或る日の風景・その3
「蒼いなあ!」
「そんなわけないだろう」
「そう? でも、空が映って、ほら、青い感じがしないかな?」
言われて白ねずみは空を見上げた。
耳が切れそうなほど冷え込んだ空気。吐く息こそ白い。
視界一杯に広がる淡色。輝度が足りない空に浮かぶ雲は紺色を崩さない。それを地として月は青白い図となっている。
この圧倒的な面積差では図地反転の起こる余地はないと白ねずみは考えた。だが光度差が少ないと図と地の区別は難しくなる。
白ねずみは顔を戻し、眼前の光景を見つめる。
「月のことじゃないだろ?」
黒猫は首を傾げる。
「うん。だってほら、すごいじゃない、見てよ、この雪!」
一面にまっさらな雪が黒猫と白ねずみの前に広がっている。
「雪は白だ。青じゃない」
「そうかな、少し蒼くないかな。まあいいや、足跡つけてこうよ、白ねずみ!」
言うやいなや黒猫は跳びながら走り出す。
それを見た白ねずみも直ぐに駆け出す。横に並ぶ白ねずみを横目で確認した黒猫は速度を上げる。白ねずみも追い越すように走る。黒猫が半歩先を駆け抜ける。白ねずみは歯をくいしばる。
黒猫が後ろをひょいと振り向いた瞬間、鈍い音が静寂に罅を入れる。振動している大木から落ちてきた大量の雪が黒猫を埋める。白ねずみは足をもつれさせ数回転がっていく。
しばらくして、雪景色は元の静謐を取り戻す。まだ揺れている古木の下に雪がこんもり盛り上がっている。
「黒猫? 大丈夫か?」
雪まんじゅうは沈黙を保っている。
「黒猫? 黒猫―? おい、どこだよ?」
白ねずみは目の前の雪まんじゅうを叩く。
「……黒猫! 動けないのか?」
白ねずみは雪を跳ね散らかして雪の塊を引っ掻き回す。半壊した雪山の底から雪をまとわりつかせた黒い足が突き出している。白ねずみの顔が蒼褪める。
「黒猫! 待ってろ、今引っ張るから!」
白ねずみは黒猫の足を掴んで後ろに引っ張る。白ねずみの足が柔らかい雪に沈んでいく。埋まった足を引き抜いて、白ねずみは数歩後ずさりする。
黒猫の両足が現れる。その足がばたばた動いたかと思うと、雪が盛り上がって、顔中に雪を被った黒猫が上半身を起こす。
「あー、びっくりした!」
「……」
「あ、白ねずみ! ありがとう、引っ張ってくれて」
「元気そうだな」
「うん。大丈夫みたい。いや、意外と面白かったなあ」
「嘘付け」
「本当だってば。白ねずみも埋まってみなよ」
「嫌だ」
「そうかな、絶対楽しいって!」
「嫌だ」
黒猫は雪を両手に取り、白ねずみに放り投げる。白ねずみは雪玉を黒猫目がけて投げつける。黒猫は後ろに下がると、白ねずみに向かって飛びかかる。
ちょっとした取っ組み合いの末、白ねずみと黒猫は雪の上に寝転がっていた。荒い呼吸があたりの静寂を僅かに乱している。やがてそれも収まり、再び辺りを静寂が支配する。地平線から空へ光が注がれ始める。
黒猫は両手を伸ばして転がる。
「足跡、ずっと続いてるねえ」
黒猫の囁く声は冷たい空気へ溶けてゆく。
白ねずみも走ってきた方へと顔を向ける。
「そうだな」
「あ! 雪が白いよ!」
「さっきからそうだ」
黒猫が叫ぶ。白ねずみは仰向けに寝転がる。視界を埋め尽くす突き抜けた蒼。雲は白色を取り戻し、月は地に取り込まれようとしている。
「もう日の出だ」
「本当だ! 太陽が出てきてる! 綺麗だねえ」
「明るいな」
「雪、キラキラしてるね」
「そうだな」
「気持ちいいなあ」
「そうだな」
「……」
「寝るなよ」
ちぇっと言って黒猫は笑う。白ねずみも苦笑する。黒猫はぴょんと起き上がって、白ねずみに手を差し出す。白ねずみも立ち上がり、体に付いた雪を払う。
「こっそり出てきたからさ、怒られないといいね」
「気づかれなけりゃ大丈夫だろ」
黒猫と白ねずみは、新しい雪に再び足跡を付けながら戻ってゆく。雪を落とされた古木の下には、丸い窪みが二つ残っている。