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機甲文学あるいは結実なき実験

作者: 錫 蒔隆

(本文は、拙論文『つき一磨かずまについての考察』に加筆修正したものである)


 月一磨はシュルレアリスムの騎士シュヴァリエである。詩人として文学のありかたに疑問を投げつづけ、つねに異端でありつづけた。

 『喪失学概論』は確認される彼の著作のうちで、もっとも古い。記憶喪失者と俳優の対話で構成される、観念詩小説である。

 記憶喪失者は記憶喪失以前につけていた日記を読むことで、自我を担保している。ただし記憶は喪われているので、日記の記述に実感を持っていない。日記の記述者がほんとうに過去の自分であったのかどうかにすら、懐疑的である。



 私が曲輪谷くるわだに阿希人あきとであるのかどうか、本当のところはわからないのです。

 「私」と云ふ確固たるidentitiyを持たぬ私はしかし、それに依存せざるを得ないのです。



 俳優はさまざまな役を演じ、稀代の名優と謳われている。新劇で記憶喪失者の役を演じるために、曲輪谷阿希人のもとを訪れた。



 私はこれまで、色々な虚構の人物になりきつてきました。 (中略) 色々な虚構に生きるうち、私は「私」を喪つてゐつたのです。



 自我の不安定なふたりの対話をとおして、『喪失学概論』は意識についての考察を深めてゆく。



 あなたの言ふやうに意識が虚妄あるなら、その虚妄が存在してゐる意義はあるのでせうか。

 あなたはなにかといふと、意義を求められる。意識などと云ふものは最初からあるものではない筈です。言つてしまへば、意義などはないのです。ただ。ありもしない意義を探しだそうとする行為こそ、意識と云ふ現象なのです。



 ふたりの自我喪失者は論議を重ね、どちらの発言か判然としないつぎの言葉で締めくくられる。



 虚無への帰結こそ、我々の在りかたとして正しい。我々が積みあげた言葉も、これからも続いてゆくであらう意識も、ないものとしてほしい。



 月一磨の作品に共通するテーマは、「懐疑」である。『喪失学概論』では、アイデンティティへの疑義。『満天庵まんてんあん星潤せいじゅんの生涯』では、客観と他者と存在への懐疑。『時間』では題名どおり、時間への疑義。



 昨日までの私━今日の私に酷似せる死者たち。明日の私━今日の私の遺骸

                               (『変質』)



 我疑ふ。そのことすら信ぜず。その信ぜざるところを、さらに疑ふ。それはuroborosのやうに、

 我と我が尾を喰らひつづけるのであつた。                    

                             (『永久機関』)



 月一磨の「懐疑」はついに、自身の表現へと向けられる。文字表現としての文学への疑義を、『機甲文学宣言』によって著わした。



 評論者は云ふ。「人間が描けてゐない」と。紋切り型の定型句に、私は長い間、反感を涵養しつづけてきた。評論者自身が、その文言をきちんと理解してゐるとは思はれない。「人間を描いてゐない文学」なるものが、そもそも存在してゐない。「人間が出てこない」幻想譚や空想科学小説に登場するモノとて、「人間が描いた」擬人化されたモノである。詩や観念小説は、「人間が描いた」心象の表現である。

 「人間が描けてゐない」。何とも傲慢で、浅薄な文言であることか。たかが表現の巧拙に、「人間」を持ちだしてくる愚かしさ。彼らが「人間」を知悉してゐると頑強に主張しつづけるのであれば、まちがひない。彼らは「造物主」のつもりでゐるのだ。高みから我々「人間」を見おろすだけの、自らは何もうみださぬ無為の「造物主」だ。



 評論家への痛烈な弾劾は、表現者への擁護へ移る。リアルであるかどうかを論じてリアルでなければなければならぬという結論ありきであれば、フィクションなど廃して実録のみにすればよい……こういった極論には賛同できない。フィクションにも、説得力のあるリアリティーとディテールが必要である。そこを詰めていない作品が責められ叩かれるのは、しかたのないことである。「人間を描いていない」というのもその延長で、「人間」について深く考察していない表現者が描いた「人間」が批判されるのもとうぜんである。

 月一磨が「人間を描いていない」と批判されたことはない。岩泉いわいずみまもる湯山ゆやま雅国まさくにといった批評家に「難解」「自己満足」「独善的」と叩かれることはあったが。上記ふたりの批評家が、「人間を描いていない」という浅薄な文言を用いたこともなかった。『機甲文学宣言』の冒頭に書きだされた月一磨の怒りは、完全な義憤であった。彼の人間性が、そこから垣間見える。



 ……かうして私は、「人間を描いてゐない文学」を志向する。即ち、人間性なるものの完全なる排除。登場人物はない。人間を一切描かない。筆記者である私自身の心象も、一切加へない。残されるのは、人間性なるものの残滓のみ。名詞と句読点のみで、文脈を確立させる。絵画に於ける静物や風景のやうに。見たままのものを、見たままに描写する。共通の認識を、共通の記号のみで。私はこれを、「機甲文学」と名づける。



 そう宣言して、いくつかの習作を「対訳」とともに載せている。ここではその一作、『街』を全文引用する。彼が住んだ町の風景を心象を排除して描写した、「機甲文学」の基礎的な習作である。



       街                 


 トタン屋根、青。青空、木造平屋。  

 雑草繁茂の庭、蜘蛛の巣、門扉。   

 asphaltの道、塀。道、辻、道。   

 雑貨屋、木造瓦屋根。        

 道、直線の道。夜蜘蛛城址公園。   

 木々の緑、土の道、石垣。      

 緩坂、曲線、道、高台。       

 長椅子、四阿あずまや、四阿、立看板。    

 黒雲。急変の曇天、雨。       


 「機甲文学」という試みがうまく行ったようには、私には思われない。意味もなく美しくもない、単語を羅列しただけの代物ではないか。批評家に反発するあまり、表現者としての意義を見うしなっているように見えるのだ。事実『機甲文学宣言』以降、彼が「機甲文学」を実践した形跡はない。それどころか、『夜蜘蛛物語』という長篇歴史小説の構想に取りかかっている。

 異端者でありつづけた彼が、最後には普遍的なスタイルに行きついた……それは、月一磨という存在意義レゾン・デートルそのものの敗北ではないだろうか。「機甲文学」を結実させてこそ、彼の文学は完成されたのだ。「機甲文学」に頓挫した。多くの表現がそうであるように、月一磨の文学も永久の未完成でありつづける。彼自身がそのことに自覚的であったからこそ、『夜蜘蛛物語』に遁走したのかもしれない。


 『夜蜘蛛物語』は未完成の形而上、手帖に遺された構想に終わっている。手帖の所有者となった私がこの構想を継ぎ、形而下へ落としこむ。月一磨の『夜蜘蛛物語』ではない。錫蒔隆の『夜蜘蛛物語』として。私も人生の半分を生き、あと何十年生きられるのかわからない。日々の生活に忙殺されて、創作は遅々として進まない。だが、いまはやるだけである。まだなにも成していない私が、「何者」かになるために。たとえこれが、実りのないものに終わるとしても。

                    

『街』の脇に対訳『我が街』を置きましたが、改行やらなんやらがうまくいかなかったので削除しました。

編集画面のとおりに投稿されるんじゃないのかい?


FUZAKERUNA!!!!

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[一言] はじめて感想欄にお邪魔しました! 玉三郎です! 的はずれな感想を言うかもしれませんが、その時は小汚い猫畜生がにゃーにゃー鳴いていると思ってください! 本作品。私が錫さんを神とあがめる、きっ…
[一言] 機甲文学。人間を排除した文学。ならば人の視点でもって表記することもまた、正しくないように思います。 どんな視点で書いても、それはその視点を通して人間が見たものを記しているにすぎない。ならば何…
[良い点] 「機甲文学」。二人称の小説よりもずっと技巧や研ぎ澄まされた感性が必要で、読み手も試されそうな気がします。 『夜蜘蛛物語』、澁澤龍彦の構想のみで終わった『玉蟲』をモチーフとした物語を連想さ…
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