第四話 七月
七月である。夏休みはもうすぐそこに来ている。教師達も生徒達もみな浮かれ気分であった。
そんな最中、嬉しい知らせが、わが西久留米市立南部中学校に届いた。それは、暑い暑い夏の日であった。期末試験もようやく終わり、七月に入って一週間半ほどした時であった。
いつものように何気なく授業を受けていると、校庭からバイクの音がした。バイクの音? 何故? ここらへんは時代遅れの不良みたいなのはいても、暴走族はいない。何故学校にバイクの音が?
見てみたら答えが分かった。校庭に入ってきたそのバイクは、郵便局の人であった。山門校長先生が走ってバイク便を取りに行くのが見えた。山門先生、せっかく校長先生なのにぱしられてるような気がした。
しかも、いまどきバイク便って・・・・・・インターネットもあるこの時代に? ウケ狙いじゃないと使わないぞ。
山門先生は、バイク便を見て、急いでこっちに走ってきた。
「三年一組の瀬戸美奈子君! 君宛にバイク便が来ているぞ!」
俺は思わず立ち上がってしまった。美奈子はバイク便を山門校長先生から受け取り、封筒を丁寧に開けて中身を取り出した。そして、中に入っていた通知のような紙を読んだ。
少し沈黙の間が開いた。先生さえもがじっと見ていた。
そして、美奈子は急に嬉しそうに顔を上げた。
「全国芸術作品コンクール、私が最優秀作品賞を取ったって!」
みんな、一瞬それを飲み込むのに時間が掛かった。どう喜んでいいのか分からなかったのだろう。俺はたまらず雄叫びを上げた。みんなも続いて歓声を上げた。上の階の下級生も声を聞いて察知し、歓声を上げた。校舎は一瞬にして喜んで叫ぶ人ばかりになった。
三年一組の誰もが、美奈子に寄って行って持ち上げ、胴上げをした。
「おめでとう! 最優秀!」
「最優秀! 最優秀!」
先生達も思わず授業をやめ、一緒に胴上げをしていたほどだ。それほどみんな、一緒に喜んだ。
「わっしょい! わっしょい!」
「おめでとう!」
胴上げはしばらく続いた。
その放課後。俺は家に帰ってしばらくぶらぶらしていた。美奈子は最優秀賞の騒ぎでしばらく先生達に話をされていたので、今日は一人で帰ってきた。親父は今日は暇だったので、なんとなく俺は親父に将棋を挑んだ。ほほう、俺に一度も勝ったことが無い若造が、という感じで親父は不敵な笑みを見せた。
しかし、結果は、俺が大勝。
親父は信じられないというような顔をした。
「いや、京介・・・・・・今の手、もう一度待ってくれないか・・・・・・」
俺はあきれたように答えた。
「でも、親父、それ必須だぜ。どう動いたって負けるぞ」
親父はそこで考え込んでしまって、動かなくなってしまったので、俺は門の方に行って坊さんの一人と話をしていた。
すると、門の外から、ひょこっと美奈子が出てきた。
「京くん、今ちょっといいかな・・・・・・」
俺は縁側で固まっている親父を見た。別にすることもなかったので、美奈子についていった。
美奈子が俺を連れて行ったのは、寺の裏の坂だった。このなだらかな坂の上には、雑木林がある。よく子供の頃美奈子と一緒に遊んだ場所だ。
俺は何を言っていいのかわからず、とりあえず祝辞を述べた。
「まあ、いまさらなんだけどおめでとうな、最優秀賞・・・・・・」
沈黙。美奈子は何か思いつめたような顔だった。
俺はその間がなんだかいやで、話をしようとした。
「よく子供の頃遊んだよな、この坂で・・・・・・」
美奈子はまだ考えている様子だった。
俺はもう会話を始めたくてしょうがなかった。この沈黙は何かいやな兆しがした。
「ほら、美奈子、覚えてるか? ここで遊んでいたら柏葉が来て二人で相撲をとっていたら転んで坂を転げ落ちて寺の葬式のど真ん中に突っ込んだとき・・・・・・」
しかし、美奈子は何も言わなかった。
俺は少し頭にきた。
「おい、美奈子、お前が話があるって言ったんだろ? 話って何なんだよ? 早く言えよ!」
美奈子はつらそうな顔をしたが、やっと口を開いた。
「私、高校は東京の美術専門高校に行くことになったの!」
沈黙。俺は今の言葉を飲み込むのに時間がかかった。
「え・・・・・・? 東京って・・・・・・」
俺は情けない声で、美奈子の今のが冗談であってほしいと願った。だが、あの思いつめた顔では、事実なのだろう。
美奈子は続けた。
「賞を取ったからって、全国の美術専門高校から誘いが来て・・・・・・それで・・・・・・私はもっと才能を伸ばすべきだって先生達も・・・・・・。奨学金も期待できるから、東京の学校に行って、腕を上げて自分で稼いで、それでお父さんやお母さんにも負担をかけたくないから・・・・・・」
俺は沈黙した。
美奈子は言った。
「それで・・・・・・京くんとも・・・・・・今年でお別れになっちゃうね、同じ高校に行けないね、って・・・・・・」
俺は言った。
「話ってそれだけか?」
美奈子は言った。
「それだけ・・・・・・」
俺は坂をちょっと下り、美奈子に背を向けた。
「だったら行けよ、東京でもどこにでも・・・・・・美奈子があんなにすごい才能を持っているのに、俺とした約束でそれを駄目にしてしまうのは間違ってる!」
「京くん・・・・・・」
美奈子の声はどこか悲しそうであった。
俺は声を平常にしようとして必死に頑張っていた。俺は言い切るように言った。
「だから、美奈子は美奈子の行きたいところに行って、そこで才能を伸ばせばいい! 自分の将来に向かって進めばいい! 俺のことなんか気にするな!」
少し沈黙の間があった。
美奈子はやっとしゃべった。
「・・・・・・ありがとう・・・・・・。京くんがそういってくれるなら・・・・・・」
俺は、美奈子の声も震えていることに気づいた。
美奈子はそのまま坂を反対側に、自分の家に向かって下っていった。俺はその足音だけを聞いていた。何度か立ち止まる音も聞こえたが、やがて美奈子は去った。その間、俺はずっと背を向けていた。零れ落ちる涙を見せないために。
その晩、俺はご飯も食べずに部屋にこもっていた。布団を頭からかぶり、布団の中で自分を責めていた。
男は泣いてはならない。俺は幼少の頃から親父にそう教わってきた。
別に好きだったわけでもない。いや、もしかしたら好きだったのかもしれない。そもそも俺は『好き』という感情を勘違いしていたのかもしれない。『好き』というのは、憧れ混じった、立派な人に対して起こる感情であり、俺の学校にいる無数のストーカーのようにうっとうしがられても愛を誓う、それぐらいさせる熱い感情が『好き』だと思っていた。
ただ、俺にとって美奈子は、いつもそこにいてくれた人、いつも俺を支えてくれた人、いつも学校とかで助けてかばってくれた人だ。俺は馬鹿だ。俺は美奈子がそこにいることを当たり前のように思っていた。当たり前のはずがないのに。その美奈子がいなくなるというのは、今まで小さい頃からずっとあった俺の心の支えを取り除くことだ。
小さい頃からそばにいて、支えてくれた。親のような人物だ。親も、失って初めて自分のおろかさに気づく親不孝者もいるという。
俺も美奈子を何度か助けた。しかし、美奈子がいたから俺は頑張れたのだ。美奈子のために喧嘩した。美奈子のために運動会をやった。美奈子は俺と親しいから、美奈子の評判を落とさないためにも、友のために、勉強も頑張った。
俺は、馬鹿だ。
当たり前のはずが無いのに。そこにいつまでもいてくれるなんて思っていた。
テレビで見るようなほろ苦い恋愛を、俺はいつも鼻で笑っていた。
小説に出てくる甘い恋愛も、鼻で笑っていた。
そして、校内での恋愛話を聞くたび、俺には一生無縁だと思っていた。
俺は臆病者だ。何もしないで、いつまでも美奈子がいてくれることを願っていた。何もしたくなかった。それによって隔たれることを恐れていたのだ。
ただそばにいるだけで、そのまま何も変わらないでいてほしかった。
それこそ『好き』なんじゃないか。俺は勘違いをしていた。自分の気持ちに気づこうともしなかった。ずっと一緒にいたい。それこそ、何万回も聞いてきた『好き』どころか『愛してる』の定義だったのではないか。
美奈子は俺のことをどう思っているのだろうか。そんなこと考えてみたこともなかった。
しかし、好きな割にはなんて情けない男なんだ。
運動以外はからっきし駄目の体力馬鹿。すぐに切れて暴力事件を起こす。
俺は何をしてるんだ・・・・・・。
小さい頃からそばにいてくれた。だから自分の中にある感情に気づいても無かった。そして、いてくれることを当たり前に思って何もしなかった。
美奈子は親じゃない。いままではずっとそばにいてくれた。ただ、親とは違って、これからもずっとそばにいたいんだ。
俺は・・・・・・。
それから三日が経つ。俺は毎日、美奈子としゃべらずにいた。美奈子も俺を避けているようだった。俺達はもう一緒に帰らず、話すこともなかった。俺は自分の中で芽生えた感情を伝えることもなく日々をすごして行った。息苦しかった。
朝、学校に行くと、山門校長先生がインターホンに出る。相変わらず古いスピーカーから、聞きなれた声が雑音とともに聞こえてくる。
「今しがた、やっと期末テストのランキングが終了しました。手で入力しているので時間が掛かったんですね。今から各学年のトップ、そして総合賞を発表します」
俺は、すぐに俺とは関係ない世界だな、と思って聞いてるフリをして寝始めようとした。
「一年生の順位です。男子では、一位、大平山元、二位、新橋誠、三位、立花信夫です。女子は、一位、柏葉春子、二位、吉崎詩織、三位、小川美知子です」
一番上の階で、歓声とともに誰かがこれを機に、と柏葉春子に大声でプロポーズしているのが聞こえた。その後聞こえた絶望の悲鳴から察すると、あっけなくふられたのだろう。
山門先生は続けた。
「二年生の順位です。男子では、一位、山伏隆信、二位、平尾誠一郎、三位、金平進一。女子は、一位、曽根浜子、二位、青崎美緒、そして三位、五十嵐理沙です」
すぐ上の階で、お互いを褒めるような言葉と、あと順位に届かなかったがり勉達の悲しそうな声が聞こえた。
「三年生の順位です。男子では、一位、柏葉光」
このとき、学校中の女子の歓声が聞こえた。耳が痛くなるほどであった。
「二位、石田三千夫、三位、油井克彦でした」
他の男子には歓声どころか祝う言葉さえおくられなかった。なんだか柏葉の人気が罪に思えてきた。まあ、柏葉本人はお気楽だから罪悪感に苛まれることもないだろう。
「女子の順位です」
クラス中の女子が身構えた。このときのために何日もハードな勉強を続けた女子も多いのだろう。
「一位、黒木佐和子」
全員の目が黒木に行った。
柏葉が軽く言った。
「よっ、さっすが佐和子ちゃん! 今回もお見事!」
クラスの女子は悔しそうであった。黒木は大人びいているため、柏葉にも無関心でこの褒め言葉も軽く受け止めたが、ああいう風に下の名前で呼ばれたい女子はたくさんいるのだろう。
「二位、瀬戸美奈子」
俺は瀬戸の方をチラッと見たが、あっちもこっちをちらっと見たようで、お互い目をそらした。
柏葉は言った。
「う〜ん、ここまではいつもの不動の二人だね。さて、三位はいつも違う人がいるから、誰になるか・・・・・・」
柏葉ファンは、見えないが他のクラスでも多分三位が自分でありますようにと祈っているのだろう。
スピーカーから山門先生の声が響いた。
「三位、綾野鈴!」
綾野は信じられないほど驚いた。
柏葉はすぐ隣に座っていたので、綾野の肩に手を置いた。
「すごいじゃん、綾っち! すごいね〜!」
綾野は照れたように下を向いた。
俺はその他柏葉ファンの目にものすごい羨望と殺気が宿ったのを感じた。そりゃそうだろう、柏葉も軽く女子の肩に手も置けないなんて大変な奴だ。まあ、その他の男子だったら『セクハラよ!』とか言われて殴られているだろうが。ちなみに、綾っちなんてあだ名がいつついたのか分からなかった。
山門先生は三年一組ではこんなドラマが展開しているのも知らず、淡々と続けた。
「それでは、総合を発表します」
一瞬、クラスのおしゃべりが止まった。そりゃそうだろう、総合賞の受賞者には商品があるのだから。
「男子では、9教科900点中899点で、柏葉光が優秀賞を受賞です!」
みんなはうなずいた。まあ、それは妥当だろうな、という感じだった。男子は少しだけ悔しがっていたようだけど、そんな点数には届かないことも分かっていたらしい。
「女子では、9教科900点中890点で、黒木佐和子が優秀賞を受賞です!」
他の学年の一位受賞者の女子がものすごい勢いで落ち込んでいるのが感じられた。
そして校内のほとんどの生徒が終わった、また来学期があるさ、という雰囲気だった。
山門校長先生は、ちょっと間を空けた。
「それでは、今年は『幻の特別賞』が授与されることになったので、それを発表します!」
校内の誰もがざわめいた。『幻の特別賞』とは、とある生徒の前回の学期の当初の頃の成績から著しい成長を見せた場合、授与される賞だ。ちなみに、幻と呼ばれているのは、かつては幻だったからだ。今では校長先生が資金余っていて毎年授与しているのでちっとも幻じゃないが。
賞を取れなかった誰もが期待した。自分こそがこの幻の特別賞をとったスーパーな人間なんじゃないかと。
「特別賞受賞は・・・・・・漆山京介君です!」
「ええええええええええぇぇええぇぇええぇぇえええぇぇえええええ!?!?!?!?!?」
誰もがものすごい驚きを隠せなかった。俺も驚いていた。机から飛び出すほど驚いていた。クラス中の男子も女子も、『あり得ない!!!』というような感じで、目を皿のように巨大にして俺を見ていた。俺も開いたままの口が閉じられなかった。誰もが驚きを隠しえなかった。
山門先生は続けた。
「漆山君は、去年の三学期、全校生徒五百人中、五百人目の最下位で、9教科900点中、91点でした」
校内にどっと笑いが巻き起こった。
俺は思った。校長先生・・・・・・俺の過去の恥さらしをしないでくれ・・・・・・。
「しかし、今回は900点中750点と、一気にトップ百に入る勢いでした。よくがんばりましたね」
俺は自分を信じられなかった。俺もやれば出来るのか、だとしたら高校受験もがんばりさえすれば・・・・・・。
俺はハッとした。いや、もういいんだ、どこの高校に行くかなんて。俺には関係ない。どうせ俺と親しい奴らは優秀だからどんどん高いところへと登っていく。柏葉だってどの高校もほうっておかない。黒木だって綾野だって、野球部主将の水戸だって、あの勉強会に参加した奴らはどんどん先に行くんだ。逆に考えれば俺は精一杯、あんなに頑張ってもトップ百で止まってしまう。
山門校長先生は、スピーカー通しで言った。
「なお、特別賞を含むこの三人には、『西久留米市立南部中学校教員旅行』への招待状が贈られます。教員の旅行にもう一人招待してついてくることが出来ます」
さ、さすがケチな山門校長先生、教員旅行のついでに旅行をプレゼントするとは。団体割引で更に引いてもらおうという考えだな・・・・・・。
とにかく、俺ははっとした。もう一人招待できるのか? そんなの、誰を招待すればいいんだ? 俺はまた情けなく美奈子のほうをちらっと見た。でも、美奈子は黒木に誘われるだろうし。俺は迷った。頭の中を考えがぐるぐる巡った。そんなことをしてるうちに一日が過ぎた。
配られた招待券は、二人用であった。なお、転売などは出来ないとのことや、いろいろ書いてあった。
俺は寺の縁側に座りながら考えていた。
すると、親父がやってきた。
「聞いたぞ、京介。教員旅行に招待されたんだって? 俺は嬉しいぞ、京介がそんな賞を取れるようになったなんて。頭は俺に似てからっきし駄目だと思ってたからな。どうやら母ちゃんに似て頭はいいらしい」
俺はため息をついた。
親父は続けた。
「それで、誰を招待するんだ? 瀬戸の所のお嬢ちゃん、美奈子ちゃんか?」
俺は縁側からズルッとこけて落ちた。ズボンが砂だらけになった。
「何でいつもそう安直にいうんだよ、親父は!?」
親父は急にカッコつけてハードボイルドに見せかけ、低い声で言った。
「京介・・・・・・それは、お前と美奈子ちゃんを見てると、俺と母ちゃんの若い頃にそっくりだからだ」
俺は思った。なるほど、俺の恋愛下手はこのバカ親父の遺伝か。
親父はそのはげ頭を怪しく光らせ、将棋盤と駒を取り出した。
「さて・・・・・・京介・・・・・・しんみりした話はここまでにして、一局やろうじゃないか。名誉挽回してやる」
いつ名誉などあったのかわからなかった。俺は断った。
「いいよ、そんな気分じゃないし・・・・・・」
親父はキョトンとした。
「京介・・・・・・お前まさかふられたか?」
俺はまさか親父に見透かされるとは思わなかった。いや、あれはふられたんじゃない、と言ってもどう見たって俺がふられたのだろう。
俺が親父に言い返そうとすると、門から柏葉兄妹が入ってきた。
「おい、京介、ちょっと話がある・・・・・・ちょっと来てくれないか?」
そういって柏葉兄妹が俺を連れてきたのは、またあの坂である。俺はちょっと思い出して泣きそうになった。
「何なんだ? 話って」
と、俺は声だけでも正常に戻して言った。
柏葉は言った。
「いや、別にたいした問題じゃないんだけど、春子がちょっと・・・・・・」
春子ちゃんは俺を見た。
「春子もみんなと一緒に教員旅行に行きたいの! お願い京兄、連れてって!」
俺はびっくりした。びっくりしたついでに坂から足を滑らせて転んで坂の下まで落ちかけた。
「うおおおおおおおおお!」
幸い、俺は坂に生えていた丈夫な草につかまって止まった。
俺は言った。
「連れてくったって、そんなの、柏葉、お前が連れていきゃいいじゃねーか!」
柏葉はちょっと俺に寄って小声で言った。
「いやいや、それがちょっとね、じゃお前他に誘うあてあるのか?」
俺は美奈子のことを考えたが、首を振った。
「いや、いない」
柏葉は言った。
「なら話は早い! 俺は別の人を誘って、上手くやるからさ! お前はとりあえず俺の妹を連れて行くってことにしとけよ、な!」
「いやでも・・・・・・」
と、俺が言い始めると、柏葉妹が言った。
「お願い、京兄、春子も旅行を楽しみたいの! お兄ちゃんと一緒に旅行したいの! うちは貧乏だから旅行なんてめったにいけないし・・・・・・お兄ちゃんはもう高校行っちゃうし!」
柏葉は呆れて言った。
「いや、春子、お前そんなに俺のために行きたいんじゃなくて、単にあの勉強会のメンバーで楽しみたいだけだろ」
春子ちゃんは、バレた! というような顔をした。そして、またあの柏葉家特有の素敵笑顔をした。
「ね〜、お願い!」
ぐわっ! デビルスマイル! 普通の男子生徒ならイチコロだったろうが、俺は幸い何年も横で柏葉兄のデビルスマイルが女子のハートを射抜くところを見て来た免疫がある。しかし、断るわけにもいかない笑顔だ。柏葉家は結婚詐欺師でも充分稼げるだろう。
俺は長い沈黙のあと、やっと答えた。
「わーったよ、柏葉・・・・・・」
柏葉は、明らかに喜んだ。
「よし! サンキューな、京介! これで面白いことになるぞ!」
俺は何が面白くなるのかわからなかったが、とりあえず二人を見送った。
寺に帰ると、親父が将棋版のそばでいびきかいて寝ていた。全くお気楽な親父だ。
毎日はどたばたしていて、あっという間に時は過ぎた。少年老い易く学成り難しとはよくいったものだ。俺は結局試験ではいい成績をとったものの、一学期全体から見ればあまり学ばなかったような気がする。絵の手伝いもあり、それ以前に結構無気力だったので、あまり学ばなかった。
終業式が来た。一学期も、思い起こせばいろんなことがあった。しかし、俺は今は自分に何が出来るかを考えていた。美奈子とは一緒にいられない。想いも伝えてない。俺はどうすればいいのだ?
いつものように終業式は体育館で行われた。もう今頃になると、柏葉に無闇に喧嘩をふっかける奴もいなくなってきた。そりゃそうだろう。柏葉に勝てるのは俺だけだ。しかも俺でさえ苦労するだろう。
「今から、終業式を始めます」
どう考えたって、それをいちいち告げる必要性はどこにもない。誰だってわかっているんだ。わざわざみんな体育館に集められたのは終業式のためで、今からそれが始まるということは。
俺は考えた。一学期にどんなことがあったか。どんなことをしたか。どんなときをすごしたか。痒い言い方をすれば、どんな想い出を重ねたか。
俺は、なんとなく自分に怒りを感じた。もう、俺と俺の友達がぜったい一緒にいられる、最後の年なんだ。来年の春には、もう誰もがそれぞれの道へと進む。この一年は貴重なのだ。それがもう三分の一もたいしたことがなく進んでしまった。こんなことを言うガラでもないが、物足りなかった。もっと楽しい想い出を作りたかった。何故だろう、一年生や二年生の時は全くそんなことを考えもしなかったのに、三年生になったとたんそういう湿っぽいことを考えてしまう。これが卒業を控えるということか。実感がわくに連れて辛くなる。あまりよくない気持ちだ。
「・・・これで終業式を終わります」
と、生徒会長がまじめに告げた。俺はいつ終業式が行われたのかわからなかったが、別に気にもならなかった。
ついに夏休みが始まったのだ! 夏休みを迎えた久留米は、下級生にとっては遊びの場であり、恋の場でもある。秋にはもう受験勉強を始める俺達三年生にとっては、最後の中学生活の夏休みである。
ありふれた儀式のありふれた終了の号令とともに、夏休みの幕は開けられた。




