或る日の風景・その4
「黒猫は来ないの」
声は背後から唐突に聞こえた。白ねずみは飛び上がって振り向いた。
「何」
「黒猫は来ないの」
目の前に立つ少女は静かに繰り返す。白ねずみは目を細める。
黒いおかっぱ頭。薄茶色のワンピースを着ている。瞳は不思議な光彩を放つ灰色だ。
二つの灰色の目が白ねずみをじっと見据える。
白ねずみは眉をひそめる。
「誰」
「黒猫は来ないの。だから、白ねずみが迎えに行って」
「どういうことだ」
「あたしのせいなの、黒猫は来ないの。でもあたしには何もできないの。だから、白ねずみに」
少女はそっと自分の腕を押さえる。白ねずみは目を見開く。少女の腕に白い包帯が不恰好に巻かれている。
「行って欲しいの」
少女は言う。
陽射しは柔らかく草原を包んでいる。昨日は吹き荒れていた南風が穏やかな微風に変わっている。濃厚な草の香りが強く鼻を突く。それを風が拡散する。
白ねずみは尋ねる。
「黒猫の友達か?」
「とにかく来て」
少女は言うや否やくるりと背を向けて歩き出す。一瞬その姿を見送りかけて、白ねずみは急いで少女の背中を追う。
少女は草原を抜ける。白ねずみも続く。緑色の絨毯の上を四本の足が進んでいく。古木の脇を通り抜け、細い川を越える。森を抜け、街に入り、狭い路地を右に曲がり、左に廻る。
点在している小さな家々に続く道の一角で少女は立ち止まる。土塀が周りを取り囲んでいる。固い土の小道が迷路のように曲がりくねる。見上げる空の広さは限られている。路地の一角に細長い木が根を張っている。
白ねずみは自分が全く知らない場所に立っていることに気づく。
少女は木の根元、土が盛り上がっている部分を指で差す。白ねずみはそこに目を向ける。盛り上がっているように見えたのは土ではなかった。
白ねずみは駆け寄る。
「黒猫!?」
白ねずみが叫ぶ。横になっている黒猫を乱暴に揺さぶる。
黒猫は細目を開けた。
ゆっくりと大あくびをする。
「……白ねずみー? あれ、白ねずみ?何やってるの」
「黒猫こそ何してるんだ」
「えーっと…何だったかな」
白ねずみは深い溜息をつく。黒猫は腕をゆっくり伸ばして辺りを見回す。
「もしかして、日が高い?」
「苺摘みの時間を過ぎてる」
「約束は」
「今日だ」
「ああ、そう」黒猫は視線を宙に注ぐ。
「そうかー。僕ね、昨日の夜、木を直そうと思って、ああ、そっか、落ちちゃったんだね」
「またか。ああ、怪我は」
黒猫は静かに起き上がり、一回飛び跳ねて顔をしかめる。
「左足首が痛い。でも、歩けるよ」
「ずっとここで寝てたのか」
「寝てたっていうか。気がついたら今だった」
「まあ無事でよかった。あの子にお礼を言えよ。ここまで俺を連れてきてくれたんだ」
「あの子?」
黒猫が首を捻りながら言う。白ねずみは後ろを見る。首を振り回す。路地の間を駆回ってみる。少女の姿は消えている。
「おかしいな。女の子が、さっきまでいたのに」
「ふうん。お礼を言いたいのになあ」
「腕に包帯を巻いていた」
「包帯?」
「包帯」白ねずみは頷く。
「白い包帯だ。黒猫と約束した場所にいたんだが、その子は自分のせいで黒猫は来られなくなったと言った」
「包帯……」
黒猫は眼球を360度回転させる。
「ああ、ああ、そう」
黒猫はくすくす笑う。白ねずみは怪訝な顔をする。黒猫は満面の笑顔を白ねずみへ返す。
「ほら、白ねずみ。たぶん、この子だと思うんだ」
黒猫は脇に植えられている若い猫柳を見上げる。白ねずみも同じように視線を向ける。木の、上から三番目の枝に白い包帯が歪なフォルムでしっかりと巻かれている。
白ねずみは眉間に皺を寄せて枝と包帯を見つめている。
黒猫は左足をゆっくりと擦る。
「ここ帰り道なんだけどね、ほら、昨日は南風が吹き荒れてたじゃない。たぶんそのせいだと思うんだけど、この木、あそこで枝が折れてたんだ。生木が見えて痛そうでね、家から包帯持ってきてくっつけたんだけど、風に煽られて、僕が、うん、落ちちゃったんだ」
「……」
白ねずみは黙り込む。黒猫は猫柳の木に手を付いて立ち上がる。そして、猫柳に向かってにっこりと笑う。
「ありがとう。君の怪我も僕の怪我も、早く治ると良いね」
猫柳の枝の先、小さな灰色の芽は不思議な光沢を帯びている。
白ねずみはそっと猫柳の幹に触れる。春の陽射しを吸収したのか、茶褐色をした滑らかな幹には温もりが感じられる。
黒猫が歩きだそうとしてよろける。白ねずみは慌てて木から離れ、肩を貸す。
「ねえ白ねずみ、僕のうちで紅茶を飲もう。ごめんね、苺狩りは今度でいいかな」
「ああかまわない」
黒猫は嬉しそうに笑い、白ねずみはちらりと猫柳を振り返る。
南風は優しく頬を撫でる。猫柳の枝に巻かれた包帯が柔らかい風になびく。