或る日の風景・その2
白ねずみは右を向いた。
木の塀に両脇を遮られた狭苦しい路地が続いている。既に日は沈んでいるが、まだ西の空は青さを残している。曲がりくねった路地はどこまでも続いているように見える。
白ねずみは左を向いた。
木と土の交じり合ったにおい。薄汚れた木材が十本、木の塀に立てかけられている。その下には細かい木屑が散らばっている。泥まみれのドラム缶が二つ押し合うように並べられている。行き止まりだ。
白ねずみは前を向いた。
木造倉庫の入り口が口を開けている。中は真っ暗で何も見ることができない。入り口から吹きつけた生暖かい木材の臭いに、白ねずみは体を振るわせる。
「黒猫はどこいったんだ」
白ねずみはため息をついて、飛び跳ねながら先へ行ってしまった黒猫のことを思い返した。辺りを見回すが夕闇の中に黒猫の気配は影も形もない。
「この中か…」
白ねずみはおそるおそる入り口から首を突っ込む。だだっぴろい空間は外の薄暗さを煮詰めたような暗さだった。埃っぽい空気が鼻をつく。白ねずみは手探りで足を進める。一歩。二歩。ちょうど三歩目で足を引っ掛け、顔から倒れる。静寂を砕くように音が響き渡る。
「ちくしょう、廃材か」
顔をさすりながら起き上がった瞬間、近くでけたたましい笑い声が上がる。白ねずみはびくりとして振り返る。闇の中で動くものはない。
しばらくの間、白ねずみは床に座り込んでいた。何度か立とうとするが、すぐに膝が震える。白ねずみの視界の端が滲む。そのとき、誰かが白ねずみの頭を撫でる。白ねずみははっと顔を上げる。
「黒猫!?」
「いや―、見つかっちゃったか」
黒猫が部屋の奥に積んである木材の陰から顔を出す。
白ねずみはぎこちなく立ち上がり、叫ぶ。
「あのなあ、ふざけたことするなよ! だいたい、人が転んだの見て笑うなんて、失礼だ」
そのまま白ねずみは入り口から出て行く。
黒猫は木材の陰から走り出し白ねずみに追いつく。二人は廃屋から出て、霞がかったような暗さの路地を足早に歩く。
黒猫はすまなさそうに首を傾げる。
「ごめん。ごめんね、白ねずみ。もしかして、恐かった?」
「そんなわけはない」
「なら、よかったけど。あ、そういえば白ねずみの友達は? 一緒に入ってきたよね?」
「え?」
白ねずみは驚いて黒猫を見る。黒猫は不思議そうに白ねずみを見返す。
「入ってきたとき、白ねずみの後ろに誰かいたよ? 白ねずみが転んだとき笑ったのも僕じゃない」
白ねずみは黙った。ちょうど五歩、歩いた後で口を開く。
「黒猫は、ずっとあの場所にいたのか?」
黒猫はこっくりと頷く。
「うん」
「じゃ、別に、さっき、僕の頭を撫でたりしてないよな」
「そんなことしてないよ」
「……」
「……」
白ねずみは眉間に皺を寄せる。黒猫は少し笑って星の輝き始めた空を見上げる。
「ねえ、白ねずみ」
「何」
「タソガレって知ってる」
「黄昏? 今くらいの時間のことだろう」
「うん、そうなんだけどさ。タソガレって、誰そ彼って書いてね、誰がいるのか分からなくなる時間なんだって」
「誰がいるのか分からなくなる?」
「うん。知ってる人のような、そうじゃないような、僕のような、白ねずみのような、そういうのがごっちゃになっちゃう時間なんだって」
「……ふーん」
「うん」
暗い街でネオンが輝く大通りまで出た黒猫と白ねずみは、同時に顔を上げる。互いの瞳に互いが映り、どちらともなく笑い出す。
「白ねずみだよね」
「黒猫だろ」
「また探検しようねえ」
「ああ、さっきのは風の音だったんだな」
「それは、どうかなあ」
白ねずみは黒猫を睨む。黒猫は楽しそうに笑う。