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始まりと終わり。

※冒頭から暴力行為があります。

意識が浮上してまず思ったのは、カビ臭い。ということ。

拘束された両手首が悲鳴を上げている。何で縛っているのか、細い紐が何重も巻かれているのが分かるほどにきつく絞め込まれている。

「はぁ」と息を吐けば呼気が熱い。

ぼんやりと霞んだ視界の向こうで複数の人間が行き交うのは見えているが、どうやらここに私の味方はいないらしい。

全身が倦怠感を帯びているのは嗅がされた薬品のせいだろうか。

頬に当たる、硬くて冷たい感触のコンクリートが心地良いなんてどうかしている。


靄がかった思考はもはや使い物ににはらなかった。

一つ言えるのは、油断していたというよりは意識もしていなかったということ。

まさか自分がこういった荒事に巻き込まれるとは思っていなかったのだ。


「―――――だからぁ聞いてる?お前の大事な女、人質にとったって言ってんの!」


がやがやと好き勝手喋っているらしい集団の中に、ひときわ通る若い声が乱暴な物言いで声を張り上げた。

その声が盛大に反響したことから、ここが屋内で、更にかなり天井が高い場所であることが分かる。

霞んだままの視界で見上げれば高い天井にむき出しの鉄骨が見えた。

体育館のような倉庫のような。広い割りには置かれている物が少ないような気がする。

ただ、人間の数だけは多い。


「ほらほら助けに来ないとぉ、彼女、大変なことになっちゃうよ?」


背後に居るらしいその人が心底楽しそうに声を上げた。

相手の声が聞こえないということは、恐らく電話なのだろう。


「ボコボコにしちゃっても良いのかなぁ」


ぞっとしないセリフだ。

思わずひゅっと飲んだ息が、周囲の喧騒に飲まれて消えた。

一体、何人いるのかそれぞれが思い思いに喋っている印象を受けるし、電話の相手に聞こえるようにわざと声を上げているようにも思える。

それほどに、人質、つまり私の置かれた状況が悪いのだということを伝えようとしているのだろう。


だけど、私は知っている。

その電話の相手は、ここには来ない。


「ぇえ?いいの?……どういう意味?」


「だって、この子、お前の……」


だって私はその人に心底嫌われているのだから。


「はぁ?本当にいいの?…そっかぁ、利用価値なかったかぁ」


最後にぽつりと呟いた言葉で、周囲が息を飲んだかのように静まり返った。



*

*


私とその人が兄妹になったのは、私が物心付く前だから正直言って出会いの日は覚えていない。

だから当然、私たちは血肉を分けた兄妹で、兄が兄であることに疑いさえ抱いていなかった。

実際は、半分どころか全く血が繋がっていなかったのだけれど。

聞かされたのは10歳の誕生日だ。

なぜ、その日だったのか分からない。意味があったのかなかったのか。

もしかすると、ただ単に「10」というのがキリの良い数字だったからかもしれない。区切りとするにはそんなに悪くない数字だった。

そんな風に何の前触れもなく知らされた真実に、私はただただ呆然としていた。

誕生日ケーキに灯されたろうそくの火を吹き消すこともできずに、正面でじっと私を見据える兄を前にして、私はうわ言のように「そうなんだ…」と呟いた。


その日までの私と兄は、ご近所に知れ渡るほどの仲良し兄妹だった。

いや、『仲良し』というのが生易しい表現に聞こえるほど、兄は過干渉なくらいに私を構って、甘やかしてくれていた。

優しく賢く、余りに親切で。

今思えば、兄はきっと最初から私が妹ではないということを知っていたのだろう。

だから、兄として最も相応しいと思う態度を取っていたに違いない。

普通の兄妹はあれほど近しい距離ではいられないものだ。

友人と遊びに出ようとする兄を引き止めたときも、兄が持っていたお菓子を全部頂戴と言ったときも、祖父母が兄に与えたおもちゃを欲しがったときも、兄はいつだってにっこりと笑って「いいよ」と言った。

何の不満もなさそうに、笑ってすませた。

兄が私をただ只管に甘やかして受け入れるものだから、私たちは一度も喧嘩をしたことがなかった。

私が一方的に怒ったとしても兄は「ごめんね」と優しく謝る。

いつだってそう。喧嘩に発展する前に、兄の優しい声に諌められて終わるのだ。


幼い私は、その不自然さに気づきもしなかった。


それが突然変わったのは、私が真実を知ったその日。

両親は私たち兄妹に気を利かせて席を外した。本当は、いたたまれない空気から逃げ出したかっただけかもしれない。仲の良い兄妹であれば腹を割って話す必要もあるだろうと、いかにも親らしい顔をして、私たちをその場に置き去りにしたのだ。

しんと静まり返った食卓で、私の為に用意されたケーキが人数分にカットされるのを待ちわびていた。

結局、長く火を灯して垂れ落ちたろうそくが生クリームの上に落ちていく。

私以外の誰も、そのことに気づかなかった。

冷静を装いながら、誰もが混乱していたのだと思う。

先に火を消そうかと思ったそのとき、兄はそれまで浮かべていた微笑を霧散させて「やっと、解放されるんだ」と、今まで一度も目にしたことのない顔で言った。

ごっそりと表情の抜けた顔は無機質な人形のようで、酷く恐ろしかったのを覚えている。

続けざまに、感情の乗らない声が「お前に優しくしていたのは両親に言われたからだよ」と、「お前のことは好きじゃないけど、両親のことは好きだから」と本音を語る。

兄は何でもないことのように言った。

そして、兄とは呼んでくれるなと冷たく言い放った。

じゃあ何て呼べば良いのかと聞けば、呼ぶなと言われた。

つまり、話しかけるなと、暗にそう言われたのだった。


私はそれまでずっと、兄のこと何とも思っていなかった。

好きでも嫌いでもなかったのだ。あれほどに優しく慈しまれていてもそうだった。

きっと世の中の大半の兄妹がそうだろう。好きとか嫌いとかわざわざ認識するまでもない。

だって、家族なのだから。

家族の間に特別な感情なんて必要ないのだから。


だけど、兄にはっきりと拒絶されたあの日、私は泣いた。

嫌だと泣いた。何で呼んじゃいけないのと、何でお兄ちゃんじゃないのと、大声で泣き叫んだ。

私の悲鳴みたいな声に飛んできた両親は何を勘違いしたのか微笑ましいものでも見るかのような顔をして「二人は兄妹なんだから大丈夫よ」と「血は繋がっていないけど兄妹なんだから大丈夫よ」と何度も言った。

両親の前でだけ、兄としての役目を果たそうとするその人はと言えば、少し離れたところから困ったような顔をして両親に同意する。

本音ではそんなこと微塵も思っていないくせに、それまでと同じように、優しい顔をして堂々と嘘を吐いた。それを見て確かに傷ついた私は思い知った。

私は、兄が兄として好きだった。


だから、いくら拒絶されても距離を縮めようと躍起になった。

あの、優しい兄を覚えている限り、元に戻せると信じていたからだ。

駄目だと言われたのに話しかけて付きまとってくっついて触れようとして。

伸ばした手を何度振り払われても、話しかけて無視されても、時々は怒鳴られたり突き飛ばされることさえあったけど、ただの兄妹喧嘩の範疇だと勝手に理解して。


『お前なんか、いらない』


はっきりとそう言われても、冗談か何かかと思っていたのだ。

そう思い込もうとしていた。



*

*



ザアザア降りしきる雨が傷んだ体に容赦なく落ちてくる。

常であれば重さも感じないはずのそれが皮膚に触れるだけで背中が軋むほどの激痛が走った。

何をされたのかなんて、よく分からない。

ただリンチされたのだということだけは分かった。

誰がそうしたのかをわからなくする為だろう。縛られたまま目隠しをされて、カウントさえなく蹴り飛ばされた。

それからはよく覚えていないけれど、一体どれほどの時間、暴行を受けていたのかは分からない。

足だけは自由にされた。逃げ惑う私をたくさんの足音が追いかけてきた。

見えない視界で、何か分からないものにぶつかって、転がって、立ち上がろうとして誰かに服を掴まれた。

そしてまた殴られて。


『アイツが来てくれたら、こんなことにはならなかったのにね』


困ったように言う声は嘲笑を含んでいた。

それが誰に対するものなのかは分からなかったけれど、哀れっぽさを誘う声は芝居じみて聞こえた。


『可哀想にね。このままだと死んじゃうのにねぇ』


そう言ってまた一つ蹴り上げ、無造作に投げ出される私の体。

もはや声を上げることさえできなかった。


そうして一体どれだけの時間を過ごしたのか分からない。

やがて、連れて来られたときと同じように車の後部座席に放り込まれた。

目隠しを外されたのがどの段階だったかは分からないけれど、意識があっただけでも奇跡と言える。かろうじて動かすことのできた瞼の向こうでは、物や人を判別することはできなかった。


『予想外だったなぁ。アイツは君を溺愛してるって噂だったのに。残念、残念。こういうこともあるんだねぇ。情報化社会の弊害ってやつかな。噂に踊らされちゃうのは』


悪いことをしているとは到底思っていないだろう口調だった。

近距離で私の顔を覗き込むその瞳の色だけはかろうじて認識できたけれど、近すぎて顔自体を判別することはできない。

私を見つめるその目には何の感慨も浮かんでおらず、殺人鬼というのはきっとこういう顔をしているのだろうと思った。

興奮しているでも憤怒しているでもなく、喜びを感じているようでなければ愉悦を得ているようでもなかった。ただ、淡々と、等間隔で釘を打つような単調さだった。

『まぁ、憂さ晴らしくらいにはなったかも』

ありがとね、と笑って、指先一つ動かせない私の頬に唇を寄せた。


そして私は、ゴミ捨て場に放置されたのだった。


コンクリートに落ちる大きな雨粒が空中をもやのように舞っている。

投げ出された指のいくつかが歪に曲がっていた。

どくどくと脈打つ痛みが少しずつ弱まっている気がしたけれど、それが危険な兆候だということには気づいている。かろうじて動かすことのできる顔を少しだけ傾ければ、墨を塗りたくったような雨雲が重なり合っているのが見えた。その一部がちかちかと光っているのは雷だろう。

これから、豪雨になるのは確実だ。

はあ、と小さく息を吐けば唇に落ちた雨が口に入る。

なぜか、甘い気がした。

きっと喉が渇いているのだろう。

気絶寸前まで何度も絞められた首は声帯を傷つけたようで声が出ない。

漏れるのは、吐息のような声と呻き声。

けれど、それさえも雨音の向こうに消えていく。


私は兄がいくら拒絶しようと、彼の役に立てば昔のように優しくしてくれるのではないかと期待していた。

3年前から海外赴任している両親の代わりに家事をするようになったのもそれがきっかけだった。

例え、美味しいと褒められることがなくても、手をつけることなくそのまま放置されたとしても、兄のために料理を作るのは苦痛ではなかった。

深夜を過ぎて朝方になってもまだ家に帰られない兄を待ち続けるのは寂しかったけれど、待っていればいつかは帰って来るだろうことを知っていたから、頑張って起きていられた。

兄の友人に、そっけなくされても平気だったし、兄とその友人たちが私の悪口を言っていたとしてもそんなのはただの冗談だと信じていられた。

私は、それほど盲目に兄のこと信頼していたのだ。

だけど。


『アイツ、マジで消えてくんねぇかな』


その声が聞こえたのは果たして偶然だったのだろうか。

わざわざ我が家でそんな話をしていたのは、私に聞かせるためだったのだろうか。

「アイツ」が私を示していることに気づくのに時間なんて必要なかった。


だから、兄は助けに来なかった。


春先だというのに、むき出しの腕や足に落ちる雨は氷のように温度がなく、針のように突き刺す。

それなのに、頬を流れる水滴は酷く熱い。熱をもったそれが次から次へと溢れていく。

瞬きをすればその水滴は勢いを増した。

兄のことを呼んだ気がする。無駄だと分かっていたけど、幼い頃は私が誰かにいじめられていると兄が飛んできて助けてくれたから。

もしかしたら、とそう思ったのだ。


馬鹿だ。馬鹿だ。大馬鹿だ。私は、とんでもない大馬鹿者だ。


ひくりとしゃくり上げると肋骨が軋んだ。ヒビが入っているか、もしくは折れているのかもしれない。

さっきから自分の胸がおかしな音をたてている。

息ができないと気づいたときには背中がおかしな風に痙攣していた。

バチンバチンと音をたてるみたいに開閉を繰り返す霞んだ景色の向こうに、転がった空き缶や腐った食べ物のカスや何日も置きっぱなしになっているであろうゴミ袋が見える。

私もこれらの一つなのだろう。

誰にも気づかれず、見向きもされず、やがて迎えに来るだろうそれはただのゴミ収集車。


暗くなっていく視界の中で無意識に呟いた言葉は。



「……たすけて、」


お願い。

ここに来て、私の手を取って。

私のことが嫌いでも良い。憎んでても良い。


お兄ちゃん。


助けて。




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