたように神は人を御救いになりません。しかし鬼子母神様の神話の中ではお釈迦様が直接手を下し、カリテイモは神格化して鬼子母神になり、いつ我が子を奪われるのかと我が子の身を案じていた人々は救われることになるのでございます。お釈迦様、すなわち神が人を救うことに私は矛盾を感じておりました。人は神に祈ることで心が安らぐ、これこそが救いだと私は信じております。祈っても救ってはくれないのが神なのでございます。

 ここでカリテイモだけに焦点を当ててみます。カリテイモは人の子を獲っては喰いしていた鬼女(夜叉)にございます。我が子を養うために人の子を食っていたとございます。我が子の為に人の子の命、子の親の気持ちなど気に留めず傍若無人に煩悩を剥き出しにするのでございますが、お釈迦様の行いはカリテイモへの行いに対するまさに神の怒りだったのではないのでしょうか。我が子の為に傍若無人に振舞うカリテイモよ、このままでは取り返しのつかない事、すなわち目に入れても痛くもない子供を攫う、という神の怒り、忌々しきであると私は考えるのでございます。

 ではこの話から何を学べばいいのか、それは一人ひとりの解釈かも知れませんがお釈迦様は、目に入れても痛くないほど可愛い我が子に、「なにもするな」と母親であるカリテイモに警告しているように思えてなりません。

 問題の鬼女、二つ目のカリテイモの話に戻りますが、たくさんの母親が鬼の来る村を訪れましたが、私が申し上げましたように、『鬼の来る村』という名の由来から察するように、この村には鬼がやってきます。鬼、ということは鬼子母神様の前提、カリテイモの事を指しているのでございますが、鬼子母神様のように神格化したかどうか、私自身は過去にそのような鬼女は見たことはございませんが、カリテイモのような鬼女がこの村へ来ることは事実にございます。

 さて先にお釈迦様への私の解釈をお話しさせていただきましたが、後日談として皮肉なことにこの鬼女は我が子を守ろうとして我が子を失うことになります。しかしその奥に隠された鬼女の本性はどうだったのか、私はその真意には恐ろしくて触れることができませんでした。ただただ、私の頭の中にはお釈迦様の我が子には「なにもするな」というお言葉が残るだけでございます。


我が子を失った罪深き鬼女は、拠点としていた街から姿を消しました。

彼女の街に残されたのは彼女の息子の死体と、そして数日後には明らかになる決して許されない罪でございました。母親として女として、そして人として彼女は大きな過ちを犯し、罪の深さにも気づかぬままタクシーに乗り込んで街を飛び出し、財布の中の現金が亡くなったことに気付くと遅くまでやっている銀行のATMに駆けこんで率い出せる現金を全て財布にしまいこみました。誰にも気づかれぬよう電車を乗り継いで県外のホテルで一泊いたしました。翌朝、目が覚めると昨夜のことを思い出し憂鬱になりながら起き上がり、再び電車に乗り込んだのです。

彼女にとって行く先が決まっていたわけではありません。ただ、人が蒸発するときは北へ、北へと向かうという言葉に反して数日間さ迷いながら南に南へと向かい、北九州の小倉に辿り着いたようでございます。そして今日、私と全く同じ経路を小倉駅からこの鬼来村へと辿っていたのでございます。

時間差こそあれ、私と同じ経路をたどって来たというのですから、お店の支度を終え祖母泰子から預かったショウロウダマをつけ台の隅に座布団を据えて座らせた今、扉を開ければそこに彼女が立っているのでございます。

「ここ涼しい」勝手に入りこんで来た女性の第一声でございました。

ご予約のお客様は三十代男性であり、少し遅れるかもしれないと先ほど兄空一から連絡を受けたばかりでしたし、私は、まだこの世に生を享けている人は本来相手にはいたしません。しかしその女性の様子から察して、どうぞ、と私は招き入れました。

「ああ、疲れた、涼しい」とその中年女性は大きく息を吐きながら言いますが、この店はエアコンを付けてはおりません。暑がりの私ですら着物姿で汗一滴かかないのがこの店なのでございます。私は汗びっしょりになって入って来たその女性に冷えたおしぼりを、どうぞ、と渡すと奪うように取り上げ化粧の乱れなど気にもせず顔に当てそのまま首筋や脇まで拭いております、なんと品のない。

歳はそうですね、五十歳前後、もう少しいっているかも知れませんが礼儀を知らず品のなさから若そうに見えてしまうことがあるかもしれません。さらに気になったのが、ここにたどり着くまでに厚化粧とサングラス、二十代から三十代女性が好む様な服装に身を包んではおりますが、全く似合っておりません。

彼女の雰囲気からしまして、色気の必要のないお仕事に就かれているのでいらっしゃるのでございましょう。女性として必要最低限の薄化粧と地味で清楚なスーツ、あるいはジャージも可。色気を必要としない職業と言えば、私は存じませんが今わかる事と言えば、この女性は日頃の自分を敢えて隠そうとして先週から、いや数日前からデパートの化粧品売り場と婦人服売り場に駆けこんで買い込んで来たのでしょう。サングラスなど、あまりに大きすぎて顔にあっておりませんでした。

私はつけ台の隅に座らせたショウロウダマを一瞥しました。微かに光が灯っております、店内の涼しさが分かりました。

「ねえ、なんか冷たいもんでもちょうだい!」上半身をつけ台に伏せ、手首をプラプラ振って飲み物を催促しております。

私は伏せる彼女を一瞥し、再び微かな光を放つショウロウダマに視線を運んだのでございます。元々、予約のお客様ではないのでございますから、少々待たせても何も問題はございません。

「ねえ、冷たいもんちょうだいって言ってるでしょ! ここ飲み屋じゃないの?」

私は気づかれぬよう息を吐いて、つけ台を叩いて睨みつけている彼女にやや申し訳なさそうな顔で、失礼いたしました、冷たい物とはなんでしょう? と聞き返しまた。

「ビールに決まってるじゃない!」速やかに瓶ビールの栓を抜き、注いであげました。

確かにここは小料理屋であり飲食店でございます、お酒も出します。しかし先にも申しましたように、生きた人間の接客は致しません。それ以前に、良識のある中年女性であれば、この店に入って来て一人で予約はしていないがいいか、くらいの確認はするものではありませんか。確認もなく、いきなり座って顔を伏せ、冷たい物を出せ、しかも何が欲しいのか訊ねてみてビールに決まっていると怒鳴るのは一方的過ぎるではございませんか。他のお客様にご迷惑でございます。それでも今日一晩、私はこの店の女将でございます。ニッコリ笑って積極をせねばなりません。

「ああ、生き返った! 何となく出て来たんだけど、この辺ってさあ、何もなんだもん。すっごい田舎なんだもん! タクシー降りたら迷ってね。良かったわ、ここがあって」唇の脇から涎のようにビールがこぼれておりますと微笑みながら心の中で呟きました。

この女性、安河内優美子様、四十七歳、公務員である程度の管理職に就かれていらっしゃる方のようでございます。その詳細につきましては、少しお酒が入って気が抜けたのか、褒めるところのない相手を持ち上げるように見た目より少なめに歳をいうと気をよくしたようで聞いていないことまで勝手に話してくれました、私の申した年寄り実年齢はかなり上でしたが。

見た目より老けて見られるということは、積年のストレスを負って来たということになります。しかも、安河内様の場合、この鬼来村に辿り着くまで、いえこのお店に入るまで強く気を張っておられたのでしょう、強く引っ張っていた糸をさらに引き、何かの拍子に街を飛び出し、安河内様と断定できないように変装したつもりでしょう、似合わない化粧に服装を数日間維持していたのでございます。その痕として、安河内様のお召しになられていらっしゃるワンピースは皺だらけで、デパートの若い店員に即興で学んで来た化粧は雨や涙で流れないようになってはいるのでしょうが、施し方に無理がございました。つまり、洋服の保管や化粧が下手なのでございます。出張でホテルに泊まったビジネスマンがスーツをベッドに放置したままにしているようなものでございます。

それほど気を張り詰め、彼女の事は一切知られていない場所を探し出そうとこの鬼来村までたどり着いたのでしょう。しかしこの村にはもう民宿ですらございません。無防備にタクシーを降りた後は、よそ者にしてみれば暗闇をさ迷うようなものです。その中に微かに光を灯すこの店を見つけたようにございます。

店に入るなり横柄な態度で私に接したのは、一気に緊張の糸が切れたせいなのかも知れません。安河内様にとっては、このお店が最も危険なのでございますが。

瓶ビールを空にすると、さらにアルコールが緊張をほぐしたのか、やや目が虚ろになって参りました。酔い覚ましに冷えたザクロを薦めましたが、「いらない、そんなの、嫌いなのよね、田舎の食いもんって感じで」と即断られました。代わりに、「ねえ、生肉なあい? 牛刺しとかレバー刺しとか、ユッケなんかあると最高なんだけど」あるわけがありませんが、安河内様がお見えになるまで人の子を攫っては食っていたカリテイモの話をしておりましたので、気を悪くされたのであれば心よりお詫びいたします。

我儘な中年女性に限らず、こちらが人の心を掴むにはやはり食にございます。鬼来村は元々漁村でございますから、生魚であれば、と考えもしましたが安河内様は生肉が食べたいとおっしゃっておられます。そこで、天草で採れるテングサを煮出した液体を固めたのがトコロテンでございます。それをそのまま出すのも能がございませんので、とくべt具な手法でテングサの液体を数倍に凝縮しまして冷やし固めます、そうすると従来のトコロテンより歯ごたえのあるコンニャクのような、あるいはレバー刺しのような食感を味わえるのでございます。胡麻油と粗塩でお口に合いますでしょうか。

「うん、美味しい!」と安河内様は頬を緩ませ愛らしい目で私の方を見つめてくださいました。そして、また冷たい物、今度は冷酒が飲みたいそうでございます。私は冷えたお酒をガラス細工の徳利に入れ、盃を安河内様にお渡しして注ぎました。ガラス細工の徳利は無論、下駄カカア作でございます。徳利の肩から腰までのくびれは素材の色合いとぴったりで、美しき女性の裸体を想像させます。

猛暑の中を歩き大量の汗をかいて、水分も補給しないままビールに冷酒、安河内様がどれほどのお酒が強いのかは存じませんが、顔は心地よいほどに火照っておられました。

しかし次の瞬間、安河内様も確実に気付いていらしたと思います。エアコンの冷風ではない、生気のない誰かが通った冷気によって酒の酔いが少し覚めたように目を僅かに震えておられました。

暑さから逃れたい一心でこの店に飛び込み、気の緩みから初対面の私に対しても横柄になっておられながら、一つの冷気で酔いが醒め安河内様の顔は青ざめてまいりました。安河内様はその冷気によって凍りついたかのように動かなくなってしまいました。瞬きしない眼、箸を持ったままの手、心臓ですら動いているのかと思うほど全身の脈が売っているようには思えませんでした。

全身が固まったままの安河内様は口だけを動かし、静かにこうおっしゃいました。

「あなたは守秘義務をご存じよね?」

当然でございます、とは言いませんが、私も笑みを滲ませながら、存じ上げております、と答えました。安河内様は、なにかを話したそうにしておられます。

 「私ね、生徒数五百人くらいいる中学校の校長をしているの」

さようでございますか。私は少し目を開いてお答えしました。その驚きは、こんな人が校長としているという意外ではなく、敬意を払った意味を込めての感嘆の表情を作ったのでございます。本心は、教師だから礼儀を知らず、校長という管理職であるが故に他人に対しても上から目線。その証拠に最初に自分の役職を斬り出して相手を威圧するところなど、人間的魅力に欠けるように思うのでございます。そう、鬼女、夜叉という立場で多くの人たちから恐れることを分かっているカリテイモのようでございます。

 「公務員をしていると、全てがそうじゃないけど、少なくとも私の職場は狂っていてね。あなたのような良識のある人なら軽蔑するかもしれないけど、私にしてみれば五百人の中学生なんて人間には思えないのよね」

私は首を少しだけ傾げて見せました。私も基本的には子供は好きではございません。好きではないというより今の環境に子供が存在しないものですから、どんなものなのか、私の幼少期の記憶くらいしか情報がありませんので知らないのでございます。

しかし安河内様の場合は違います、校長職という仕事であれば直接でなくとも毎日嫌というほどに子供と接しているではありませんか、大学を卒業してすぐに校長職に就いてはおられませんから、教師として正面から向き合ってこられたと思うのですが、その突き詰めた答えが、人間には思えない、とは私は理解できませんが、少なくともカリテイモは人の子を食肉として食い荒らしまわってございました。

「公務員職権乱用罪、幾つもの生徒募集で駆け回っている私立高校や大学との伝手を持って学力スポーツ優秀な生徒を斡旋して利益を得る。当然私は直接生徒や保護者とは接しないけど、担任教師や部活の顧問に圧力をかけるの。最終的に生徒の推薦書を書くのは学校長ですからね。書かない、とひとこと言ってしまえば彼らは言いなりになるしかない。で、私の思う私立高校に優秀な生徒が進学してくれさえすればその高校から私の口座にお金が振り込まれるのよ」

安河内様は私の表情を伺うように盃を口に運び、「酷いビジネスでしょ」と唇を濡しながらおっしゃいました。私はやや驚いたような表情を作り、息を吐きながら首を僅かに動かしました。ここで派手に驚いて見せると、安河内様は全てをお話にならないと思い慎ましく、を演じてみたのでございます。耳の遠い人に話すとき、思わず声が大きくなってしまうように、聞く相手の反応が薄いと、響いていないと思い話す方はさらに詳しく話そうとします。その前に安河内様はもう一本、冷酒を注文されました。

「優秀な子はお金が動いているとも知らないで素直に私立に行ってくれるからそれでいいけど、そうじゃない子、特に劣等生はどうすればいいのか分かる?」

私に聞くな、と申したいところでございますが、仕方ございません。私は怪談話でも聞くように目を震わせながら上目づかいで安河内様を見つめ、さ、さあ分かりません、と返答いたしました。大体の想像はつくのでございますが。

 「うん、じゃあ、もう一つ問題!」私はあんたの生徒じゃねえっつうの! と私はやり返したいところを抑え、お酒がすすみ、まさに教師の本性剥き出しで安河内様は上機嫌になっておられます。それがとんでもない不正でありながら、自分はミステリ小説か映画の登場人物になったつもりで誰もがあっと驚くことをやっている、それを話したくて、誰かに聞いて欲しくてたまらなかったのでございましょう。安河内様は本当にここが安全地帯だと思い込んでいらっしゃるようでございます。

 ところで安河内様の問題でございますが、「今の中学生、そうね、じゃあ昨年度半年以上学校に出てこなかった生徒数をその中学校、教育委員会がどれだけ把握していると思う?」

さ、さあ。その質問には上手に惚けられました。

「あたしも知らなーい」一瞬、その場の空気が凍りついたような気がしました。再び冷気が私たちに吹きかけて来たのです。私はショウロウダマを一瞥しました。しかし安河内様は気づいておられないようで、しゃあしゃあとお喋りになられます。

 「何年か前に、いや十年以上にもなるかしら。高齢者が役所には志望届は出されていないのに、実は孤独死していたって事件が多数発生して社会問題にもなったでしょ。ご存じよね。まだ潜在しているけど、不登校の子供たちは何処で何をしているのか?」教師というのはどこまでクイズ形式でいいたのか、少し腹の底が熱くなって来ましたが帯の上から両手で軽く抑えていましたが、安河内様は間をおかずお喋りになられました。もうsここまで来ると、私の話どころか返答ですら求めていないほどお喋りになられたいのでしょう。構いません、先ほど安河内様は守秘義務についてお聞きになられましたが、他言無用、つまり誰にも言わず、ということは聞かず、ということにございます。まあ、安河内様の不似合いな格好や崩れた化粧に髪方は見ず、とは行きませぬが。

 「私は理系出身だから結論からいうね。学校に来ない子供たちは人身、臓器売買。その手の闇ルートは確実に存在する」どうだ! と言わんばかりの表情で私を威圧されましたが、私はそのとき一瞬、怪訝な表情で見返してしまったのでしょう。従順しか受け入れられなくなってしまっている安河内様は一瞬、狼狽されましたが、都市伝説のようなお話ですが、本当にそのようなルートがあるのでしょうか、と私が聞き返すと、「本当にあるのよ!」と元の調子にお戻りになられました。

 「生徒が学校に来ない、担任は一応保護者に連絡するけど、繋がらない。それを一週間繰り返してひと月が経ち、半年、一年、学年と担任が変わればまた同じことの繰り返し。卒業式を迎えれば、義務教育だから卒業証書を郵送しておしまい」

親は? 親御様はどうなさっているのですか、御勤め先の職場に連絡するとか、そこまではなさらないのですか。思わず私は訊いてみました。

「このご時世よ、バイトや日雇いで食いつないで、それこそ携帯料金も払えない親だっているのよ。まだまだ女でいたい母親なんか完全にネグレクト、そこが狙い目なのよ。行方不明になっても捜査願いを出さない親であると確認し、そのリストを作ってメールで送る。その後はどうなるかは知らないけど、きっと向こうで売春させるか、臓器を売るか品定めしているのね、それによって私に振り込まれる金額が違うから。当然、私は二度とリストの生徒たちと会うことはないの。軽蔑するでしょう」また私を挑発するような目で安河内様は見ておられます。

 安河内様のおっしゃってらっしゃることが事実として、いや昼夜問わず確かにそれくらいの年齢と思われる子供たちが、街を徘徊しているところをみると、私も親や学校の先生はなにをしているのかと、ため息をこぼした事は多々ございます。そして彼らの身に纏っている衣服やバッグ、携帯電話、腕時計等はその年齢では到底手に入れることの出来ない品々なのでございます。無論、髪の色も黒ではございません。安河内様は、まともな教育を受けず誰にも管理されていない少年たちを商品化し、売買している。それが大罪であると分かっていながら、しかも公職であり教育者でありながら、返って誇らしげでもあります。しかも他人からは非難を受けると分かっている、それがどうしたと言わんばかりに。しかしそこに安河内様の本当の心が見えたような気がしました。

 生まれながらにして悪事を働こうとする子供はおりません。ヒーローには憧れますがヒールを好む事はまずないでしょう。悪魔崇拝なるものを聞いたことはございますが、それは神や天使に失望したからです。神は祈っても何もしてくれないと分かっていれば悪魔や鬼女などに憧れを抱く子供はおりません。

 しかし安河内様はまさにその典型なのでございましょう、子供の頃は素敵なお姫様に憧れながらも一般的な成長過程にない絶望を味わい、そこで歪んだ人格が芽生えてしまわれました。教育者という立場を利用し、人の子を金蔓にして私腹を肥やそうとしておられます。さらに厄介なことに悪びれることが一切ないのでございます。しかし安河内様の、軽蔑するでしょ、の言葉には悪意を正当化している彼女自身を咎めて欲しい、救ってほしいと心のどこかで願っておられるのではないでしょうか。

 私は三度、ショウロウダマに視線を送りました。相変わらず、微かな光を放っています。そして再び、安河内様へ視線を戻しました。

 安河内様、ここはお客様にお酒や料理を味わっていただくだけでなく、会話も楽しんでいただく場所にございます。会話を楽しむとは笑って騒ぐことではなく、お客様の心に奥に溜め込んでいるものを吐き出すことで気が晴れることはよくあることでございます。私もこのお店を構えている以上、他言無用、つまり守秘義務はお守りいたします。

 それだけ言えば十分でございました。これまで犯した罪の大きさを重々理解した上でもそうせざるを得なかった理由がそこにあり、もう何処にも逃げられなくなってしまわれた安河内様は、先ほどまでの悪びれる事のない私に対する挑発的な態度から、少し息を吐き、顎を上げて私を切実な目で見つめて来られました。

 「ありがとう。お話させていただくわ。でもね、もう守秘義務もなにも、どうでもいいの。警察はすぐに私を見つけるだろうし、それよりも逮捕前にあなたに接触したことで迷惑が掛からないかしら」安河内様は開き直ったかのように首を斜めに傾けられました。

 私は頭を振って、いいえ、まだ安河内様は私の大切なお客様でございます。お客様はどのような方だったのか、後で知っても今のこの時間には関係ございません。というと、安河内様は肩を落とされた。再び、ありがとう、とおっしゃいました。そして、

「三日前にまた人を殺したの」

 また、でございますか? 私は目を大きく開いて聞き返しましたが、それに動じることなく、安河内様は深く頷かれました。


 カリテイモがどのような生立ちだったかは知りませんが、人にとって幼少期の経験が大人になってからの生活や人格を形成しているとよく聞くことがございます。釈迦の悟りによれば過去の出来事は現在から時間の経過とともに離れていき、時間の経過は未来から現在、そして過去と流れていくとございます。つまり釈迦によれば未来という原因があり、その結果の現在に至り、過去となって離れていくという考え方にございます。聞いただけでは未来が既に決まっているように感じられますが、前向きにとらえれば過去にとらわれるな、ということになります。

 しかし誰もがそう前向きに生きていければいいのですが、このご時世で個人の自由を主張したお陰で孤独になってしまう現在より、昭和やバブル期の古き良き時代の記憶に耽ろうとしてしまうものでございます。

 古き良き時代がある方はそれで少しは気持ちが晴れるかもしれません。今の生活の不平不満を一瞬でも忘れることが出来るのですから。考え方の問題かもしれませんが、過去にも古き良き時代のない、少なくとも本人はそう思っている安河内様はどうなってしまうのでございましょうか。いえ、安河内様の過去はどうだったのでしょうか。

 安河内様は原因として三日前に殺人を犯したとおっしゃられました。その結果、過去はどうだったのでしょうか。私は殺人の詳細より、安河内様がどのような人生を歩んでこられたのかお尋ね致しました。

 「惨めだったわ」安河内様は深く息を吐かれました。

 安河内様は福岡県飯塚市で大学教員の父親とその大学で事務員として働いていた母親の元にお生まれになられたそうでございます。放任主義の父親と教育熱心な母親、しかも仕事は大学職員と聞けば理想的な恵まれた環境に生まれ育ったかのように聞こえます。しかし安河内様曰く、最悪で惨めな家庭環境だったそうでございます。

 「母親が過剰な教育ママっていうより、気分屋の結果しか見ない人でね。精神的に疾患があったのかも知れない。ヒステリックだったから虐待も異常だった。小さい頃から叩いたり怒鳴ったり、縛られて押入れに閉じ込められたこともあったわ。そんな私を見ても、父親は助けようとはしてくれなかった」

 今でこそ虐待に限らず、ドメスティックバイオレンスや学校での体罰は問題視されてはいますが、その根源を辿っていくと戦争にあるという識者もおります。戦場でたくさんの敵兵を殺して帰ってきた兵士たちは精神に疾患を侵したまま帰国し、復興の為と騙し騙し生きてきました。本当は精神的な治療が必要だったはずなのに、でございます。

 精神に疾患を侵したままの兵士たちは頑固オヤジ、偏屈者などと呼ばれて恐れられてはいましたが、家庭内で暴力を振るっていたことは間違いなくバイオレンスに過ぎません。戦後の家庭では母親を叩く父親の姿を見て、父親の暴力に耐える母親の姿に興奮を覚えた長男は大人になって同じことを繰り返すのでございます。それは親から子へ、子から孫へと皮肉にも引き継がれ現在まで至っております。ましてや明日の見えない闇をさ迷っているような現代の生活の中で、ストレスは溜まり他の人に対して攻撃的になる人は少なくはないのではないでしょうか。早く対応を考えて欲しいものです。

 安河内様の両親はお互いをあまり知らないまま結婚したようでございます。勢いで一緒になってずっと幸せでいるご夫婦はたくさんいらっしゃるとは思います。しかし、じっくり考えたうえで一緒になっても離婚する場合も少なくはありません。結婚後、相手が変わったという話は良く聞きます。何に対しても無関心な父親は娘の事、妻の事、家庭の事には一切関わろうとせず、大学の研究室に篭って帰って来ない日もあったそうでございます。母親は若くして結婚したため、まだ遊びたいという願望があったのでしょう。夫は構ってくれないストレスもあり、気まぐれで安河内様に暴力を振るい、安河内様を放ったらかし夫が不在であることを良いことに夜の街に飲み歩きに出掛けていたそうでございます。

 「淋しくはなかったんだけど、惨めだった。私ね、運動会はいつも独りでお弁当食べていたの。小学校から中学校、って言っても中学校は一年くらいしは行ってないんだけど、父親は大学から出てこないし、母親はいつも二日酔い、下手に声を掛けようものなら殴られるから静かにさせておいた方が良いでしょ。連絡帳なんか私がいつもサインしていたんだから。それでいつも弁当は自分で弁同箱に冷蔵庫にあるものを詰めたり、朝からパンを買って行ったりしてた。遠足の時もそうだったから、その時は男の子に馬鹿にされた。両親とも大学の仕事で忙しいからって一応は誤魔化したんだけどね。私の弁当を取り上げてみんなに見せて回った奴、転んで弁当箱を落とした時、殺してやろうかと思ったわ」

 そんな安河内様に大きな出来事が起きます。その前に、親に放ったらかし、というか気まぐれな躾というか虐待しかしない母親への最初は犯行だったのでございましょう、学校へ行かず、街の不良連中と一緒に遊ぶようになります。中学三年の初夏でございました。最初は気づいて欲しいサインのつもりだったのでしょうが、やがて不良仲間は彼女を半ば拘束するようになります。そんなことにも気づかず、彼女はグループの中で優しかった一九歳の青年と付き合うようになり、必然的に妊娠してしまうのでございます。

 「嬉しかったのよ。だって私にとって本当の家族のような存在が私の身体に宿ったんですもの、絶対に産みたいと思った」

しかし中学生の妊娠出産など、外面だけは良く体裁を重んじる母親が許すはずがありません。必死に安河内様は抵抗するのですが、産婦人科へ検査だからと連れて行かれ親の承諾のみで堕胎されてしまったのでございます。

 安河内様の頬を伝う一滴の涙、「アイツを殺したい」とのひと言は、先ほどまでの横柄で礼儀知らずの様子とは一変しておりました。我が子を想う、一人の母親の涙にございます。

 「当時自宅の倉庫にね、なぜか金属バットがあったの。どうしてそれがあるのかは分からなかった。だって私と母親が野球なんかするわけないし、父親はオタクだったから握り方も知らなかっただろうし、でも倉庫にそれがあったことはわかった。赤ちゃんを堕して帰ってきた後、そのまま倉庫に行って金属バットを握り締めた」

安河内様のお話では衝動的な殺人に聞こえますが、中学生の少女にしてみれば用意周到でございました。

 安河内様は堕胎した産婦人科から帰る途中、交際していた恋人に電話しております。そして両親が話をしたいといっていると嘘をついて、彼女の自宅に来るように伝えます。確かに恋人はバイクで暴走する不良ではありましたが、彼女に子供が出来たことは喜んでくれていました。それ故に堕胎したことを知れば狂ったように感情を剥き出しにして安河内様の自宅に向かったようでございます。

 恋人がバイクを飛ばして自宅に向かっている限られた間に、安河内様は自宅のリビングでテレビを観ていた父親を背後から金属バットで殴打、一撃で気を失いましたが何度も何度も打ち据えました。父親が死んだことを確認すると、そのまま二階にいる母親のところへ行き、鏡台前に座って化粧をしている母親のこれもまた背後から後頭部を殴打、一瞬、振り返る母親と目が合いましたが、その後も躊躇いなく安河内様は母親が動かなくなっても父親同様何度も打ち据えたそうでございます。

 余談ではございますが、安河内様の衝動的殺人ではない、というようなことを申しましたが、何故、倉庫の中に金属バットがあったのでしょうか、ひと月ほど前から安河内様の通う中学校の備品であった金属バットが一本紛失していたそうでございます。安河内様はなぜ倉庫の金属バットがあるのか分からない、と申されていましたが、安河内様の両親が金属バットを中学校まで出向いで盗むわけがございませんし、それは中学生の少女がひと月前に盗んだということになります。ということは、安河内様はひと月以上前から両親を殺す計画を立てていたのではと、私が勝手に憶測するのでございますが、後日大学教員夫婦殺害事件は一九歳の少年が犯人と警察が断定したため安河内様は被害者の娘として扱われ、その真実が明かされることはございませんでした。

 では話を殺人現場に戻しましょう。安河内様は両親を撲殺した後お風呂に入ります。全身に散った血を洗い流すためでございます。シャワーを浴びて血を流しさっぱりした頃にバイクのエンジン音が聞こえてきます。恋人がやって来たのです。恋人が玄関でチャイムを鳴らそうとする刹那、彼女は扉を開いて恋人の手を掴んで家の中へ招き入れます。そして一旦は靴を脱がせて泣きながら金属バットを握らせるのです、指紋を付けさせるため。そしてリビングの父親の死体を見て慌てふためく恋人を他所に突然彼女は玄関を飛び出して行きました。飛び出すとき恋人が履いていたブーツも取って出て行ったのです。動揺している恋人は、慌てて彼女を追いました。しかしブーツがありません。素足のまま外に出ると、彼のブーツは庭の作を越えた畑に転がっています。安河内様が放り投げたのですが、当然、恋人は素足のまま家を飛び出してその畑の中に入り、ブーツを履きます。とりあえずバイクのところに行くと、安河内様が大きなゴミ袋を握り走り去っていく姿が見えました。ゴミ袋には血の付いた洋服が入っておりました。割と近くだったのですが、恋人は死体を見ています、警察に自分が疑われることを恐れてバイクに跨りました。彼の頭の中には警察や大人たちに連絡することはありません、大人を信じていないのですから。とにかく安河内様を探して事情を訊きたかったのです。見失った彼女を探してあちこち小道を走っている時はそうでもなかったのですが、少し大きな道でスピードを出した時、彼は気づきます、ブレーキが利かない。正面で赤信号になっているにもかかわらず停止することが出来ぬまま、向かってくるトラックに衝突して即死しました。

 この事件はしばらく飯塚市を騒がせましたが、一九歳の少年が、妊娠させた少女の両親を強制的に堕胎させたことに腹を立て、金属バットで殴り殺し、自らもバイクで逃走中に事故で即死したということで解決したそうでございます。

 「私を怒らせると、こんな目に遭うのよ」安河内様はギロリと私を見上げるように見つめて来られました。安河内様の目付きは、挑発や威嚇、というより彼女の中の本当の姿を見て欲しいと頼んでいるかのようでございました。

 「初めて命を授かって、そして失って、私の中で何かが変わったような気がしたの。変わったって言うより、本当は気づいていたけど、それまで気付かないふりをしていた私」

安河内様の心の奥底に潜んでいた安河内様、それが鬼女なのでございましょうか、サービスでございます、と私はもう一本、冷酒を安河内様に出しました。

 事件後、安河内様は父方の出身地である熊本の祖父母に引き取られることになります。中学三年次、殆ど学校へは出席していませんでしたが、高校進学は地元の権力者でもあった祖父の力によって熊本市内の私立女子高に進むことが出来たのでございます。しかし進学先はその高校の中では就職を目的とする偏差値最低ラインの実業クラスでございました。しかしこれまで成績でかなり追い詰められ、毎日のように虐待を受けていた安河内様にとっては溺愛する祖父母の存在も手伝って、ゆとりのあり過ぎる生活だったのでございます。

 「でも緩すぎるだけで、快適ではなかったのよね」安河内様はそう仰います。

 安河内様の仰せられることは分からない、でもございません。虐待を受けていた子供が保護され、裕福でしっかりとした教育を与えられる里親に引き取られたところ、ソファーに火を着けたという記録がございます。死に直面するほどの臨場感を味わったことのある子供は、その環境に馴染んでしまい、環境が変わってしまうとそこに違和感を覚え反抗的な態度を取り、あるいはそこから逃げ出そうとするのでございます。確かに安河内様の熊本での環境は恵まれていたかもしれませんが、それにこそ違和感を覚え、息の詰まる高校生活を送っていたのでございます。

 「それでも耐えたのよ。大人しく物静かな少女を演じてた。そしたら彼が現れた」

 孤独で息のつまるような、しかもその当時であれば少女にも人を殺めた、という罪意識はあったはずでございます。苦痛の毎日で少しでも話を聞いてくれる相手が現れたら、その男性に少女は依存してしまうのです。

 知り合いも話せる相手もいない慣れぬ街、そこで少しでも話を聞いてくれる異性、たとえそれが少女好みの色狂い男であっても、その存在への胸のときめきは当時の安河内様の息の詰まった生活を誤魔化すのには十分でございました。

 相手は、騒がしい教室で黙々と授業を進める若き日本史教師大槻敦。昨年大学を卒業したばかりで、最初の挨拶は。僕も一年生だからみんなで一緒に頑張ろう、でございましたが、いったい何を頑張るのか? 女子高と言えば女の園で若い教師は純粋な少女たちに恋心を抱かれる、そう思いがちですが、そこは女の本性剥き出しの悪臭漂う世界にございます。大槻教諭のような若くて爽やかであっても真面目に日本の歴史ばかりを語ろうとする男であれば、大学受験を希望していない彼女たちにとってはつまらない大人の一人にしか過ぎません。最初こそ教育に対する熱意と信念を持っておりましたが、生徒たちからは相手にされず、職員室でも居場所のなかった大槻は採用一年目の秋ごろには学校で孤独になり、教育に対して早速疑問を持ち、仕事に対して割切るようになっていました。

 「今思えば大した男じゃなかったのにね」安河内様は、相手を知らない私に同意を求めるように首を少し斜めにしておっしゃいました。笑みで返すしかございません。

 当時の安河内様も過去をひた隠しにして、騒々しいクラスメイトとは仲良くすることなく無表情を保つことで息のつまるような日々を送っておりました。唯一の救いといえば皮肉にも学業だったのでございます。

 「中学の時は気まぐれなババアに押し付けられるようにやらされえていたから伸びなかったけど、高校に入って偏差値の低いクラスに入ったら勉強が良く分かるようになった。結果、それが私にとっての唯一の自己表現になったのね、もちろん努力もしたわ。それがあの男とかみ合う切掛けとなったのよ」

 勉強など二の次だったクラスの中で、飛び抜けた才能を発揮した安河内様は教師たちの目に留まることになります。毎日騒々しく言うことも聞かない頭の悪い醜い連中の中に混じって安河内様は、教師たちには狼の中に一匹の羊を放ったように映ったのかも知れません。本当に危険な鬼女は安河内様なのですが。

 大槻は積極的に話を聞こうとする唯一の生徒、つまり安河内様だけに向かって授業をするようになりました。他愛もない会話にはしゃぎ、何の価値のないメスブタの中に目を光らせる魔物は時に美しくも見えたのでございます。大槻は成績優秀な安河内様にある話を持ち掛けます。「二年から特クラに入らないか?」特クラ、特別進学クラス、この学校で国立大学を目指す最上位のクラスのことで、大槻は安河内様に特クラに入ることを勧めたのでございます。他の教師たちも、彼女があの就職クラスにいるのは勿体無い、彼女が特クラで頑張れば国立は無理でもある程度の私大なら行けるだろうと言っていたのです

 馴染めないブタ箱から解放されるわけですから、安河内様は二つ返事で、二年次より特クラに進級するための校長に提出するまだ何も記入されていない申請書を受け取りました。しかし中堅どころの進学校とはいえ、誰でも特クラに入れるわけではございません。それなりの学力あり、という証明をしなければならないのでございます。時期は十二月のクリスマス前、他のクラスメイトは異教徒の一大イベントに盛り上がり、夏に失敗したメスブタ共が処女を失う準備にはしゃぐ中、安河内様は三月初旬の進級テストに合格するための猛勉強を始めました。そこで分からないところを指導してくれたのが大槻だったのでございます。最初こそ、教室に残って指導していましたが、やがて二人は外でも会い勉強するようになりました。孤独だった二人が、ちょっとしたきっかけで引寄せあい求め合うまでそれほど時間はかかりませんでした。

 安河内様は妊娠しやすい体質なのかもしれません。また愛に飢えていたということもありますが、本物の安河内優美子と出会った頃、進級テストのひと月ほど前に既に新しい命をお腹に宿しておりました。相手は大槻教諭にございます。本物の安河内優美子の名を安河内様が名乗っていることの説明は後にして、本物の安河内優美子は、大槻とよく一緒に勉強していた喫茶店で働く一六歳で安河内様と同じ歳、両親はおらず施設で育ったそうで中学を卒業し繊維工場に就職したのですが職場が合わず夏前に退職、僅かな貯金と退職金で一人ぐらいを始め求人誌を見て半年前から喫茶店で働き始めていたそうでございます。

 喫茶店で働く優美子は卑屈な安河内様とは違い、エプロンの似合う長い髪の清楚な少女でございました。大槻が職員会議などで待ち合わせに遅くなるときなど、優海子がお店の電話を受け安河内様に伝えること接点となり、歳が一緒ということで話が盛り上がり二人は仲良くなりました。一緒に遊びに出掛ける事もあったそうでございます。

 天涯孤独で学歴もない優美子は、勉強ができて大学を目指している安河内様の事を羨ましそうに見つめていました。しかしそれは妬んでいるということではございません。純粋に彼女にないものを持っている友人を尊い応援しようとしていたのでございます。しかし安河内様は優美子が羨む様な少女ではございません、先にも述べましたように殺人者でございます。ましてや特クラに進級できるかもしれないという大事な時期に彼女は妊娠しております。未熟であるがために対処しきれない安河内様は引き取っていただいた祖父母に相談します。お前はどうしたい? と聞き返され、大学にも行きたいし赤ちゃんも産みたい、と返答します。安河内様の意志を汲んだかのように思えた祖父は相手が大槻であることを確認し連絡を取って大槻の両親との双方で話し合いの場を持ち、出産時期がまだ二年の秋ごろで時期も救いとなって、特クラに入り進学を目指しながら出産することになったのでございます。もう何十年も前の話ですから今とは違い、徐々にお腹が膨らんでくる安河内様を偏見的な目で見る生徒もいましたが、女子高であったため男子生徒からの卑猥な目で中傷されることはございませんでした。しかし、二年生の新年度が始まった時には大槻教諭の姿はございませんでした。

秋に安河内様は無事、男の子を出産いたします。中学生の時に妊娠した子は男の子だったのか女ンお子だったのか、何度となく考えもしましたが、今抱きかかえている男の子を大事に、今度は絶対に話さないと心に決めておりました。そして優美子が迎えに来て安河内様は退院いたします。その時までは喫茶店で出会った彼女だけが気の許せる相手だとか感じておられました。何故なら入院している間、安河内様に祖母こそ時折付き添ってはくれたものの、クラスメイトや担任、そして父親であるはずの大槻ですら見舞いに来ず、淋しかったのでございます。そして不思議なことに安河内様の身が退院され、赤ちゃんはもうしばらく入院すると看護婦に聞かされ仕方なく、十七歳の少女二人で帰ることになったのでございます。そしてその日の夜に祖父から聞かされることになりました。

「全員殺してやろうと思った。いや、殺したんだけどね」安河内様は口を横に伸ばしながら笑っておられました。

出産前に大槻の両親から話があり、実際その話は安河内様が妊娠したという話を聞かされた直後からあったようなのでございました。安河内様の祖父の話では、彼女も大槻も未熟であるがゆえ、二人で子供を育てていくのは無理があり、また安河内様にも大学進学がある。そこで当面の間、大槻家で子供を預かる事にする、とのことでした。しかも十七歳の少女の金銭感覚を狂わすように、大槻の父親は祖父に現金で五百万円を差し出したそうです。目の前の現金を見て、賢い安河内様は一瞬で大槻の父親が考えていることが分かりました。そしてその現金を受け取った祖父の唇の緩みも。安河内様がその現金を受け取った時点で、子供を抱きしめることはもう二度とないのでございます。大槻の父親は男の子が生まれたことで、跡取りとして必要とし安河内様からお金で買い取った、少なくとも彼女はそうとらえました。何故なら、祖父はその現金を見つめ明らかににやけていたのでございます。その緩みはごくわずかではございましたが、安河内様には、この金が俺の物だ、と言わんばかりの老人の醜さが手に取るように分かったのでございます。もしかしたら、祖父は安河内様が妊娠の相談をしたときから企んでいたのかもしれません。

そのとき、安河内様は『示談金』という言葉を知ることになるのでございます。

「でもね、さすがに二回目は私も馬鹿じゃないからカッとなって勢いで殺そうとは考えなかったわ。赤ちゃんもいるしね。最初はかなり病んでいたけど、しばらくしたら全身に力が湧いて来たの。子供に対する執着と奪われた怒りが力を漲らせているのね」

安河内様のおっしゃる通りで間違いはございません。彼女には母親から受けて来た虐待が災いして他人に対して厳しく、時には敵愾心を抱くことはまれではございません。その敵愾心を沸かせる相手とは、無作為にではなく安河内様から大切なもの、つまり子供を奪おうとする者は絶対に許さないのでございます。そして、もう一つ、安河内様には特徴があり、彼女から何かを奪ったわけではないのでございますが、飯塚で付き合っていた十九歳の恋人のように彼女を大切にしてくれる相手でありながら殺意を抱くことがあるのでございます。

安河内様は出産後、祖父母と大槻の両親の企み? いや対応策を知り計り知れない怒りから強烈な敵愾心を抱くようになります。進学実績を期待して妊娠、出産した彼女を特クラに在籍させている高校側の判断を裏切るかのように勉強が手に就かなくなります。授業中でも、なにをしていても、無条件で彼女は動かなくなるのでございます。体育でグラウンドに出なければならないのに、じっと教室で座って動かず、学校のトイレ、駅のホーム、玄関、台所、挙句の果てには半日以上も湯船につかったまま、祖母が見つけなければずっとそうしているようなことが多々ございました。やがてよく休むようになり、学校生活がまともに遅れなくなったのでございます。

 それでも唯一、精神を安定できる場所がございました。優美子の住む安アパートでございます。安河内様は優美子が休みの日には必ずと言っていいほど、彼女のアパートに行き一緒に過ごしておりました。優美子は心優しく、彼女も独りでしたので、安河内様が訪れることに拒む理由もございませんでした。安河内様が優美子のアパートに泊まった夜、枕を並べ天井を見つめながら、全てを打ち明けました。優美子は彼女の事を羨んでいるが、中学生の時妊娠し堕胎したこと、そして両親を殺し彼氏も巻き込んだこと、熊本に来て孤独だったことと知り合った男の子を妊娠しそして奪われたこと、熊本での出来事を優美子は知っておりましたが、安河内様が飯塚で人を殺したという話をしても優美子は驚き、怯えるようなことはございませんでした。平凡で幸せな人生が欲しいなあ、と呟く安河内様の話を聞いた優美子は表情を変えることなく、彼女の顔をじっと見つめていました。平凡な人生とか、何もない人生とか一つもないと思う。産まれて来たらいろんな困難が合ってそれを乗り越えようとすることが大事なんじゃないかな、といったそうでございます。

 「正直、ムカついた」安河内様の視線が私の横に逸れ、そこには回想する優美子が存在し、彼女を睨みつけておられました。「恵まれない人生を受け入れて私は強く頑張って生きています、っていうオーラが自分を正当化しているように思えたの。優美子が正しいっていうなら、私は間違っているって事よね。少なくとも彼女が教え諭そうとするということは、私に誤りがあるって事でしょ。なんであんなのに言われなきゃならないのよ!」

 そこで計画は決まったそうでございます。それまで学校生活もままならなかった安河内様でございましたが、毎日休まずに通うようになりました。勉強もしっかり特クラに付いて行けるように努力されました。しかしひと月ほど経った頃でございましょうか、安河内様と祖父母の暮らす家が全焼する火事が起きたのでございます。

 鎮火後の警察の検証では、事件現場から三体の遺体が発見され、司法解剖の結果住人の老夫婦と女子高生であった孫娘のものと見られました。出火の原因は仏壇の蝋燭が倒れたとのことでございますが、仏様は火で人を殺すような真似はなさいません。そのようなことをするのは誰とはいいませんが、鬼でございます。同時に、熊本のある喫茶店で働いていた十七歳の少女がある日突然、お店に出て来なくなりました。オーナーのママさんは最初こそそれほど気にはしていなかったのでございますが、彼女の部屋には電話もございませんし、さすがに一週間以上も来ないとなると気になり彼女の自宅アパートに足を運び、大家さんに頼み部屋に入って見ましたが誰もおらず、生活している様子ですらありませんでした。蒸発したのか? もしかしたら男が出来て一緒に逃げてしまったのか? ママさんはいろんなことを考え念のため、警察に捜査願いを出しますが結局、安河内優美子は熊本で見つかることはありませんでした。

 安河内様は冷酒の入った盃を口に運びながら語られます。このお店に入られて安河内様の表情に多少の変化はございましたが、今は確かに異様になり、目が引き攣り口が裂けたかのように、私には見えるのでございます。

 「あの時は大変だったのよ、死亡扱いされたときは一応女子高生だったから、私なりに用意周到にひと月くらい前から準備して苦労したわ」

安河内様の淡々と語ろうとする目付きは悲惨な殺人状況でありながら目付きがギラギラしておりました。その目を合わせ、不気味、と感じるのは私だけなのでございましょうか。

 「やっぱりお金よね。十七歳の女の子が独りで逃げるにはお金が必要だった。だからまずは大槻の親父が渡した五百万、実際はもっとあってあのジジイ三百万を別に隠してた。すぐに見つけたけどね。あとジジイとババアの定期預金も解約したかったけど、そこまで設楽足がつくからやめたわ。優美子のアパートの押入れの中の奥に新聞紙に包んであった現金二十万も知ってたわ、必死になって貯めたお金なんでしょうけど、彼女にはもう必要ないでしょ。それと優美子の住民票と戸籍謄本も確認しておいた。だって今後は私が安河内優美子を名乗るんだから。そして逃げる先を探さなきゃならなかったから、飯塚の悪仲間に電話取ろうとしたけど、その矢先にジジイが金がないことに気付きやがった。しくじったわ、殺した後に金を奪えば良かったんだけど、浅はかだったのよね、ジジイは私を咎めた。だからそのまま契約決行、見切り発車だったけど、飯塚の時よりは準備ができていたから、意外にスムーズにはかどったわ」

 人を殺した記憶を回想し、少し嬉しそうに安河内様はまさに鬼女でございます。

「飯塚の時は思い付きで中学校の金属バットを倉庫にしまっといたけど、今度は金槌を選んだ。ジジイがうるさいからお金を取りに行くふりして金槌を持って最初は正面から頭を殴った。ジジイは俯いていて腕を組んで正座していたから、まさか孫が殺す為に金槌握っているなんて思わないでしょ。ジジイを殺した後、たぶんババアは全て気付いていたんでしょうね、息子を殺したのが誰なのかを。だからジジイの死体を見て私を見上げ震えながら膝を着いて両手を合わせてた。申し訳ないとでも思ったんじゃない、何に申し訳ないのか分からないけど、私は金を奪って殴り殺しただけだったけどね。なんで金槌を選んだかって? ナイフや包丁でもいいけど、肉を裂くより叩き割る方が心地いいのよ。実感があって、やりきった勘が気持ちいいの、労働したって感じがしてね。あ、飯塚のときもそうだけど、ものすごくお腹が空いてね、飯塚の時は逃げてすぐに商店でメロンパンを買って食べたけど、熊本では優美子が作ってくれたサンドイッチを全身に血を浴びたまま食べたわ。そしてシャワーで血を流しきって、優美子のところへ行った、彼女を誘き出すために。喫茶店の仕事から帰ってきた優美子は泣いている、ってフリだけど、気遣って中に入れてくれた。そしておじいちゃんと喧嘩して飛び出して来たっていったら、一緒に付き添ってあげるって死体の待っている家まで付いて来た。優美子は何でも自分でやらなきゃならない環境で育っているから、親友と思い込んでいる私を放ってはおけなかったのよ。彼女なら付いてくるって分かっていたから、懸命にババアの事を心配しているふりしてた、ジジイが殴るかもしれないってね。家に着いて、静まり返っていたけど、優美子が先に家に入ってくれたらこっちのもんよ、座敷で死んでいる二人の老人を見て驚いている彼女の後頭部を一撃、少し外したから彼女は振り返ったけど、目を合わせながら正面から頭を殴った。何か言いたそうだったけど、優美子はそのまま倒れた。そして死を確認できるまで金槌で叩きつけたの。気付いたら深夜一時くらいだった。でもその時間で都合が良かった、三人を仏壇前の座敷に寝かせて布団に火を着けた顔が分かりにくくするために優美子には顔に布団をかぶせてその上から火を着けた。一応、警察がどこまで調べるかは分からなかったから、念には念を入れて座敷の障子を少し開けて、仏壇の蝋燭に火をつけて落ちそうなところに大きなマッチ箱をひっくり返しておいた。そして酒の瓶を転がしてジジイは大量に酒を飲んでいるように見せかけた。燃えてなくなったかもしれないけど、一応ババアと優美子の枕元に風邪薬ね。私は火を放ってお金を奪って、家からタクシーなんか使わずにひたすら歩いた。なるべく遠くの駅を目指して歩いてトイレで休んで、始発の電車が走り出した頃にどこまで行かは忘れたけど、切符を買って電車に乗り込んだ。そのときから私は安河内優美子になったのね。死体は二度も妊娠して親と祖父母を殺した問題女子高生」

どうだ、と言わんばかりの表情で口を少しばかり開く安河内様の表情に、私は少し抗うような気持ちになってしまいました。

 そこで私は、安河内様の事を親友だと思われていた優美子に対するお気持ちをお聞かせ願えませんでしょうか、と訊いてみました。

 「気持ち?」安河内様は首を傾げます、「気持ちとか、心とか、最初から私にあるわけないじゃん。物心ついたころから壊されているんだから。逆に聞きたいんだけど、私の心を壊した親たちは咎められないのかしら、私の赤ちゃんを売ったジジイのお気持ちは? はあ? 死ねばすべて許されるの? そんなに生前の行いが軽いんなら、生きていくことに意味なんかないわ。中卒で貧しい優美子の命を奪うなんて虫を踏み潰すのと一緒よ」

 安河内様は笑いながら仰せられていますが、その唇は震えておられました。

 ショウロウダマの光が揺れております。


 飯塚で我が子の心臓の鼓動を感じ、熊本で我が子の産声を、幻覚の中で聞いた安河内様は見かけこそ普通の女性でございますが、心の中は人への思いやりや優しさを完全に失った、情け容赦のない残酷な鬼女となってゆきました。

 その理由は無論、授かった我が子を二度も奪われてしまったという失望感なのでございましょう。母親というものは我が身に変えても子供を護るといいます。我が子は分身であり、生きていくうえでの糧なのですが、それを二度も失ったとあれば、彼女に限らず他の女性であっても受けた絶望感は計り知れないものでございます。ということは、彼女全てが悪いのでございましょうか、身勝手な両親、金で子供を売った祖父、そして金で子供を買った大槻の両親は死にさえすれば何も咎められることはないのでしょうか。いいえ、私たち人間にその権利がないだけで、お釈迦様は常に見ている、泰子はそう申しております。

 ただ、鬼女となった安河内様のお気持ちも分からないでもありません、誰も彼女の気持ちを聞かずともお釈迦様はそのお気持ちも覚っておられます。

 既に予約のお客様がお見えになられていることはお気づきかと思いますが、安河内様はそのお客様が一体何者なのか、知るどころか気づきもしないまま祖父母と親友だったはずの優美子を殺した後の事をお話になられます。

 安河内様が始発の電車を乗り継いで辿り着いたのは博多でございました。そこが博多であることは分かるようでしたが、何分、数年前にいたのは同じ福岡県でも飯塚市であって博多の知識は殆どございません。しかしそうは言っても一千万円近いお金を持っていたところでいつかお金が尽きることくらいは十七歳の少女でも分かりますし、安河内様はいつか二番目の子どもを取り戻したいと執着しておられます。そこで彼女は年齢を偽って数日間ホテルに宿泊し、新聞の求人広告で見つけたクラブでホステスとして働くことにいたしました。飯塚で暮らしていた頃に水商売であれば時給が高く、効率の良いことは知っていました。今ほど未成年者の深夜の労働に対して規制の厳しくなかった当時、厭らしい目付きの店長は、「君、高校生じゃないよね?」と安河内様を窺うような目で見るもその後は何の疑いもなく働かせてくれたそうでございます。そして一年経った頃にもっと効率のいい仕事を安河内様は知ります。それは中洲を歩いていて知った風俗にございます。安河内様は元々執着も恥じらいもない少女にございました。故に、お店に来た初めて会う男性に身体を開くことにそれほど抵抗がなく、一日に何人もの男性を受けとめてお金を稼ぎました。

 安河内様の執着と言えば失った我が子でございます。それ以外は何も興味を示さず、同じ歳の女性が振りそでに手を通し成人式に向かう日もただひたすら裸で働き、お金を稼いでいました。そして熊本で奪ったお金の残金と働いて稼いだお金の合計は二千万円を超えていました。これくらいあればもう、風俗で働く必要はないだろうとお店を辞め、次の行動に移ります。それは大学受験でございました。

 安河内様は、彼女なりにどうしてこれまで二人も子供を奪われてしまったのか、再三考えたそうでございます。そして出た答えが、あまりにも幼すぎたから、でございました。これまで妊娠だけに限らず、生活すべて大人に頼らなければならない年齢で、生活に不自由することはなかったのでございますが、その反面、自由を奪われておりました。何も分からない子供であるが故に、自分のことなのに大人の判断に委ねなければならないもどかしさに苛立ちを覚えておりました。最初こそ、安河内様はお金さえあれば何とかなるとお考えでしたが、しかしこれからは女性も学歴が必要であり、安河内優美子の最終学歴は中学校卒業でございます。仮に息子を奪い返し一緒に暮らすことが出来たとしても、母親が中卒であったら息子が恥ずかしがるだろうし、何も教えてあげることが出来ない、安河内様は将来中卒という肩書に必ず後悔する、勉強しておくなら今のうちだとお考えになられたのでございます。

 安河内様が風俗店で働いていた頃、彼女を目当てに足繁く通っていた中年男がおりました。その男は自分がどんな店に通っているのか理解していないようで、それほどストレスの溜まる仕事だといっておりました。その男との出会いが、安河内様は名前を忘れたと仰せられておりますが、彼女を教師にさせる道を開いたそうにございます。

 福岡市の高校教師だった中年男の相手をした後、安河内様は中卒である彼女がもし大学へ行くとすればどうすればいいかと、お尋ねになりました。男に色を売る仕事は客に弱みを見せてしまうと客が付け入って来ると聞かされてはおりましたが、当時の彼女には大学へ行くための手段を知りませんし、周りにも教えてくれる人もおりません。仕方なくその高校教師に訊いたのですが、彼は店で相手する以外の要求はございませんでした。そして、中卒が最終学歴であれば、まずは大検、今でいう高卒認定を受験し合格して、志望大学を受験すればいい、と教えてくれました。そして人の良いことに彼は、大検と大学受験に必要な資料や参考書を山積みし、そして受験票まで準備してくれたのでございます。

 安河内様はここまで優しくしてくれる高校教師に気持ちを揺さぶられる事はございませんでしたが、人が見返りを求めないで奉仕してくれることなど絶対にあり得ない事は分かっていました。その証拠に、「これだけあれば十分だよ。お前は頭がいいから一年あれば十分だ」といって、家庭教師を買って出てくれました、婚約指輪と併せて。

 禿げ上がり、でっぷり太り、一度洗っただけでは落ちない脂身と悪臭を放つブタに求婚されることは想定内でございましたので、安河内様はさっさとお店を辞めその高校教師が用意してくれた山積みの『受験対策』に打ち込むことになさいました。

 大検は高卒程度でございますから、さほど難義なことではございませんでしたが、安河内様が目指していたのはお金のかからない国立大学でしたので、止む無く大学受験につきましては予備校に通うことになさいました。そして福岡は宗像市の教育大学に二十三歳で合格することになるのでございます。

 日本の大学は入るのは難しゅうございますが、卒業するのは容易でございまして、五つも年下の学生たちと一緒に勉強する、とはいっても彼らは恋愛やらサークルやらと勉強など一切いたしませんが、とにかく隔たりを感じておりました。死体阿木増して学生たちと仲良くすることなく、独りでの大学四年間を過ごすことになるのでございます。

 安河内様の目的はあくまでも二番目の我が子を取り戻すことにございます。そのために知恵と力を養うために大学を進まれました。多少期待はずれなところはございましたが、しかし彼女の事でして、タダでは卒業なさいませんでした。

 安河内様は大学四年の教育実習で実習先中学の教頭職の石坂という男と知り合います。二十代の女性にとって石坂は恋愛対象ではありませんでしたが、安河内様にとっては好都合な男でございました。四十過ぎの頼りなさそうな男でさほど頭もよさそうには思えないいのでございますが、どうしてこのような男が教頭職に就けるか、そこに安河内様はずっと目を付けられておられたのでございます。

 教育実習で知り合った石坂に言い寄り中洲の風俗店で養った男を満足させる技術で虜にして、無事、卒業後は県の教職員として採用されることになりました。公務員は景気の良かった当時はそれほど注目を浴びず、何の妄想を抱いているのか頭の悪い若者たちが感動的な教師ドラマに憧れて中学生に犯罪まがいの危害をくわえる時代にございました。簡単にいってしまえば教師しかなれない輩の集まりだったのでございます。そこに安河内様は目を付けたのでございました。

 当時はバブル好景気でして、若者たちは民間企業への就職を望みました。企業への視線が集まる中、公務員という職業にはそっぽを向く若者もおり、やがて職員室は閉ざされた小さな社会を構築し安河内様はこの程度の小さな世界であれば支配できるとお考えにうなられたのでございます。この封建社会に必要と思われたのが君主になるべく権力にございます。しかしながら権力を得るには新米教師の安河内様は若すぎて結局また無力さを痛感せざるを得ません。そこで知り合った二十歳近くも歳の離れた石坂を虜にしたのでございます。石坂の家系も大槻同様教師一家でございまして、彼は確実に頭は良くないのでございますが優秀な人材を引き摺りおろし県教職員として採用され、エスカレータを上がるように教頭職に就いておりました。初対面の時に聞いた噂では、この後どこかの地方自治体の教育委員会の事務局長を数年勤めれば五十歳になる前に校長になれるだろう、ということでございました。そこには若い女性には見抜けることの出来ないこの世界独特の権力を安河内様は、父親が大学教員、大槻が教師でその両親も教師、足繁く風俗店に通い詰めいていた高校教師を見て来た事で見抜くことが出来たのでございます。

 安河内様の生前の父親には女子大生の愛人がおりました。彼なりに妻や娘、職場の同僚などにも隠し通していたようでございますが、それが誰もが知るところでして暗黙の了解のようなところがございました。また大槻も当時女子高生だった安河内様を妊娠させておいて今もどこかの高校で教鞭を取っておりますし、足繁く通っていた高校教師の風俗好きも彼の環境では周知の通り、にございました。しかし関係者以外に知れ渡ることは一切ございません。これが安河内様の欲しかった隠蔽体質にございます。愛人を作り、教え子を妊娠させ、風俗店に通い詰めても誰も咎めるどころかなかったことにしようとする隠蔽癖を一つの力だと安河内様は捉えられたのでございます。この三人の男たちしか安河内様は知りませんが、他にも、中には刑事事件にもなりかねない罪を犯していながら今も伸う伸うと生き、「先生」と呼ばれている教師も存在しているはずでございます。

 何事も揉み消す、この一般社会では決して許されることの出来ないが、まかり通ってしまう権力を生まれながらにして教師一家の権力を得た石坂を使い、二番目の我が子を奪い返そうと安河内様はお考えになられました。また好都合なことに石坂には、大槻家がしたように別れた元妻から奪った男の子がおります。歳はそう安河内様の二番目の息子と同じにございます。

 新米教師だった安河内様は当時二七歳、既に石坂の子を宿していましたので新任半年で産休に入ります。産休の間、安河内様は悠長に公務員の特権を行使していたわけではございません、計画を着々と進めていたのでございます。

 安河内様は興信所に依頼し、大槻が今何処で何をしているのか調べました。お金は未だ十分残っていましたが、かなりの費用と時間が掛かると安河内様は覚悟しておりました。しかし意外なことに、いや当時の個人情報の扱いや公務員という職業の特性で大槻は今でも熊本市の私立高校で教鞭を取っていることがすぐにわかりました。今では規制が厳しくなりましたが、当時は教師に限らず公務員であれば、本名、現住所、出身校まで金で買うことが出来たのでございます。直接安河内様が名簿を買い、大槻の現住所を知り得ることは可能ではありますが、当時の安河内様は福岡在住の身重でございますし、彼女が知りたいのは大槻ではなく、大槻と大槻の両親が彼女から奪った二番目の息子の現状にございます。興信所は思ったより早く、息子が今どうしているのか、早く知りたくて興信所からの連絡を心待ちにしておられました。

 そこで知り得た情報は、大槻敦也は大槻家の跡取りとして育てられ、私立の小学校に通っておりました。そのとき小学校四年生で、物心つく前に大槻は新たに妻陽子を迎え入れ安河内様の息子敦也は陽子を本当の母親のように思い生活しているとのことでございます。そう、これこそが安河内様にとって人生を狂わされ、そして得ようとしている権力なのでございます。大槻は両親の力を借りて息子を安河内様から奪い、新たな妻を迎えて何事もなかったかのよう、何処にでもありそうな家族を演じております。何も知らない息子敦也はその陽子という後妻を本当の母親のように慕っている、誰も事実を知らない、知っていたとしてもその話を明かそうとか、話そうとかする人は一人としていない。ただ安河内様のみが孤独に歯痒く惨めな思いを募らせ、歪んだ心に惑わされて何人もの人を殺め、そして彼女の若く美しい身体を売ってまで生きているのでございます。何が違うのでございましょうか、ましてや彼ら教師は子供たちに人は皆平等だと教えているにも関わらず、安河内様の二十七年間の人生と彼らの差には、確かな人間の煩悩を実力行使している様が安河内様には見えているのでございます。

 お腹が目立つような状態ではございましたが、安河内様は興信所から得た情報を頼りに、とはいっても熊本市内は高校時代に三年ほど住んでおりましたのでおおよその大槻家の場所は分かっており、夫とはいってもこれも父親ほどの年齢差ではございますが、出張の折を見て安河内様は、夫と前妻の間にできた長男を連れ熊本を目指されました。

 熊本駅からタクシーに乗り込み、運転手に行先を告げた時、安河内様の手に力が入りました。原因は長男が安河内様の手を握り締めたのでございます。血のつながりのない長男には我が子を取り戻す計画を覚られぬよう、過剰なまでに愛想よくしてきましがなかなか懐いてはくれませんでした。安河内様には我が子以外に感情がないということを子供なりに気付いていたのかもしれません。そしてきっと気付いていたのでしょう、安河内様の本当の息子の身代わりになるために熊本に連れて来られたことを。

 安河内様の殺人には規則性がございまして、目的とする相手を撲殺後に必ず事件を刑事がその場で片付けやすくするため、安河内様が後々疑われたり追われたりしないようもう一人の犠牲者を投入します。飯塚であれば当時付き合っていた恋人、熊本であれば親友の優美子、そして今回、安河内様は大槻家のそばの公園の遊具に手を引き僅かに抵抗する長男を逃げないように手錠で繋ぎました。「逃げたら承知しないよ」

 一戸建ての平屋であった大槻家は夕食時のようで、ターゲットとなる大槻敦、大槻の両親、後妻の陽子の様子がリビングでテーブルを囲んでいる様子が外壁の隙間から確認することが出来ました。早くひと目見たい息子は何処にいるのか探しましたがその場にはおらず、屋敷の外を一周回ると入浴中だということが分かりました。その方が安河内様にとっては好都合でございます、幾ら鬼女とはいえ我が子に残虐な光景は見せたくはありません。凶器は大槻家の庭に放置してあった金属バット、飯塚を思い出します。四人を殺害後、石坂の長男を連れてきて殺し、火を放って半ば脅しながらでも息子を福岡に連れ戻すつもりでございました。速やかに事を済ませ、速やかにお熊本を離れるつもりでございました。

 安河内様は躊躇うことなく、庭の金属バットを手に取り、玄関から入りました。靴を履いたまま、鞄に仕込んでおいた般若の面を顔に当てリビングに入り込みます。突然の鬼女の登場に大槻、大槻の両親、そして陽子は時間が停まったかのように身体を硬直させます。しかし鬼女の時間は進んでおります。握りしめた金属バットを振り上げまずは手前にいた大槻の母親に振り下ろしました。そしてその隣の十年振りに会った大槻、次に大槻の父親、それぞれ一度ずつでは息を止めることはできません。しかし動きは十分止めることが出来ました。後で独りずつ殺せばいいのでございます。リビング奥の陽子は、少し歳が上で鬼女の素顔より顔は劣っていますが幸せの中の驚きと恐怖を曝け出しておりました。鬼女はリビングとキッチンを仕切ったカウンター脇を素通りして陽子に歩み寄りました。そのとき、「お願い、子供がいるの!」と陽子は震えながら懇願します。確かに陽子のお腹も鬼女と同じように目立っておりました。般若の面をした鬼女は陽子の腹部を一瞥すると、その面の奥の表情はどうなのか、金属バットを振り上げ腹部に叩き下ろしました。陽子は意識を失い破水しながら倒れ込みます。人の子の事など鬼女は何とも思いません。ゆっくりと振り返り、リビングで横たわっている大槻、大槻の父親、母親を順々に金属バットで殴り続けました。顔や全身に返り血を浴びましたが構いません。確実に殺すことを目的としているのでございます。三人を確実に仕留め全身に血しぶきを浴びた鬼女はゆっくりと上体を起こします。

 鬼女が振り返るとその先には、意識を失っている陽子の前に立ちはだかっている石坂の長男と同じ年くらいの少年が髪を濡らしてこちらを睨みつけておりました。いや、その少年は石坂の弱々しい長男とは対称的で運動でもしているのか鍛えられたしっかりした体形で、こんな状況でも毅然とした目付きで鬼女を睨みつけております。

 これが安河内様の息子、なのでしょうか。

 「なんかね、その時に違うって思ったのよ。私」

 安河内様は惨殺現場を回想し淡々と語りながらふと我に返ったように首を上げて私の方を見つめられました。夢や妄想から醒めたきょとんとした目をしておられます。

「あの子は私の子じゃない。だってどんな格好していたって、般若の面をして全身に血しぶきを浴びていたって、母親くらいわかるもんじゃない? それなのにあの子、本当の母親じゃない女を庇うように私の前に立って睨んでいたのよ。もう最低。だから私なんか冷めちゃって、今までこんなガキの為に必死になって来た自分が馬鹿馬鹿しく思えてね。部屋中に火を巻いて大槻の家を出たわ」と、安河内様は言い終わると、残りの冷酒を喉に流し込まれました。そして大きく息を吐かれますと、腰を上げられました。

「さあ、長話をしたわね。でも訊いてくれてありがとう、幾分、気分がすっきりしたわ」

安河内様は腰を上げながら支払いをしようと財布をカバンから取り出されました。私は手を差し出して、もう少しお聞かせください、その子はどうなったのですか? と訊ねました。それにここは鬼来村でございます、タクシーもホテルもございません。

「え? その子? その子ってどの子ども? 大槻んとこのガキ? それとも石坂の長男? 陽子のお腹の子もいたわよね」また安河内様は挑発的な目で私を見返され、「知らないわよ。私は、今の息子修也以外は興味ないから」といってカウンターに一万円札をぽんと置き出て行かれようとしました。

店を出て独りで行こうとされる安河内様をお見送りしようと、私は一緒に付いて行きました。この時間でしたらもうタクシーも捕まりませんし、宿泊できるホテルもございませんので、私が車を呼びましょうか? と申し出ました。すると安河内様は僅かに振替し横顔だけ覗かせて。

「交番くらいならあるでしょ、三日前に人を殺したって言ったじゃない」とそのままコツコツと石畳の小道を歩いて去って行かれました。

 私は安河内様の姿が見えなくなるまで深く首を下げ、店に戻るともう一人の本日予約の入っていたお客様に会釈しました。そして速やかに安河内様の席を片付けながら、時計に目をやるとショウロウダマを海に流す時間が迫っていることに気付きました。

 私は本日のお客様である、そのお方の魂の灯したショウロウダマを胸元で両手に持ち海へと歩いて行きました。海はお店からほんの僅かな距離で、古めかしい家屋の並んだ小道を抜け昔のメインストリートを突き抜け、そして今は営業していないは村崎旅館の横を出ればそこは港になっております。毎年、この小さな港から過去一年に亡くなった仏様の魂を海に流すのは八月の一六日で、僅かな村人たちが集って提灯などの飾りを施した小舟を流すのでございますが、今日は晩夏の八月末、私が務めとして流すのは親より先に亡くなった想いを残した子供の魂にございます。

 港に着いた私は小さく囲まれた湾の先の沖を見つめました。まだ私の手にある小さく輝くこの魂は海に流され、やがて私の見つめる沖へと流されて逝きます。流された魂は何処に逝くのか、私は存じません。横を見れば、先ほどまで私の店でお酒をたくさん召し上がられた安河内様がいらっしゃいます。彼女は呆然と海を眺め、私を一瞥して再び海に視線を戻されました。私が初めて見る安河内様の女性らしいというか、母親のようなというのは私の思い込みなのかもしれませんが、とにかく優しい表情をなさっておられました。その表情をずっと以前から気付いておられたら。それは私の人に対するおこがましさ、差し出がましいというのかも知れません。神様が人を救わぬと同じよう、私も人に対して何もしない立ち位置がごもっともにございます。

 港の波が押し寄せる石段を下り、着物のを裾を気にしながらしゃがみ込み、海の水面にそっとショウロウダマを乗せてあげます。大切な我が子をお湯に浮かべるように、優しくそして温かく。そうするとショウロウダマは水面に浮き、波に流されえて少しずつではありますが、微かな光を灯しながら沖へと運ばれて逝きます。もうその頃には安河内様の姿はございませんでした。

 やがてショウロウダマの光は沖へと流され、元々小さかった輝きは微かなものとなりやがて見えなくなった頃、私は立ち上がり両手でお尻をポンと叩き、よし、片付けるぞ、とお店に戻りました。これで私の鬼来村での儀式の務めは終わりました。

 明日、北九州に帰ります。


 いくら霊媒師で親より先に亡くなった子供の魂を海に流す務めを行っているといっても、北九州ではIT企業の契約社員として、威圧的なお局四七歳永久に独身、無能で横柄な小娘彼氏ナシ(たぶん処女)たちとのストレスてんこ盛りの毎日に戻りました。しかも今年の夏は、というより年々の事なのでございますが猛暑で、晩夏だのなんだのと言いながらまだまだ暑く、出勤時の汗の量と来たら乙女の口からは申せませぬ。

 使えない折の合わない同僚、壊れたエアコン、不味い売店のお弁当、高すぎる自販機の飲料水と劣悪な環境の中、同僚の中には堪え切れずリストカットする女性社員もおりながら、私が平静を装っていられるのは、やはり年に一度の鬼来村での務めがあってこそではないかと思うのでございます。

 年に一度、亡くなった人の人生を知ることが出来る。これを特権というのか、それとも望まぬ宿命というのか、知らぬ人の生き方、そしてその人の死を知ることで気持ちに幅が生まれ生きている人の悩みや苦しみなど小さく感じてしまうのでございます。

 ところで今年のお客様は安河内様だけだったように思われますが、もう一人いらしたのをお気づきでしょう。そう本当のお客様は安河内様がお見えになられた直後に既にお席に座られていたのでございます。私はそのお方について兄の空一から話を聞くまでは何も知りませんでした、そして神の教えのようにこちらから訊ね何かするということは言一切ございません。ただ毎年の務めのようにお見えになれた霊をショウロウダマに宿らせ、海に流すのでございます。

 もしも泰子か空一がその霊について話そうものなら聞きはしますが、こちらからしつこく訊きまわるような見苦しい真似は致しません。そうこう思っておりますと、鬼来村から戻って約三週間後に兄空一から連絡がありました。

 「よっ、遅くなった」と今さら、仕事から帰って疲れ果てているというのに、兄空一は何時になく無神経な軽々しい挨拶から始め、「金は振り込んでおいたぞ、見たか?」と来ました。金とは、数週間前にお見えになられたお客様の魂を海に流すまさにその務めの報酬にございます。一応、泰子が受け取るのは百万円と存じてはおりますが、既に入金確認を済ませた私は、このまま一生結婚できないかもしれない、という将来に対するぼんやりとした不安、を補うため既に貯蓄に回しております。

「少なっ! っていうか久しぶりに連絡してきてそれ?」と思いきり兄に向って吐いてしまいました。時に泰子と空一は私の存在を忘れてしばらくの間、放置することがありその怒りも込めてのひと言だったのですが兄は理解しているのでしょうか。

 「すまん、すまん、離婚調停が建て続いて忙しかったんだ。その様子じゃあまだ彼氏も出来ていないな」と余計なお世話を告げ空一は、「お前に聞かなきゃならなかったことだ。既に知っているかも知れないが、安河内優美子は今朝逮捕された。婆ちゃんからも連絡があったかもしれないが、安河内は大槻敦也が我が子だってことを知っていたのか?」

 最初から結論に迫る空一の話の聞き方は相変わらずではございますが、私は二人の損座をそれほど知りはしませんが、鬼来村でお店にみえられた安河内優美子様と大槻敦也様の関係は既に見抜いてはおりました。

「うん、安河内優美子は大槻敦也が自分の子だってことを知っていながら殺した」

空一と電話で会話する私は自宅のマンションでソファに腰掛け、目の前にテーブルには今朝出勤前にコンビニで購入した新聞があり、私は広げたままにしておりました。『中学校長、児童買春と殺人容疑』との記事はずっと私の目に入っておりました。

その前に、大槻敦也様に就いてお話しておきます。空一が今回の仕事を受けた死者の魂は大槻敦也様のものでございました。そう、安河内様がご来店なさっていた時に送れて現れた魂は大槻敦也様であり、安河内様が二番目に妊娠した息子で、彼女の手によって撲殺された方でございました。

敦也様と空一は熊本市の高校時代の同級生で、血のつながらない母子家庭であった敦也様の継母陽子様も空一はよく知っておりました。女手ひとつで敦也様を高校まで育て上げた陽子様でしたが、敦也様の大学受験を前に病床に伏せ亡くなられてしまうのでございます。死者の魂が見える空一と、子供の頃に鬼の面をした女によって家族を撲殺された場面を見てしまった敦也様、幼くして死と向き合ってしまった二人はそのことには触れずとも気が合い、成績も二人ともよく競い合うことで時間を共にすることがよくありました。当時独り暮らしをしていた空一は、敦也様に招かれ陽子様と三人で食事をすることもあったそうでございます。

入院していた陽子様は、そのとき空一の節銀亜力に気付いており、そして自分の死期も覚っていらっしゃったのでしょう。敦也様が不在の時に空一を病室に招き入れ、私はもう長くはないけどこの世に未練はないわ。あの子も一人でも立派な大人になると信じている。でも、あの子に災いが襲ってきたら、お願い、守ってあげてね、と空一に封筒に入れた現金百万円を渡したそうです。そう、つまり今回の私の務めの依頼者は既に亡くなっていた敦也様の継母陽子様だったのでございます。

陽子様が生前案じていたように、敦也様に災いが襲ってきました。その災いとは、「とんでもねえ鬼女だよ。安河内優美子は」と呆れとも嘆きともとれる息を吐きながらの空一の声が聞こえます。

「安河内には三番目の息子修也っていうのがいて今は二十代半ばのこれもクズ教師だ。その前に安河内が結婚する前に既に生まれた石坂の前妻との子は、安河内からの虐待を受け過ぎて精神病院に入っている。で、問題の修也だが、大人しく公務員やっていればいいものを教師という立場を利用して女子中学生に手をだしまくって、挙句の果てには不登校で素行の悪い少女に金を渡して売春のあっせんをしていたんだ」

「最悪、そいつ」やはり鬼女の息子、なのでございましょうか私はため息を吐きました。

 「確かに女の敵だな。息子の悪行にも安河内は関わっていたようだ。安河内は閉鎖的で守られている教師で、しかも夫が教育長という立場も利用して息子の悪行を揉み消すどころか自らも加担して少女に売春させて荒稼ぎしていたようだ。売春だけじゃない、警察は安河内が臓器売買にも手を染めていると疑い始めている」

「我が子だけじゃなく我が身の為に人の子を食らう、鬼女、カリテイモそのまんまじゃない!」私は、ある程度は分かっていたのでございますが、改めて安河内様の悪行を耳にして怒りが込み上げて来るのをはっきりと感じておりました。

「そこへやりたい放題の鬼親子の前に現れたのが大槻敦也だ。不思議だったんだよな、高校を卒業するまでは継母の陽子さんの旧姓浅見を名乗っていたのに、大学入学と同時にあいつ、実家の大槻を名乗りだしたんだ。浅見を名乗っていたのは大槻家を嫌っていたからだと俺は思っていたんだけどね。しかも敦也ほどの頭だったら東大も合格できたはずなのに、三流の北九州の大学に行きやがった」

「北九州に安河内がいたから?」

「そう、結果わかったことだけど、敦也は大学に入って北九州の八幡西区で塾講師のアルバイトを始めるんだ。葬儀で大学時代の同級生に話を聞いたんだが、理工学部で大学院に残って研究職にも就けたはずなのにバイトしていた学習塾で塾長に治まっていたんだ」

「敢えて大槻の姓を名乗って、北九州の大学に進み、そして教育の世界に身を投じた。安河内母子から子供たちを護っていたっていうのは大袈裟かもしれないけど、少なくとも安河内と涙の再会を望んでいたんじゃなくて敵対する位置に立っていたことは事実よね」

「そうさ、実際、教師たちによって不登校になったり、心と身体を傷つけられた生徒を塾の域を超えて再起させていたようなんだが、あくまで目的は実の母親安河内優美子だった」

「で、敦也さんはなにをしたかったの?」と私が空一に訊くと、しばらく間が空きました。

 「聞きたいか?」あまりいい話は期待できませんが、うん、と私は頷きました。「復讐だよ。敦也の家族を撲殺し陽子さんのお腹の中にいた兄弟まで流産させた女を突き止め、必ず仕返ししたいと考えていたようだ。俺は一度も聞いたことはなかったけどな。小学校時代、熊本の家にまで押しかけて家族を撲殺し家を焼いた鬼女が実の母親だったということは後で知ることになったんだろうが、それでも敦也の復讐心は萎えることはなかった。鬼女の子は鬼だった、なんて親友の事を思い出すと少しゾッとするよ」

「それって適切じゃないと思うけど」との私の言葉に空一は少し間を置きました。

 しばらく黙っていた空一が話し出しました。

「ここからが修羅場なんだが」

幼い頃に鬼の面をした女に家族を殺された大槻敦也様は、中学に上がる頃から誰にも知られることなく事件の真犯人を追っておりました。敦也様の継母であった陽子さんから出来る限りの生立ちを訊き、本当の母親は飯塚で両親を失い、その後、熊本の祖父母宅で強盗に襲われ亡くなったと知りましたが、陽子さんもその場に立ち会ったわけでもなく、敦也様は彼自身も襲われた事件と共通点を見出します。それが撲殺です。

母親の両親、つまり敦也様にとっては祖父母にあたる夫婦が飯塚の自宅で襲われた時も、熊本で母親と一緒に焼き殺された曾祖父母の頭蓋骨は鈍器で殴られた痕が残っていたそうでございます。そして鬼の面をして襲ってきた女も金属バットを握っておりました。その共通点から敦也様はある疑問を見出します。母親は生きているのではないか?

本当の母親はどんな女性だったのか、誰も教えてくれない事にも不思議に思っていたのでございますが、敦也様の家に押しかけて来た鬼の面の穴から伺えた目が他人のようには思えなかったのでございます。

高校生に上がった頃、空一たちと仲間で集まって勉強していた喫茶店のママから昔、高校の先生と一緒に来ては一生懸命勉強していた少女の事を聞かされ、それが事件で亡くなったことから母親であることを知ります。同時に、母親と同じ歳だった喫茶店で働いていた少女の事も。「その焼け死んだ女の子はお前のお母さんじゃないよ」そう言ったのは兄の空一でした。空一の霊力に、想いを残して亡くなった本物の安河内優美子が囁きかけて来たのでしょう。

その後、敦也様は予測を立て安河内優美子という女性を探すことに的を絞ります。大学受験を控え、しかも陽子さんは病床ではありましたが、やがて北九州市に安河内優美子という教師がいることを見つけ出します。敦也様の実家は元々教師一家ですから父や祖父母の知人もほとんどが教師です。交際していた頃の父親と女子高生だった母親、そして安河内優美子という教師の両方を知っている父親の同僚が現れたのです。「確かにあれは君の母さんだよ。君の父さんと付き合っていた頃は女子高生でもうだいぶ時間は経ったけど、確かにあの娘だった」しかし、その教師も我が身可愛さで警察に通報することはしません。何故なら相手は両親に祖父母、交際相手とその両親、そして親友まで容赦なく殺した殺人鬼なのかもしれないのですから、その証言を敦也様がとるにはかなりの強引に迫ってのことでした。さわらぬ神に祟りなしといったところでしょうか。

敦也様は本当の我が子のように育ててくれた陽子様の死後、地元の熊本大学は受験せず陽子さんの旧姓浅見から大槻に名字をまた改め北九州の総科大学を受験します。大槻姓を名乗ったのは安河内様に気付かせる、そのためでございました。その後、北九州教育委員会に籍を置く安河内優美子を語る女を独自に調べます。そうするときな臭い話が出て来たのでございます。それが児童売春と臓器売買でした。その事実を知った時、敦也様には母親への愛情は微塵もなく、相手が鬼女であるとして幼少時に襲われた怒りを維持しながら安河内優美子様を見張るようになりました。やがて三十歳になろうとしていた頃、敦也様は学習塾を運営していく中で、教師たちによって傷つけられ不登校になってしまった子供たちの再起の為に影から支援されておられました。教師たちの魂の殺人、我が子を守るために人の子を獲っちゃ喰いするまさに鬼子母神様の前身であったカリテイモそのままの安河内様と対決することを決意します。

「敦也の背中には刺し傷が残っていた」

「え? 刺し傷?」私は兄の話を聞き、首を傾げました。何故なら安河内様の殺人方法には傾向があり、最初の殺人から一貫して撲殺でございます。そのことは安河内様本人も証言しています。実際、敦也様の死因は喉頭部を鈍器のようなもので殴打されての脳内出血でございました。

 「刺し傷って事は、他に誰かが敦也さんを襲ったってこと?」

「ああ、まだ安河内が逮捕され証言が得られれば、あるいは刺した本人が自首すればの話だが、最初に刺したのは腐れ息子の修也だよ」

「そうなんだ」息を吐きながら私は呟きました。

 「空しいな、弟に刺されるんだ。アイツの強さならヘタレ男をねじ伏せるくらいたいしたことじゃなかったはずだ。しかし敦也は安河内と冷静に話をしたかったんだ。度重なる教師たちの虐待やわいせつ、嫌がらせで傷ついた子供たちをたくさん見て来た敦也はその数えきれない罪を犯してきた安河内に自首するように進言しようとしたんだ。そうすることで人としての判断を失っている教師たちも変わるだろうと考えていた。それ以前に、安河内の犯罪が表に出れば多くの子供たちが救われることになるんだ。しかし安河内は目の前に証拠を並べられても聞き入れようとはせず、それどころか三番目の息子修也が敦也の背後から刃物で一突きしている。ムカつく話だが、大量出血している敦也を安河内は忍ばせていた金槌で何度も殴っている、バカ息子を護るただとさ。敦也が自分の息子だということに気付かなかったんだろうか」

「気付いていたわよ」私は間髪入れずに空一に断言しました。

「どんなに憎い相手でも時間が経てば許せてしまう事ってあるじゃない。殺してしまいたいくらい憎かったのに、時の流れで気持ちが変わったかのように憎しみから相手への慈悲の気持ちが生まれてしまうこと。安河内の場合はその逆で、最初は我が身に変えてでも守ってやりたかった我が子でも、人の子の命を何とも思わない時を重ねれば、安河内の心は黒く染まり、たとえ相手が我が子と分かっていても抑制できずに殺してしまう。そこまであの女は鬼女に成り果ててしまったのよ」

「生まれた環境が災いしているってことか?」空一の語気が荒くなりました。「そんなこと言ったら敦也が浮かばれないぞ。アイツこそ人の子の為に尽くして来たんだぞ」

 「人の為に尽くしたら神様は救ってくれるのかな?」私は鬼来村での敦也様の座ったような目で独り酒を飲む姿を思い返しながら空一に語りかけました。

「神様は何もしてくれないのよね。誰にも気づかれず、誰も称賛してくれないと分かっているのにどうして敦也さんは子供たちを守ろうとしたのかな? 無償で奉仕するように傷ついた子供たちを救おうとしたのは、やっぱり安河内への想いがあってのことなのよね。本人がそう言っていた。大槻姓を名乗って地域で有名な塾長になれば、安河内にもその存在が知れることになる。それが憎しみなのか、母親への求愛なのか、本人も分からないって言ってたけど、やっぱり安河内への想いがあったのよ。無償で人の為に尽くせる人って私、そんなにいないと思うよ」

「じゃあ、結局はアイツも何処にでもいそうなアンチャンってわけか、確かに、酒と煙草、女が大好きだったもんな。禁欲は無理か」

兄空一の鼻で笑うような声が聞こえてきました。

 兄とここまで話すのは久しぶりでございまして、長電話になりそうだったのですが血のつながりがなくともお互いそろそろ、と意思疎通が出来るので不思議なものでございます。明日からまたIT企業での何の代わり映えもしない、人生を一変させるような出会いも期待できない毎日が始まるのでございますが、その前にふと、思い出した事がございました。

 「ねえ、お兄ちゃん。カリテイモの仏教神話知っているよね?」

「あん? ああ、お釈迦様に諭される前の鬼女のことだろ、安河内のような」

「そうそう、お釈迦様は人の子を攫っては食うカリテイモを見兼ねて、末の子を攫うのよね。私最初不思議でしょうがなかったのよ。神様は何もしないはずなのに、どうしてカリテイモの子どもを攫ったのか」

「それが仏教の柔軟なところじゃないのか?」

「ううん、お釈迦様は何もしない、じゃなくて何もするな、って言っているような気がする。我が子を煩悩むき出しにして溺愛し、人の子は何とも思わない親は少なくはないけど、それって当然よね。他人の子まで面倒見きれないし。でもね、カリテイモはやり過ぎたのよ。他人の子を傷つけてしまった、しかも我が子の育て方も間違っている。お釈迦様は、カリテイモが仏門に帰依して鬼子母神として神格化するとき、何もするな、って進言したんじゃないかな」

「ふーん。確かに。その結果、安河内が溺愛し手を掛けてきた修也はどうしようもないクズに成り下がり、引き離された敦也は立派な教育者になった。皮肉なもんだな。我が子に何もするな、それ、安河内だけに聞かせる話か?」

「どうでもいい。そうやって割切らないと、敦也さんが見て来た世界は地獄みたいなところだから、はまり込んでしまったら私、抜け出せそうにない」

「そうだな」といって私たちは電話を切りました。


 私は床に就き、眠りました。その夜、私は夢を見たようでございます。そこには敦也様が陽子さんと住んでいた小さなアパートにて、空一が夕食に招かれた時の様子を渡しは天井から見下ろしております。制服姿から敦也様と空一が高校生の頃でございましょう。

 居間で勉強していた二人は陽子さんの、できたよ、という声と同時にテーブルの上の参考書やノートを片付け始めました。陽子さんが台所から出来た夕食を運び込みます。

 「さあ、空一君も遠慮せんで食べてね。私は勉強のことは分からんけど、あんたたちはご飯さえ食べとけば立派に育つとだけん。ご飯は任せなさい!」

 大した贖罪ではありませんが確かに美味しそうな料理が並んでおりました。何も余計なことはしなくても、子供たちに美味しいものを食べさせてあげれば立派な大人になる。それが陽子さんの持論のようでございます。



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