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第一話 四月

この物語はフィクションです(当たり前だ)。

 春であった。桜は入学式を過ぎ、少しずつだが葉桜になりかけている。長い春休みを終え、俺が通う西久留米市立南部中学校も、だんだんと活気付いてくる。校庭を縁取るように並ぶ木々も、春の暖かさに歓喜しているようであった。

 そんなさなか、俺は自分の部屋でゆっくりと起きた。窓の外を見ると、まだ少し早いぐらいの時間であった。今日は学校の初日。遅刻だけはしちゃいけない。俺は自分の部屋の布団を片付け、居間へとつながる長い長い廊下を歩いた。

 俺の家は寺だ。俺の親父は住職。それでこの近所には迷惑だが俺も知れ渡ってる。お袋は俺が小さい頃病気にかかってもういない。だから、いつも炊事は寺に住み込みで修行をしている坊さんがやっているのだ。朝ごはんとかも、坊さんたちがついでに作ってる。

 居間に着くと、親父がいつものように頭を光らせ、俺を睨んで味噌汁片手に低い声で言った。

「京介・・・・・・お前、遅刻なんぞしたらどうなるかわかっているんだろうな」

 俺は、別に俺が何時に起きようが文句を言われることはわかっているので、適当に流した。

「わーったよ、遅刻なんかしないから」

「特にお前・・・・・・去年は喧嘩がひどかったな。あまりこの漆山家に泥を塗るようなことをしたら、地方の寺に出家させるからな」

 俺は思った。ここ久留米だって充分地方だと思うのだが。いくら九州第八の都市であっても。

俺は朝ごはんを食べ終え、部屋からかばんを取った。そして、制服に着替えた。何のことない、変哲のない制服だ。白い襟シャツに黒いズボン。俺は玄関に行き、靴を履き、勢いよく外に飛び出した。

 すると、俺の後ろから親父が叫んで叱った。

「京介! 挨拶はちゃんとしろといつも言っているだろうが!」

 俺は振り返って叫んだ。

「わかりました! 行ってきます!」

 俺は毎日をいつもこんな風にはじめている。俺の名前は漆山京介。九月三日生まれ。身長は百六十八センチ。体重、五十五キロ。喧嘩は高校生にだって余裕で勝てる、やんちゃで不良な寺の住職の一人息子、という風に知られている。学校では、体育はいつも『5』だが他の教科は普通以下だ。特に美術や音楽、そして数学などはチンプンカンプン。昔からこのあたりに住んでいる。

 寺の門を出ると、門の外には見慣れた女子がいた。

「また叱られてたね、京くん」

 この女子は、瀬戸美奈子。俺の幼馴染だ。三月二十日生まれ。身長は百五十センチ。体重は、ばらしたら俺の命はないだろう。目はくりっとしていて、長めの黒い髪は頭の左右で結んである。ツインテールだ。基本的に人を信じて疑わない性格。頭はよく、美術や音楽でもいつも高得点をとっている。しかし、親が芸術に無関心なので才能を伸ばす努力はしていないようだ。親は紡績工場の工場長である。その反面、運動は得意じゃない、俺と正反対の人間とも言えるだろう。それにしても、この歳にもなって『京くん』はやめてほしい。

 美奈子は昔から知っている。他の人から見れば割と可愛く、また運動音痴なので、よくからかわれたり、狙われたり、いじめられたりしていた。俺はそういうのを許せない質なんで、よく割って入って喧嘩してたりしてた。その所為で喧嘩が強くなったのかもしれない。考えてみれば、俺の喧嘩はほとんど美奈子がらみかもしれない。美奈子もそれに対して恩を感じているのか、学校でも俺の立場が悪くなるとかばってくれたり、俺が生徒会長にいびられたりしてると助けてくれたりしてる。ありがたい奴だ。しかも、小さい頃から知ってるからいろんな約束をしてしまった。まあ、ほとんどが時効だがな。お嫁さんになるだとか、ずっと一緒にいたいだとか。高校生にもなりゃ変わるだろ。同じ高校に行こうね、というものがあった。すこし前のことだ。

 俺たち二人は通学路を歩いた。俺は少し周りの目を気遣い、歩幅を少しずらしながら歩いた。仲良しではあるが冷やかされるのはごめんだ。 

 生徒たちが通う通学路は、小川が組み合わさって大河になるように、やがて一つの大きな通学路になった。生徒たちの数も格段に増えた。そして、校門が見えてきた。

「ん? なんだあれは?」

と、俺は校門の前の人だかりを見て言った。

 校門では先生たちも門の前に並んでいるが、誰も校舎おろか校庭にさえ入っていない。よく見ると門が固く閉まってる。それで生徒たちがたくさん校門の前に集まっていたのだ。俺と同学年の三年生の奴らは特におどおどしてキョロキョロしていた。今まで二年生だった奴らが、急に下級生を、学校を引っ張っていかないといけない立場の三年生になったんだからな。もっとも、俺は三年生だが、そんな引っ張るとか面倒くさいことはしないがな。

 美奈子は俺を見て言った。

「京くんも、やっぱ三年生になるんでどきどきする?」

 他の人なら、俺は「ハァ?」と睨み、聞き返すところだが、何せ美奈子だ。恩があるのにそんな無礼なまねはできない。

「いや、別に・・・・・・」

 美奈子は続けた。

「中学校が終わったら高校だね。京くんはどこの高校を受験するの?」

 俺は驚いた。

「お前、まだあのこと覚えていたのか!」

 美奈子は言った。

「当たり前でしょ。京くんはどの高校を受験するの?」

 まあ、確かに俺にとっちゃあの親父で高校を受験しなかったら親父に理由つけられて出家させられるのがオチだろう。偏差値も下がっていて高校は選べるどころではなかった。言ったように、俺は勉強は不得意だ。

 急に、人ごみの中から手が伸びて、俺の肩を軽く叩いた。

 振り向くと、そこには柏葉がいた。

 柏葉光。七月七日生まれで、身長百六十七センチ。名実とともに、この学校で一番もてるやつだ。すらっとした体型で、目はぱっちりしていて、眉毛もくっきりしている。髪の毛は自然と茶色がかかってる。紳士的な性格。また、頭はよく、運動もこのあたりじゃ俺に次ぐ運動神経を持っている。しかし、家事が忙しいため部活には所属していない。二人の妹がいて、親は二人とも工場で遅くまで働いているため、基本的な家事は全部柏葉がやっているらしい。優しく、よく気づき、気さくでよく話す。いつも社交的で乗り気。それであって努力家で礼儀正しいのだから、もう弱点なしだ。ほぼ完全無欠である。

 ちなみに柏葉は、バレンタインデーの度にチョコレート地獄に困っている。机の中も下駄箱の中にもチョコがぎっしり詰まっていて、登下校中にもたくさんもらう。いつもあんなにたくさんのチョコレートをどうやって処分しているのだろう、と思ってしまう。

 そんな柏葉は、俺の良き友であり、良き相談相手でもある。幼馴染で、昔からずっと遊んでいた。多分美奈子と出会う前よりももっと遊んでいただろう。

 柏葉が俺に話しかけ始めると、急に柏葉の背後にデブが現れた。そのデブは柏葉にこう叫びながら殴りかかった。

「柏葉ぁ! よくもよくもよくもよくも!」

 俺は思い出した。ああ、こいつは瀧澤寛一だ。二年生なのに先輩を先輩呼ばわりしないという図々しい奴。野球部に所属しているデブだ。こいつは去年、一年生だった頃、春休みの直前に告白し、そしてふられた。それだけならいいのだが、ふられた理由が、その女の子は熱烈な柏葉ファンだったから、というのだ。まあ、柏葉のファンに告白するほうがおかしいが。そのため瀧澤は柏葉に対して恨みを持ち始め、春休みの間も家を訪ねたりして決闘を申し込んでいたが、柏葉は強いため、一度も勝てなかったらしい。そりゃそうだ。あんなデブの拳が、軽快で俊敏な柏葉に当たるはずもない。

 案の定、デブは何度も殴りかかったが、一分間ぐらいやっていて、一度もパンチを当てられずに力尽きて倒れた。柏葉は無駄な戦闘はしない主義なので、攻撃も数センチ動くだけでかわせるような見切り方をして、一度も反撃はしなかった。

 瀧澤が倒れると、周りから歓声が巻き起こった。

「きゃー柏葉く〜ん!」

「素敵〜!」

 柏葉は黄色い声には慣れているので、別になんともしないで俺に話しかけた。

「京介! ついに俺らも三年生だな! 何か、今年の目標とか立てたか?」

 俺は眉をしかめた。

「目標ってなんだ? そんなの立ててなんになるんだ?」

「いや、生活にメリハリがでるからさ」

「・・・・・・別に思いつかないが」

 柏葉は俺を近くに引き寄せて、小声で言った。

「京介、お前そろそろ瀬戸ちゃんに告白したりしないのか?」

 俺は驚いてつい大声になった。

「ば、馬鹿言え! 何で俺がそんなことを!」

 柏葉はつまらなそうに言った。

「ならいいんだけど。お前顔赤くなってるぞ?」

「ば、バカやろう! 急な質問で驚いただけだ!」

「でも、もしかしたらとられるかもしれないぞ? 瀬戸ちゃんは割と可愛いし、少数ながら学校内にも彼女のファンはいるらしいし」

「馬鹿言え、俺は恩義は感じちゃいても・・・・・・恋焦がれちゃいない」

 前にもこういうことは考えたことがある。幼馴染で、ずっとお互いの人生に付き合ってるから、はたから見れば仲良しカップルならしい。だが、俺はもう決めたのだ。美奈子は俺の幼馴染であって、恋人ではない。

 柏葉が向こうに歩いて行くと、無数の柏葉ファンが人だかりをこじ開けた。まるで海を割るモーゼのように、柏葉が通る道は熱烈な柏葉ファンによってこじあけられた。そろそろ柏葉の人気は超人的になってきたと俺は感じた。

 すると、今度は美奈子の友達がやってきた。軽くウェーブのかかった長く美しい黒髪は、学校内でも注目を集める。彼女は黒木佐和子。過去二年間での印象は、大人っぽい、落ち着いてる、とても頭がいい、そして面倒見がいい、という印象だった。女子の中でもわかりづらい。謎に包まれている。美奈子によると、父は林業の会社を構えていて、弟と妹を持つらしい。

 黒木は俺の方を見て、言った。

「アンタ、今年の六月六日の運動会はちゃんと運動会に出るんでしょうね」

 そうだった。俺は去年、サボりたかった一心で、運動会を直前で抜け出してしまったのだ。俺を頼りにしていた赤組の奴らは絶望した(何せ反対側の白組には柏葉がいたから)。赤組はかつてないほど、こてんぱんにやられてしまったのだ。

 俺は面倒くさそうに答えた。

「さあね・・・・・・気が乗れば出るけど・・・・・・」

 美奈子はこれを聞いて、俺の目をじっと見た。

「京くん、六月の一番大事なイベントなんだから、ちゃんと出ないと! 京くんは頼りにされてるんだから!」

 俺は黙り込んだ。

 黒木は、俺が返事しないのを見て、美奈子と会話を始めた。それはもうきゃぴきゃぴした会話で、その女子の世界にはとても入れなかった。

「もう堪忍袋の尾が切れた!」

と、先生の誰かが言った。よく見ると、体育担当の桂谷であった。桂谷はさすが体育の教師だけある、というような超人的なジャンプ力で高い高い塀を飛び越し、内側から門を開けた。そして、生徒はみな、校庭の中へとなだれ込んだ。しかし、校舎はまだ開かない。鍵はなぜか校長先生は持っておらず、校長先生は先ほど鍵を持っている先生を迎えにいった。

 突然、校門の前に高級車が止まった。みんながなんだろう、とざわめいていると、ドアが開いて、中から二人の男が出てきた。一人はおばさんのような顔をした白髪の背の高い男性だ。銀縁の細いめがねをしていて、きつそうな性格をしていた。校長の山門先生だ。

 もう一人の男は、背は小さめの、色あせた和服を着た老人だった。反対側が見えないほど分厚いめがねをし、長い白髪は前で分け、後ろでポニーテールになっていた。なんともおかしな格好の先生だろう。この先生は草野先生だ。先生の中では最年長であり、学校創立以来から教えているという噂まで流れている。

 桂谷先生とその他の先生は聞いた。

「草野先生! 何でこんなに遅れてしまったんですか? 授業が大幅に遅れてしまいましたよ!」

 草野先生はふぉっふぉっふぉっふぉと笑い、答えた。

「いやいや、寝坊してしまってね」

 先生たちはずっこけた。

 草野先生は和服の中から鍵を取り出した。それを校長先生はもって校舎の入り口まで走り、入り口を開けた。生徒は一気に流れ込んだ。

 生徒が流れ込む中、校長先生は叫んでいた。

「ホームルームに荷物を置いたら、すぐに体育館に来るように! 始業式をやります!」

 生徒たちは、聞こえてるようで聞こえていないようだった。

 俺の新しい教室は三年一組だ。三年生は一階、二年生は二階、そして一年生は三階の教室だ。このクラスは俺が知ってる奴らばかりだった。誰かの陰謀ではないかと思った。美奈子も柏葉もいた。ちなみに、柏葉と同じクラスだと知ったとたん、幸せのあまり気絶しそうな女子もいた。それを見て隣の教室でハンカチを噛んでいるジェラシー百パーの女子の群れがいた。ちなみに、去年は柏葉のクラスに異様に女子が少なかったため、よく他のクラスから女子生徒が授業を無視してやってきてたので、今年は柏葉のクラスに女子を出来るだけ入れたそうだ。こっちの方が失敗なんじゃないかと俺は思った。

 俺の教室は階段のそばにあるので、階段をひいふう急ぎながら言いながら上る下級生たちを俺は見ていた。

 美奈子が後ろから話しかけた。

「人が苦労してるのにニヤニヤしてみてると、感じ悪い先輩になっちゃうよ?」

 俺は別にニヤニヤしているつもりは無かったが、していたのかもしれない。

 更に柏葉も来た。

「よっ、お二人さん、早く体育館に行かないとどやされるぜ!」

 俺たちはみんな、体育館に行った。

「全員、起立!」

と、影が薄い教頭先生が古いマイクで号令をかけた。

 体育館に集まった全校生徒がだるそうに立ち上がった。

「全員、小さく前にならえーっ!」

 全員が脇をしめ、手を前に出して距離を調整した。

「気をつけーっ、礼!」

 全員が礼をした。

「着席!」

 全員が座った。古いマイクを使い、いつもと同じ先生たちがいつもと同じ言葉を並べ、始業式は進んでいった。

 途中で、背が同じぐらいなので横にいた柏葉が、また告白に失敗した誰かの決闘を受けた。その男子は柏葉に殴りかかっていたが、例によって柏葉は戦わずして勝利し、その男子生徒は疲れ果てて倒れた。

 そんな中でも平気で始業式を続けた先生たちや生徒たちは、いくらなんでもなれすぎだと思った。今年入った新入生以外はさすがに驚いていたが、その他の生徒や先生はみんななんともせずに淡々と始業式を続けた。

「これで、始業式を終わります・・・・・・」

と、教頭先生が言うと、俺たち生徒はみんな立ち上がって、号令をもう一度繰り返した。そして、時間がかかったのでそのまま給食の時間に突入し、生徒たちはばらばらとそれぞれの給食へと散った。


 ちなみに、ホームルームで班や席を決まるにあたって、激しい争奪戦となった。争奪の対象となったのは、柏葉と同じ班の席であった。だが先生は柏葉の班だけほとんど女子にするわけにもいかず、柏葉率いる生活班は柏葉、俺、綾野、細川、安浦、そして森屋だった。俺が柏葉と同じ班に入れられたのは、柏葉の希望だ。先生が他に男子一人生活班に一緒に入るとしたら誰がいいかと聞いたので、柏葉は一番仲がいい俺を選んだのだ。俺と柏葉以外の四人は女子であった。

 生活班は、教室の一番後ろの班だった。前の方に座ると女子がほぼ全員、柏葉の後頭部を見るだけで充実した一日を過ごすからだ。その女子たちは嫌われまいと家で必死に勉強して何とか成績をキープするだけに、もったいない。能力はあるのに、柏葉の魅力に囚われてぼーっとしてしまうのだ。先生たちもこのことは、二年前、柏葉が一年生だったときから気づき、その対処法を心得ている。成績がトップの女子に、柏葉のサイン入り写真ブロマイドがプレゼントされるという手法が編み出された。毎回違うのを配るため、試験時の女子の気迫と言ったらもうすごかった。女子の間ではコレクターも出始めて、インターネット上では全国の女子相手に高値で取引されるらしい。柏葉はもはや一般人ではない。

 しかし、この生活班は息苦しかった。四六時中、女子同士の、柏葉をかけた心理戦が行われていた。にらみ合い、脅し、嫌がらせ、全てが柏葉の見ていない一瞬一瞬で行われていた。そして、もちろん柏葉が見ているときは、女子は猫をかぶって『素晴らしい女性』を演出していた。

 ただ一人、マシだったのが、綾野であった。綾野は間違いなく、誰が見たってわかるほどわかり易く柏葉にべた惚れだった。しかし、それを認めるのに苦労していた。素直じゃない性格だ。そのせいで柏葉に冷たくして、後で後悔している。他の女子はこんなにも素直にストレートに柏葉にアタックしている中、珍しいといえば珍しいタイプの女子だ。

 まあ、他の班でもほとんどの女子の目線は柏葉に行っているがな。俺がもし柏葉だったらいやだと思う。学校に行けば女子の憧れのまなざしと、男子からの羨望・嫉妬の視線を常に感じるなんて。柏葉は慣れているのか、それか意外と鈍感なのかもしれない。

 事件はそのとき起きた。給食を作る人たちは、今日は休みであったので、みんなに弁当を持ってくるように布令を出していたみんなの弁当はさまざまであった。家をあらわしているような気もする。俺の弁当は健康食だった。玄米に無農薬野菜に油を使わず・・・・・・寺の食事であるがゆえに、みんなの派手なものとは違った。

 みんなが弁当をわいわい食べていると、急に柏葉が俺に小声で言った。

「あちゃ〜、弁当忘れちゃったよ。ちょっと京介わけてくれないか?」

 俺は別にいいぞと言った。俺はあまり動くほうでもない。腹もあまりすかないのだ。

 柏葉のその声は、間違いなく小声だった。なのに、クラス中の女子が反応したのは何故だろう。突然クラスのほとんどの女子が立ち上がり、弁当片手に生活班へと駆け寄った。

「柏葉君、私の弁当食べて!」

「柏葉君、あたしの弁当全部あげる!」

「おさがりなさい! 私の弁当なんか、ほら! こんなに豪華なのよ! 柏葉君食べて!」

 もう女子の目には柏葉しか映っていなかった。

 そのときだった。教室のドアが開き、一人の女子が入ってきた。

 その女子はそれはもう可愛いかった。目はぱっちりとしていて、髪の毛には茶色がかかっており、眉毛はくっきりしていて、唇は潤いを見せていた。まだ新しい制服を着ていた。ほぼ全員の男子の口があんぐり開き、そのうちほとんどが恋に落ちた。

 俺は思った。待てよ、この特徴・・・・・・どっかで・・・・・・。

 しかし、その女子は柏葉の机に行き、手に持っていた弁当をさっと出した。

「ハイ! お弁当、春子せっかく作ってあげたのに、忘れちゃだめだよ!」

 その言葉が言われると、さっきまで柏葉に弁当をささげていた女子の動きが止まった。彼女らの眼に殺気が宿った。

 その突然現れた美少女は、殺気にひるんだ。そりゃひるむだろう。

 一人の女子が泣き崩れた。

 別の女子が、柏葉君に泣きそうな声で問いかけた。

「柏葉君! この女は何なの!? 誰なの!?」

 昼ドラじゃあるまいし。

 柏葉は落ち着いて答えた。

「え? 誰って・・・・・・妹だけど。一年生の」

 妹だけど。その言葉を聞き、クラスの誰もが、先生を含め、柏葉を見て、柏葉妹を見て、ああ、なるほど、といった感じで納得してうなずいた。

 俺は途中から気づいたが、そう、この子は柏葉春子。柏葉の妹の上のほうだ。よく俺と柏葉の遊びにくっついてきて遊んでいたから、けっこう女子にしちゃあたくましい。それにしても、この魅力は・・・・・・兄譲りか? それとも柏葉家の特徴なのか? 

 男子が十人ぐらい席を立ち、じりじりと春子ちゃんに迫った。

「ぼ、ぼ、ぼ、僕と付き合ってください!」

と、一人の男子が言った。

「何、ふざけんな! お前は黙ってろ! 柏葉さん、どうかこの俺と付き合ってください・・・・・・」

 しかも全員運動部の硬派のエースときたもんだ。何故こんなにたくさんの人を一目ぼれさせるのだろうか。そういえば柏葉兄もこの中学への入学式で当時の上級生の女性のハートをほとんど射止めていたが。

 春子ちゃんはびっくりしておどおどしていた。それはそうだろう、いきなりあの数のむさくるしい坊主頭に迫られちゃ。

 柏葉は立ち上がり、坊主頭の中を割って入って、春子ちゃんをクラスの外へと連れ出した。その際、俺はドアを抑えていた。

 柏葉はため息をついて言った。

「春子・・・・・・お前無駄に学校をうろちょろしたら、また小学校の時みたいにファンクラブを作られるぞ? ストーカーにだってつけられるぞ?」

 春子ちゃんは言った。

「それならも〜、春子のいる一年一組だけじゃなくて、一年生のクラス全部にファンクラブできちゃったし、春子ストーカーなんかやっつけられるもん」

そういって春子ちゃんは空手らしき武術の素振りをした。そして、今日の買い物とかちょっと話して、自分のクラスに戻っていった。

 柏葉の話によると、妹は小学校では絶大な人気を誇っていたらしい。また、料理だけは春子ちゃんが担当で上手なんだと。

 それを盗み聞きした奴が噂を流し、学年中の多数の男子がでも「萌え〜」などとつぶやきながら『春子ファンクラブ』を始め、一年生のものと合併してしまった。なんと恐ろしき、柏葉家。


 その日の放課後、俺は、熱心な運動部の勧誘を断ると、さっさと下校した。その際、美奈子も一緒だった。俺は相変わらず歩幅をずらして歩く。

 美奈子は言う。

「すごかったね〜、今日の給食時間・・・・・・」

「・・・・・・ん、まあ・・・・・・あの女子の殺気は怖かった」

「やっぱりカッコいい家族なのかなぁ」

「う〜ん、以前柏葉の親に会ったときは別にそんなに美形でもなかったんだけど・・・・・・むしろ胴長短足で不細工なほうだったぞ」

「へぇ〜、遺伝子の神秘だねぇ」

「・・・・・・確かに」

「あ、そうだ、一週間後は体力測定なんだって」

「何? もうやるのか!?」

「うん、面倒くさいものは早く済ませておきたいって言ってた。京くんならすごい記録バンバン出せるよ」

「え、そうか?」

俺はちょっと照れくさかった。やっぱり美奈子に褒められると嬉しい。それにしても京くんはやめてほしい。



 一週間後。もう四月の中旬だ。

 美奈子の言ったとおりに、体力測定があった。放課後の時間にだ。スポーツテストっていう名称だったが、内容は普通の体力測定だ。英語にすればカッコいいとでも思っているのか? ちなみに、午前中にやった健康診断では、健康状態『異常に優良』だと出た。異常って何だ? うちの学校で健康状態不良の人は出なかったらしい。一年中、恋におぼれてる奴らだ、体力がないはずがない。

 体育館の中にはたくさんの人が集まっていた。俺は精神を集中した。よし、一応言われたんだし、体力測定も頑張ってみるか・・・・・・。

「反復横とび、四十五回!」

「走り幅跳び、三メートル!」

「五十メートル走、六.三秒!」

 体育館内の誰もがざわめいた。

「誰だ? さっきからあのものすごい記録を出し続けてる人・・・・・・」

「知らないの? 三年の漆山先輩よ!」

こういう声が聞こえて、俺は少々いい気になった。

 体育館の反対側から美奈子が走ってきた。

「すごいね、京くん! やっぱりやればすごいじゃない!」

 こんな注目を浴びてる最中に京くんと呼ぶのはやめてほしいが、俺は我慢した。そして、褒められたのでまたいい気になった。俺は嬉しくてへへへっと笑ってしまった。

「百メートル走、十一秒!」

「砲丸投げ、四十五メートル!」

「腕立て伏せ、分間七十回!」

 更にすごい記録を出した。それに触発され、体育館の反対側で柏葉も結構すごい記録を出した。俺はその後、疲れたので、熱心な運動部の勧誘を断り、教室へと戻った。頑張ればちゃんと成果が出るのか、というのは、俺にとってちょっと新鮮だった。よし、この調子で六月の運動会も頑張ってやるか! 俺はそういう気持ちになった。


 四月下旬。西久留米市立南部中学校では、『芸術鑑賞教室』なるものが近々開かれることになっていた。これは、まあ地域の美術館から芸術品を美術の先生が適当に取り寄せ、それをどう鑑賞するかについて語る教室だ。参加すればその日は学校の授業を受けなくてもいいが、教室そのものも大概はつまらないので、ほとんど参加する生徒はいなかった。

 ある日、柏葉が放課後、校舎の裏に俺を呼び出し、俺に聞いた。

「なあ、芸術鑑賞教室、お前申し込むのか?」

 俺は答えた。

「いや・・・・・・っていうかそういうキャラでもないだろ、俺」

 柏葉は手を合わせて頼んだ。

「頼む! 俺はその一日だけでもいいから、授業を休みたいんだ! 最近ますます男子ににらまれるようになって・・・・・・別に不安じゃないんだが、落ち着かないんだ」

「で? それに俺は関係あるのか?」

「いや・・・・・・だから俺の名前も代わりに申し込んでほしいんだよ。だって、俺が堂々と申し込むって公表したら、どんなことになると思う・・・・・・?」

 俺は考えた。

「まあ、普通に考えれば生徒が殺到し、美術の先生はみんなが芸術に興味をもってくれたんだと勘違いして感激するよな」

「だから、代わりに申し込んでくれよ! なっ、お願いだ!」

 俺は仕方ないなあと言う顔をして、承知した。申し込みは教員室でするらしい。

 俺が教員室に行くと、いきなり先生の一人がひっくり返って椅子から落ちた。みんなで何事かとざわざわすると、体育担当の桂谷先生であった。

 桂谷先生は俺に対して一種の恐怖心をもっている。一度、俺をとっつかまえて座禅でもさせようと思って放課後の校門で待っていたら、俺がナイフ持った高校生三人を素手で倒すところを見てしまったらしい。それ以来ちょっと恐れている。

「芸術鑑賞教室の申し込みを・・・・・・」

と俺が言うと、ひ弱な社会の羽山先生がさっと申込書を持ってきた。

 俺は自分の名前を書き込むフリをして、柏葉の名前を書き込んだ。

「柏・・・葉・・・光、と」

 俺が書き終わると、誰かが俺の肩を後ろから軽く叩いた。振り向くと、そこには美奈子がいた。美奈子は俺の手にある申込書を見た。

「いないから、職員室に行ったって聞いて・・・・・・ってうわっ! 何、芸術鑑賞教室に申し込んだの? 京くんそういうことに興味ないと思ってたのに・・・・・・じゃあ私も申し込もうっと!」

と言って美奈子は俺の手から紙を取った。

「あれ? 何で柏葉君の名前が書いてあるの?」

と、美奈子は聞いた。

 俺は答えた。

「あー、柏葉ならさっき名前を書いたんじゃないかな。俺は今から書こうと思って・・・・・・」

 何しろ代わりに申し込むのは確か違反だ。なぜか違反だ。出席に関わるからな。俺は美奈子の手から用紙を取り、自分の名前を荒っぽく書いた。そして用紙を美奈子に渡した。

 美奈子は自分の名前を書き、用紙を先生に渡した。

「じゃあ、行こう! 京くん!」

 この『京くん』に反応して羽山先生がプッと笑ったが、俺は素早く振り向いて睨んだ。羽山先生はビクッとひるみ、もうしませんという顔をして席に戻った。


 芸術鑑賞教室は数日後、四月の三十日で、俺は暇だった。まあ、それはあらかじめ予測できたことだったのだが。何しろ美術を理科と兼任する草野先生は、熱く語るのだが、明らかに生徒たちの興味をひいていない。しかし、そんなことはお構いなしに先生は語り続ける。ちなみに、教室の中には俺と、美奈子と、柏葉、それになんとなく兄についてきた春子ちゃん、そして偶然芸術に興味があった綾野、その他数人がいた。久留米も平和な一日だったので、書くことがなかった地域新聞の新聞記者たちも数人、この教室を受けていた。ちなみに昨日、綾野は、柏葉が芸術教室を受けると知ったときは、『生きててよかった』みたいな顔を一瞬だけした。もちろん、素直じゃないのですぐに隠したが。俺は窓の外を見た。外はそろそろジメジメした、梅雨の季節が始まる。五月いっぱいは梅雨だろう。六月の俺の活躍の場、運動会に降ったりしなきゃいいのだが。俺はそんなことを考えながら先生の話を聞き流していた。

 すると、草野先生が興味深いことを言った。

「ふぉっふぉっふぉっふぉ。私は普段は美術館などから作品を借りるのだが、次のは違う。この作品は、なんと私の生徒が作ったものだ。とても出来がいいので、よく見ていただきたい」

 そうして、先生は一つの作品を取り出した。教室にいた誰もが息をのんだ。

 その作品は、普通の人が見たら、一瞬にして、間違いなくプロの作品だと言うだろう。芸術に関しては全く無知な俺でも、その作品は素晴らしいものだと分かった。題名は、「天使の誘惑」であった。作品に描かれた世界は、中世のものだろうか。服装も古かった。絵の中には、文字通り、美しい男の天使が舞い降り、町の人々がひれ伏すようにして、また惹かれていた。天使の目はぱっちりして、髪の毛は茶色がかかっていて・・・・・・ってどこかで見たことあるぞ! よく見ると、柏葉によく似ているじゃないか! 柏葉に古い服を着せ、天使の輪を頭の上に乗せ、そして翼をつけたらこの絵の中の天使に瓜二つだろう。誰がこんな上手い絵を・・・・・・。よく見ると後ろには、柏葉に近づこうと喧嘩している女性たちがいる。

 俺は思わずぷっと笑ってしまった。誰がこんなに現実を上手く描写しているんだ?

 先生は、観客が度肝を抜かれているのを見て、草野先生は満足そうに言った。

「ふぉっふぉっふぉ、素晴らしいでしょう。なんとこの作品を描いた不世出の天才画家はこの観客の中にいます!」

 みんなの頭が辺りを見回した。だが、そのような人はいなかったが・・・・・・。 

 先生は言った。

「その画家の名前は・・・・・・瀬戸美奈子!」

と、草野先生は美奈子に指を指していった。

 俺は飛び上がりそうなぐらい驚いた。他のみんなも同じく驚いた。美奈子は別におとなしくて優しい女子としてまあまあ人気はあったが、決して目立つほうではなかった。それが、こんなに見たものを感激させる絵を描ける画家だったとは・・・・・・! この絵を描ける画家なら、間違いなく不世出の天才ではないかと思った。

 俺が何かを言おうとすると、後ろから来た人の大群に吹っ飛ばされ、壁に当たった。

「ぐはっ!」

俺はそのまま振り返りながら倒れこんだ。

 その集団とは、先ほど後ろの方で教室を見ていた記者であった。美奈子は、新聞記者に囲まれていた。それはそうだろう。町内新聞に載せる程度の記事を書くつもりだった記者が、こんな傑作に遭遇してしまったんだからな。美奈子が絵を描くのは知っていたが、まさかこんなにすごいとは・・・・・・。

 草野先生は満足そうにふぉっふぉっふぉっふぉと優しく笑っていた。


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