表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

桶狭間の戦いまとめ

作者: 六三

 桶狭間の戦いについては色々と書いてきましたが、新たにそういえば、と気づいたこともあり、一度纏めたいと思います。


 以前の定説では、信長は気づかれないように間道を通って義元本陣に奇襲を行ったといわれていましたが、現在ではこれは否定されています。


 現在では、奇襲ではなく正面からの攻撃と言われてます。

 ですが、それと同時に、そもそも信長は義元本陣を攻撃したつもりはなく、勘違いによる偶然(遭遇戦)だったとも言われています。

 本当にそうでしょうか?


 桶狭間の戦いの経緯を追ってみたいと思います。


 今川の先鋒が丸根砦、鷲津砦を攻めます。

 信長はこの報を受けますが、ろくに軍議も開かず家臣たちも屋敷に返してしまいます。ですが、両砦が落ちたとの知らせを受けると単騎出陣。

 ※従来の信長記を元にした奇襲説では、簗田某に命じ義元本陣の位置を探らせていますが、信長公記にはそのような記述はありません。

 信長は兵を集めつつ中島砦まで進出します。

 さらに進み義元本陣に攻撃を仕掛けますが、その前にこう言います。

「敵は、鷲津、丸根を攻撃して疲れ果てている兵である」

 しかし実際は、それは鷲津、丸根を攻めた軍勢ではなく義元本陣であり、義元の首をとり大勝利。

 これが大雑把ではありますが、信長公記に記述された桶狭間の戦いです。


 信長が義元本陣を攻撃したのが偶然だという根拠は、次の2つでしょう。

 ①義元本陣の位置を探っていない。

 ②義元本陣を鷲津、丸根を攻めた兵だと言っている。


 義元本陣の位置も分かっておらず、それどころか鷲津、丸根を攻めた兵だと言っている。偶然以外のないものでもありません。

 そうでしょうか?


 従来の奇襲説の根拠となった信長記は、信長公記という歴史書を元に作者が自分の考察を加味して書いたものです。これは一般的には歴史書ではなく、歴史小説と呼ぶべきものです。なので、こんな物は信用ならないと、歴史書である信長公記の記述を元にしたの、正面遭遇戦説です。


 ですが、私はいまだに多くの人が、この信長記という小説の呪縛に囚われていると考えます。

 信長記では義元本陣の位置を探らせている。でも信長公記では探らせていない。だから、信長は義元本陣の位置を知らないのだ。というものです。


 ですが、当時の合戦の常識では、こんなことはほぼありえません。


 信長記では、義元本陣は桶狭間という谷間にあり周囲からは見えにくいという状況です。確かにこれでは義元本陣の位置が分からなくても不思議ではなく、探る必要があるでしょう。ですが、信長公記では桶狭間’山’に本陣を構えているのです。

 そして、武将は自身の馬印という物を持っていて、戦場ではこれを掲げます。ちなみに義元の馬印は「赤鳥」と呼ばれる物です。


 当時の合戦では、武将は馬印を掲げ、我はここにあり! と敵味方に己の存在を誇示するものなのです。

 ※無論、劣勢などで奇襲、奇策を考えているなら話は別ですが、圧倒的優勢の義元にそれは当てはまりません。


 義元は、小高い桶狭間山に本陣を構え馬印を掲げている。特別に調べるまでもなく、記録に残すまでもない当たり前の物見で義元本陣の位置は分かるのです。


 無論、遭遇戦説を信じる人は「敵は、鷲津、丸根を攻撃して疲れ果てている兵である」という明らかに間違った認識の言葉を信長が言った。という揺ぎ無い根拠がある。そう考えるでしょう。


 ですが、武将というものは、戦いを有利にする為には平気で嘘をつきます。嘘をつくのが彼らの仕事です。


 三国志の曹操が、喉の渇きを訴えた兵士達に、この先には梅の林があると嘘をつき湧き出る唾で喉の渇きを癒させたように。

 本能寺の変の後、光秀に味方する者を牽制する為に、秀吉が信長公は生きていると嘘をついたように。

 長篠の戦の時に、酒井忠次の提案を、敵に漏れるのを恐れた信長が、一度怒鳴りつけ引き上げさせた後、夜になって呼び寄せ実行させたようにです。


 兵達に、あれは今まで戦っていない新手だというのと、戦い疲れている兵だというのと、どちらが士気が上がるかは言うまでもありません。

※この時、攻めるのが義元本陣と分かっていれば、義元の首を狙えと信長が言うはずだという意見もあるようですが、信長も義元本陣を破れば今川軍が退却するとは考えていても、合戦で大将の首を取るなど稀であり、そこまでは考えていなかったのでしょう。それを、義元の首を取れなどといっては、折角の嘘がばれてしまいます。


 だいたい、目の前の軍勢の馬印を見れば、義元本陣なのは丸分かりなのです。それを間違えるでしょうか?

※雑兵、下級の武士などは馬印が誰の物なのかの知識などなく、だからこそ信長の嘘が成り立つのですが。


 信長が「鷲津、丸根を攻撃して疲れ果てている兵である」と叫んだ地点から見れば、鷲津、丸根は後ろに位置する状況です。松平勢が丸根を落とした後に入った大高城はさらに後方です。対今川の戦略を練り、この周辺の地理に明るい信長が間違えるでしょうか?


 ところで、実は「鷲津、丸根を攻撃して疲れ果てている兵」など、本当はこの時どこにも存在しません。

 丸根を攻めたのは松平勢です。鷲津を攻めたのは朝比奈勢です。

 松平勢は大高城に一度入り、そこから丸根を攻め、落とした後はまた大高城に入りました。

 朝比奈勢は、大高城に入らず一直線に鷲津を攻め、落とした後は鷲津に留まっていたようです。


 ところが、信長公記では「徳川家康(松平元康)は、大高の兵糧入れから鷲津・丸根の攻略まで散々に追い使われ」という記述があります。


 つまり、この時織田方は、松平勢が丸根と鷲津の両方を攻めたと誤認しており、「鷲津、丸根を攻撃して疲れ果てている兵」とは、松平勢のことです。


 そして「疲れ果てている兵」には続きの台詞があり、それは「それに比べて我らは新手である。小勢だが大軍を恐れる必要はない」というものです。つまり目の前の敵は大軍です。


 それでは、松平勢は大軍なのでしょうか? いえ、それどころか、この時に信長が率いていた約2千に対し、松平勢は1千ほどです。もし、朝比奈勢と合計したものを松平勢と考えていたとしても、合計3千です。織田勢からみて大軍というかは微妙です。


 それに比べ義元本陣は5千とも6千とも言われ、織田勢の2倍から3倍。大軍といって間違いないでしょう。そして松平勢と大きく兵数が異なります。


 これで義元本陣と松平勢を間違うなら、信長は、この時20歳にも満たぬ(今川から見て)外様武将の元康(家康)が、5千ほどの軍勢を任される存在だと認識していたことになります。


 また、信長が丸根、鷲津を落として疲れ果てた松平勢を局地戦で討つことを計画していたとして、その情報を得ようとはしなかったのでしょうか。松平勢(と朝比奈勢)は、こそこそ隠れていたのではなく、砦を攻めていました。当たり前の物見で、どの程度の戦力かは分かるはずで、戦いを挑む予定の敵数を探らせないなどありえるでしょうか。


 もし、義元本陣と松平勢を間違えたなら、まったく別方向の義元本陣と松平勢を間違え、さらに松平勢の兵数をまったく探らず、そして20歳に満たぬ元康が5千の大軍を任されていると信じていたことになります。

※もし、松平勢を先鋒の一翼を担うだけの存在と考えていただけとしても、その先鋒の合計は3千で、織田勢から見て大軍とは言い難いと思います。


 また、信長がこの先を見据え、味方の士気を高めるために局地戦で勝利しようと考えていたとして、それにしては「この一戦に勝てば、その家の面目は末代に到る功名である。一心に励むべし」と、これが決戦かのような台詞も言っています。


 そしてそもそも、信長が丸根、鷲津の砦が落とされて出陣してから、桶狭間方面を目指して進軍していたのは間違いないと思いますが「丸根、鷲津を落とした敵」を狙うには、方角がずれているといわざるを得ません。重ねて言いますが、信長はこの方面の地理には詳しいはずです。


 まとめると

 ①当時の合戦の常識の通り、大将の今川義元は目立つ所(桶狭間山)に布陣し、そして当時の常識として馬印を掲げているはずであり、義元本陣の位置が分からないはずがない。

 ②この地域の地理を熟知しているはずの信長が、真逆ともいえる丸根、鷲津方面と桶狭間方面を間違えるものなのか。

 ③丸根、鷲津を攻めた軍勢と間違えるならば、兵数も誤認していることになる。

 ④戦を有利に進めるための嘘、というものは歴史上枚挙に遑がなく、信長が兵達を鼓舞するために嘘を言っても自然である。

 ※出陣に際して白鷺を飛ばすやら、神託が下ったというやら、誰かが死んだやら、誰かが実は生きているやら、誰かが裏切っているやら、色々

 ⑤丸根、鷲津を攻めた軍勢という部分を除けば、義元本陣突入前の信長の台詞は、敵本陣との決戦にふさわしいものだ。

 ⑥丸根、鷲津を攻めた軍勢と戦うならば、そもそも進軍する方向が違う。


 さらに言えば、逆に松平軍(敵の先鋒)との戦いを想定していたとする方が、信長の行動が不可解になります。

 ①戦いを想定していた割には、松平勢(先鋒)の兵数すら掴んでいないことになる。

 ②丸根、鷲津を落とした敵を目指すにしては、進軍方向が逆(丸根、鷲津方面に背を向けて進軍している)

 ③まず局地戦に勝利し、その後の戦いを有利に進めるという作戦には、通常は「まず勝ちやすい敵に勝って」という意味がある。しかし、敵の先鋒を義元本陣に匹敵する大軍を認識していたならば勝ちやすい敵どころではなく、勝算は低く、勝っても所詮は敵の先鋒という割に合わない賭けに出たことになる。もし勝てても、被害が大きければ、その後の戦いどころではなくなる。

 ④そもそも、義元本陣に匹敵する大軍を相手にするなら、義元本陣を狙えばいい。


 つまり「丸根、鷲津を攻めた軍勢」という台詞以外は、状況的にはどう考えても信長は義元本陣と分かって攻撃しています。

 そして、自軍を有利にする為には嘘をつくなど当然の時代なのですから、そう言ってるんだから、そう思っていたに違いない。は通用しません。そう言ってるんだから、絶対にそう思っていたはずだ、というならば、本能寺の変の後、秀吉は本気で信長が生きていたと考えていたのでしょうか?


 いや、それは状況的にありえない。というならば、信長の言葉も、状況で判断すべきです。そして、状況的に「あれは丸根、鷲津を攻めて疲れている兵だ」という台詞は、兵達を鼓舞するための嘘と見るべきです。


 結論として、信長は間違いなく義元本陣だと認識して攻撃を仕掛けた。と考えます。


PS

 他者から見てどの程度、納得できるものか知りたいので、評価を、納得できるなら5、納得できないなら1でつけて頂けると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 面白い考察ですね。 確かに言われてみれば 当時の常識からすれば 義元の本陣は 丸わかりだったと思います。 現在と違って、相当遠くからでも 見通せたみたいですし、 狙って攻撃をしたとしか 思…
2021/03/31 01:09 退会済み
管理
[一言] 信長公記も牛一が聞いた話をまとめたものらしいです。 信長推しの家臣が酒の席で話を盛って、それが真しやかに広まってしまったかもしれませんし、いろんな説が出てきてもおかしくないですね。 資料か…
[一言] 鯨統一郎氏のバカミスと言われいる某小説では、信長公記から信長の自殺願望説を挙げてたという事を思い出しました。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ