おばあちゃんに「死ね」って言っちゃった
幽霊が出ると、部屋の気温が下がるんだって。
何日前だったかな。俺の彼女がそんなことを言っていた。
夏場はウェルカムだな、なんて笑ったっけ。
「あっちぃな~」
大学での講義を受け、汗をだらだらと流して家に帰って来た時、ふと思い出した。
「東京の夏は暑すぎる……」
そう呟き、たったひとりの部屋のエアコンのスイッチを入れる。
田舎育ちの俺にはアスファルトに囲まれた東京の蒸し暑い灼熱は文字通り地獄だった。実家の方は自然豊かで、未だに地面にアスファルトが敷き詰められているところはごく一部だけだった。
更に、この日は特別暑く、どのチャンネルでも「熱中症に気をつけてください」と喚起を呼び掛けられていた。こんな日に限って授業が午後一時半に終わるのだから、たまったもんじゃない。
「幽霊出ねえかなあ」
俺ははっきり言って貧乏だ。田舎育ちなんだから仕方がない。だからエアコンだっていつもできる限りつけないようにしている。つけたとしても二十八度だ。でも、この日は無理だった。
「今日だけは特別」
自分へのご褒美、と呟く。いつも通り授業を受けただけなのに。
「十七度にしちまえ!」
ピピピッ、とリモコンに表示される温度をどんどんと低くしていく。更に扇風機も『強』にする。その感覚が、危ないことをしている中学生の悪ガキのようで、気持ちが高ぶってなんだか気持ちよかった。
表示される数値が十七になった時、ふと罪悪感がよぎった。結局お前には悪なんて向いてない、と指を差されるようだった。
「ま、節約してるしな……でも、しゃあねえか。これくらい別にいいだろ。ほんの数十円や数百円」
更に俺はテレビをつけた。今から先週見逃がしたドラマの再放送があるのだ。また「自分へのご褒美」と呟きながら音量をいつもより少し大きくする。
来月、俺の彼女のが誕生日を迎える。それも、記念すべき二十歳の誕生日だ。
それまでにはなんとかお金を溜めておきたい。
おそろいのネックレス。
誕生日プレゼントにそれを買ってやる、と俺は三か月前から誓い、頑張ってきた。いつもは週二、三でしか入っていないバイトも、週五日は入った。いつもは外食中心の生活だったのに、倹約な自炊を中心に置くようにした。クーラーだって極力つけなかった。
俺は両親のお金で大学に来ている。家賃も払ってもらっている。
それ以外は全て自分だ。
母さんは「勉強と稼ぎの両立は難しい」とお金を俺に払おうとした。でも、おばあちゃんがそれを止めたのだ。あんなやつに金なんか払うな、飢え死にさせてしまえ、と。
そう。俺とおばあちゃんには確執がある。
昔から、俺はおばあちゃん子だった。俺が生まれてすぐにおじいちゃんが亡くなってしまったせいか、おばあちゃんは二人分の愛を注いでくれたように思える。俺が「欲しい」と言ったおもちゃは両親に内緒で買ってくれたし、色んな知識だって教えてくれた。ちょっとした知恵袋から、お父さんがどうしても話してくれない少年時代の恥ずかしいエピソードまで。
――大人になったら、この家の田んぼを継ぐ!
俺は物心がついた時から度々そう言ってきた。父方の家系が代々継いできた田んぼを自分も継ぐ運命にあると疑わなかったし、将来の夢として胸を張るほどにその時が来るのが楽しみだった。
その俺の夢を聞く度、おばあちゃんは嬉しそうに顔に皺を寄せた。それはもう、菩薩のように、月のように、安らかで、綺麗で、かわいくて、若返ったような色気があって。そんなおばあちゃんの表情を見ていると、俺も嬉しかった。だからこそ何度も何度もしつこいほどに繰り返したのだろう。
でも、大学生の俺は今、東京にいる。
高校二年生の時、進路を誰もがぼちぼち考え始める夏のこと。俺は初めて東京に足を踏み入れた。好きなロックバンドのライブを見に行くためだ。
初めて生で見た大都会は、煌びやかだった。あちらこちらが銀色に、金色に輝き、想像以上に狭い空さえも神がかって見えた。
更に、ライブは凄かった。あんな大きな音に囲まれるのは初めてで耳が痛かったが、それを遥かに凌ぐ胸の揺らぎがあった。
そして、俺はロックに目覚めてしまった。
ギターが欲しい、とおばあちゃんに言ったら買ってくれた。安物ではあったが、俺はそんなことお構いなしに心で弾き続けた。夕食後に練習していると、お父さんが「うるさい! 何時だと思ってるんだ!」と叱りに来たこともあった。そこで初めて時計を見ると、いつもならとっくに熟睡している時間だったり。
その時間の流れに、俺は魅了されてしまったのだ。田んぼ仕事で感じたことのない、流れるように疾走する時間。それは、まるでハヤブサになって風を感じるようだった。
俺は決意した。音楽の道に進もうと。ギタリストになって、自分の知らない世界を回ろうと。
でも、それを両親やおばあちゃんに伝えることはなかなかできなかった。ひとりで沸々と魂を燃やし、ギターを握り続けることしかできなかった。周りの友達はみんな受験や部活で忙しくてバンドは組めなかったが、いつかバンドを組んだ時に胸を張れる実力をつけてやろうと、逆にそれがより一層俺のハートに火をつけてしまったのだろう。
元々勉強はできる方だったので成績はあまり落ちなかった。田んぼを継ぐことを目標としていても、おばあちゃんが言った「勉強が役に立つのはちょっと先の受験と、遠い遠い未来」という言葉を信じ、小さい頃から勉強は積極的にやっていたのだ。もちろん、それでおばあちゃんが喜んでくれるんだから、俺は満足すぎるくらいに満足だった。
だが、三年生になって周りの連中が部活を引退し、勉強と真剣に向かい合うようになると、さすがに相対評価は減った。でも「どうせ田んぼを継ぐんだから」と母さんたちは叱ったりしなかった。俺が音楽を学びに上京して専門学校に入りたいなんて、これっぽっちも思っていない無垢な横顔が、少しずつ俺を蝕むようになってきた。
いつかは絶対に話さなくちゃいけない。親の同意なしでは進学なんてできないし、学費だって必要だ。
友達たちがそろって塾に入り、誰も俺を見向きもしなくなった八月。俺は遂に自分の本心をぶつけることにした。俺が目標にしているロックバンドも「本当の気持ちを本気でぶつけられないやつに、本気で何かに打ち込むことなんてできるのか?」と歌に乗せているんだから、俺はやるしかない、と。
夕食が終わった後、俺は立ち上がり「話がある」と切り出した。もちろん、自分の夢の話だ。
母さんも父さんもおばあちゃんも、みんな唖然としていた。それも当然だと思う。自分がその立場だったとしたら、きっと同じだっただろう。あるいは、大反対したかもしれない。
だが、最初に口を開けた父さんの言葉は意外なものだった。
「そうか。頑張れよ」
すると伴侶の母さんも「うん」と続けた。「陸斗がそうしたいならそうしなさい。学費を払えるだけの財産はあるんだから。いいわよね、おばあちゃん」
彼女がそう言っておばあちゃんに微笑みかけた時だった。
「駄目よ!」
おばあちゃんは今にもちゃぶ台をひっくり返しそうなほど顔が熱い血に染まっていた。
「田んぼの後継ぎはどうするの! この家の歴史は! それに陸斗、小さい頃からずっと後を継ぐのが楽しみだって、夢だって言ってたでしょ!」
俺は言葉を失った。その言葉が最も返って来るにふさわしいと思っていたのに、おばあちゃんのあまりの見幕に愕然としてしまった。般若や金剛力士像なんかでは片づけられないほど、その顔は、眼球は、奥の奥から燃えたぎっていた。
そんなおばあちゃんの顔を、俺はこの時初めて見た。思い出しても思い出しても、笑顔の記憶しか引っ張りだせない。
いいじゃない、と母さんと父さんが説得を試みるものの、おばあちゃんは一向に引こうとしなかった。そこには亡きおじいちゃんたちが守り継いできたものへの愛情が深く込められていたのだろう。
しかし、この時の俺は少し頭に血が上ってしまっていた。そこまで反対するか、と。自分の大事な大事な孫の選択を、そこまで反対するか、と。
「わたしは今までずっと陸斗を応援してきた」
おばあちゃんは立ち上がり、充血した目で俺の目をギロッと覗いた。
「甘やかしてきた。いや、甘やかしすぎてしまった! 音楽の道に進みたい? もう一度言ってごらん、そしたら、あんたは出《、》来損ないよ」
ちょっとおばあちゃん、と両親は制しようとしたが、おばあちゃんは本気だった。その目を見れば分かる。今まで見たことのない鋭い眼だ。若々しく、でも後ずさってしまいそうなほどの貫禄がある、力強い眼。
でも、俺だって本気だ。引き下がるわけにはいかない。
「音楽の道に、俺は進みたい――」
「この出来損ないが! 出て行きなさい! 今すぐに!」
更におばあちゃんは勢い任せに叫んだ。
「裏切り者!」
分かり切ったことを言われると腹が立つ。それは、宿題をやろうとした時に「宿題をやりなさい」と言われるとしょげるのと同じようなものだが、その感情は俺だけのものなのだろうか。
とにかく、俺の頭にも一気に血が上ってしまったのだ。
「裏切り者で悪かったな」
間にテーブルさえなかったら掴みかかっていたことだろう。老いぼれた老人だろうが関係ない。
それができなかったせいか、俺もその場の勢いで、絶対に言ってはいけない一言を発してしまったのだ。
「死ねババア!」
あの時の自分は馬鹿だったと思う。本当に馬鹿で間抜けで、どうしようもないやつだった。でも、どんなに悔んだところで後悔は先に立ってくれない。過去にだって戻れない。
それから俺は家を出た。その次の日には後悔に襲われて吐き気がしたが、今更戻れる気もしない。こっそり母さんや父さんと電話しながら、こっそり喫茶店で会ったりしながら俺は進学の話を進め、学費と家賃だけは払ってくれるようになった。生活費は自分で稼ぐように、そこまで支援してしまうとおばあちゃんにばれちゃうから、と母さんは悲しそうに何度も虚ろな目で唱えていた。
結局、俺とおばあちゃんは深い確執を残したままだ。あれ以来一度も顔を合わせていない。母さんは「おばあちゃんが頑固でごめんなさいね」と会う度に言った。ボケてきたのかしら、と付け足して。
母さんと父さんは俺が仲直りしたがっていることをおばあちゃんに何度も伝えたらしい。一回ではなく何度もなのだから、その反応の悪さはわざわざ説明するまでもないはずだ。
「はあ」
何度思い出しても、溜息しか出てこない。
時計を見てみるとあと二分でドラマの再放送が始まる、という時だった。
――ピリリリリ。
俺のケータイが鳴った。電話だ。
「母さんからだ」
もうすぐ楽しみのドラマが始まるというのに、間が悪いな。
はいはい、と足の指で扇風機の風を弱めながら電話に出る。
しかし、その向こうから聞こえてきた声は、今の俺とは正反対の緊迫したものだった。
《今すぐにこっち戻ってこれる?》
「な、なんだよ急に」
あまりに意外な言葉に、向こうの空気に口調を合わせることさえ俺は忘れてしまっていた。
《だから、戻ってこれるお金はある?》
「どうして?」
《さっき、おばあちゃんが倒れちゃって》
え?
急速に体が冷えていくのを感じた。もちろん冷房のせいではないだろう。
《救急車に運ばれて、いま手術中なの》
だから、来てくれない? と母さんはこそこそとした声で続けた。《もしかしたら、もうおばあちゃんと仲直りできなくなるかもしれないよ》
「……でも、おばあちゃんは俺となんて会いたくないんだろ?」
自分でもどうして自分を否定しているのか分からなかった。仲直りしたいのに、仲直りしたくないみたいじゃないか。
《おばあちゃんだって本当は仲直りしたいと思っているはずよ。私やお父さんと通してじゃなくて、陸斗と直接話し合って》
「……」
確かに、俺は逃げていたのかもしれない。あの時初めて見せたおばあちゃんの険しい顔をまた見てしまうかもしれない、ということから。
《もう一回訊くよ。戻ってこられる?》
――本当の気持ちを本気でぶつけられないやつに、本気で何かに打ち込むことなんてできるのか?
俺とおばあちゃんの関係を悪化させたバンドの歌詞がよぎる。確執を生んだのもこの言葉だが、この苦くて硬い確執を失くすのもこの言葉な気がした。
俺は、おばあちゃんに心から謝りたい。
その気持ちを、ぶつけたいんだ。
「分かった。今すぐ行く」
俺は鍵と財布、そして交通費を引き出すための通帳を持って家を飛び出した。
いくら慌てたところで新幹線が早く来るはずもないのに、プラットホームで落ち着くことなんてできなかった。中に入っても「もっと早く」と念じてしまっていた。無駄な足掻きだと分かっていても、せずにはいられなかった。再放送のことなんて頭には全くなかった。
その後、降りた駅からバスに乗った。一分だけ遅れたこいつを蹴り飛ばしたいのは山々だったが、「そんなことしただけで更に遅れるだけだ」と自分自身に言い聞かせた。そうでないと、すぐにでも潰れてしまいそうだった。
こんなことをしている間にも、おばあちゃんの命が削れているのかもしれない。
そう思うと、バスの中で貧乏ゆすりを止める気になどなれなかった。他の乗客に冷たい目線を浴びせられようが。とりあえず、気を紛らわせるためにケータイを開き、彼女に事情を説明するメールを送った。
病院に着いた頃には少し暗くなっていた。走りたい衝動を抑え、早歩きでロビーへ向かう。看護師に案内されて病室に入ると、両親がしゃがんでいた。両の目に、水を含ませて。ベッドに倒れている人の顔が白い布で隠されているのを見て、全てを悟った。
やっぱり、後悔は先に立たない。
二人によると、すぐさっきまで意識はあったらしい。少しだけ話をしたそうだ。
その内容を、二人は教えてくれなかった。
そこでまた、俺は悟った。
学校に連絡を入れ、俺は一週間休みを貰った。おばあちゃんとの思い出の実家に泊まることにしたのだ。
久しぶりの家の空気は、深呼吸してしまうほど綺麗だった。この重たい雰囲気さえなければ、どんな病気だって直りそうなほどだ。
でも、いるはずの人がいないことは、深呼吸では埋められない。そこにあるのはあまりにも静かで虚空な時間だけだった。
翌日には葬式があった。初めて着た喪服はお世辞にも気持ちがいいとは言えず、むずむずした。
両親を含め、たくさんの人が泣いていた。やっぱりあの人は笑顔の美しい人だったんだと、改めて思い出された。
俺は泣きこそしなかったが、泣きそうにはなっていた。もう動かないその人を見ると、色々な思い出がこみ上げてきたのだ。不思議と、その中にあの夜のことは含まれていなかった。
「ほんとに、いないんだな」
おばあちゃんはいつも家にいた。四六時中ずっと、というわけではないものの、二十四時間以上いない日なんて俺の記憶にはなかった。
そのせいか、懐かしいという感覚より空間にぽっかりと穴が空いているような印象の方が強かった。
真っ赤になった目とその周りがいつまでも元に戻らない両親を見ていると、そうなっていない自分が申し訳なかった。そのせいか、居ても立ってもいられず、傷心の父さんの代わりに俺はずっと農作業をしていた。
DNAにまで染みついているこの作業は、ペットボトルのキャップを閉めるみたいに、ピタッとはまる感覚があった。音楽についての勉強なんて慣れない仕事よりも、ずっと落ち着いてはいられた。しかし、時間の経過は遅い。耳には土を踏む音、セミの鳴き声、時折通る軽トラのエンジン音くらいしか音楽はない。退屈と言ってしまえばそれまでだった。自分で動いているのではなく、動かされているような感覚。
やっぱり俺、音楽をやりたいんだな。
そう気付いたのは都会に帰る前、最後の作業の時だった。
「ひとつ、訊いていいか?」
最後の夕食を食べ終え、俺は両親に向かって重たい口を開けた。
「おばあちゃんは、最期になんて言ってたんだ?」
お父さんとお母さんは食器を片づける手を止めた。そして不安げに眉を曲げ、互いに顔を見合わせた。
この頃には二人も事実を受け止め切れていたのか、悲惨な目の周りは随分と元に戻っていた。
しばらく痛々しい沈黙が流れた。つまり、両親は閉口してうつむいたのだ。
「お願いだ。教えてくれ」
これは、俺の覚悟だった。決断だった。
「知らない方がいいことなのは分かってる。でも、自分の信じた道を、父さんと母さんが背中を押してくれたこの道を、まっすぐ突き進むために、俺はそれを知らなければいけない気がするんだ。現実を受け止めて、俺は前に進みたいんだ」
両親は顔を上げ、互いを見合った。二十年も連れ添っているからなのか、一切言葉を交わさなかったのに、同時に頷きあって俺と目を合わせた。
「分かった」
先に切り出したのは父さんだった。
「そんなに言うんなら、教えてやろう」
「はい」
それでもまだ父さんは躊躇っているように思えた。
すると、その寂しい背中を母さんがぽん、と優しく撫でるように叩いた。
二人の間でどんな以心伝心があったのか、俺には分からない。でも、踏み出す決心ができたのは息子の俺にも伝わった。
「あいつだけは死んでも許さない。わたしが死んだら、化けて出てやる」
一人暮らしのアパートに辿りついた時には午後十一時を回っていた。向こうでは真っ暗なこの時間も、こっちではまだ明るい。しかし、綺麗な明るさじゃない。薄汚れていて、思わず咳を繰り返したくなるような暗い明るさだ。
どことなく息苦しいのはどうしてだろう。都会の空気のせいか、それとも聞かなければよかったと吐き気に襲われているせいか。
ただ、後悔はしていない。あの言葉を聞いて、何かが吹っ切れたような気がする。
俺は、絶対に夢を叶えてやる。
そう心の奥底から奮い立っていた。
異変を感じたのは、自分の部屋の前に立って鍵穴に鍵を入れた時。
「ん?」
中から何か音が聞こえた気がした。
「……気のせいだよな」
鍵を回し、開錠する。そして、戸を引いた時。
「えっ」
ゾッとした。確かに何か音がするのだ。人がたくさん集まって、談笑しているような。
しかも、足首から太ももにかけて蟲が這うような冷気が、半開きの扉から漏れているのだ。
――幽霊が出ると、部屋の気温が下がるんだって。
そんな馬鹿な。
一度、扉を閉めた。
「なに、これ」
意味が分からなかった。
なんだ、あの声。誰かが中にいるのか? いや、ここを出ていく時、しっかりと鍵を閉めた記憶はある。それに、あの冷気はなんだ?
――わたしが死んだら、化けて出てやる。
父さんから聞いたはずのその声が、何故かあの日の険しいおばあちゃんの声に変換されてフラッシュバックした。思わず鳥肌が立ってしまう。
「馬鹿な、そんな馬鹿な話……」
再度ノブに手をかけ、扉を開ける。そこには確かに人の気配と冷気がある。
息を飲んだ。ゴクリ、と骨を伝って全身に響き渡る。
勇気を振り絞って俺は中に入り、音が鳴らないように扉を閉めた。どうして自分の家なのにそんな配慮をしたのか、自分でも分からない。
なんだよ、これ……。
寒かった。夜でも暑い都会の夏とは思えない、冬のような寒さだ。
その時だった。
アハハハハ!
この耳に、確かにその笑い声が入った。しかも、一人や二人の声ではない。この部屋に収まりきらないほどの数の笑い声だった。
この部屋は扉を開けると右にキッチンがあり、左にユニットバスがある。その先にはすりガラスの扉があり、向こうに部屋があるのだが。
俺は戦慄した。そのすりガラスがカラフルに光っているのだ。青、黄色、緑、赤、紫。
「誰か、いるのか……」
そう声をかけるものの、すりガラスの向こうにまで届いていないのか、誰かが変わらず喋り続けている。扉で音がこもっていて何を喋っているのかは分からない。すると、
アハハハハ!
また狂喜的な笑い声が大量に鳴った。それが全て自分を嘲笑うように聞こえる。
この扉の先で、あり得ないほどの人数が一斉に俺に向かって指を差して笑ってるんじゃないか。
「そんな馬鹿な……」
自分で考えて、自分で否定した。いや、否定せずにはいられなかった。
すりガラスに映る光は常に変化していた。少しずつ変化する時もあれば、パッと切り替わるように色全ての位置が変わることもあった。
――わたしが死んだら、化けて出てやる。
脚が震えた。
なんで脚が震えてるんだ? ――そうか、寒さのせいだ。この寒さのせいに違いない!
じゃあ、なんで寒いんだ?
――幽霊が出ると、部屋の気温が下がるんだって。
すると、より一層脚が震えあがった。
足首を、太ももを、手首を、脇を、背筋を、氷が歩いているような。
やめろ……やめろ!
体のあちらこちらに爪を立て、引っ掻いていく。痛い。なのに、その寒さは消えない。
なんだよこれ、なんだよこれなんだよこれ!
すると、また爆発するような笑い声が上がった。
「……」
この扉の先には、何が……。
唾をごくりと飲み込む。冷や汗がツーッと右目の外へ落ちていく。
扉の取っ手を右手で掴む。金属製のそれは、夏ではありえないほどにひんやりしている。
勇気を振り絞れ。振り絞るんだ。
そして、取っ手を回し、戸を押す。キィ、と耳に触る音と共に、また爆笑の声が上がる。
「誰だ!」
勢いまかせで、その扉を開けた。ガシャン、と何か音がしたが、そんなこと気にならない。何故か目を瞑っていた俺は、ゆっくりと瞼を開く。
そこには、誰もいなかった。しかし、声は聞こえる。
「えっ……」
右下に目を向けると、テレビが付いていた。見たことのあるタレントが楽しそうに何かを喋っている。そして、
アハハハハ!
あの笑い声が上がる。
「……」
それに加え、ガラス片のようなものが散らばっているのが光の反射で見えた。悪い予感がして自分が開けたすりガラスに目を向けると、無残に割れていた。
「……あっ」
さっき勢いよく開けた時……。
次に、テレビの声の中、微かに「ウーン」と低いノイズのような音が鳴っているのが耳に届いた。
ふと顔を上げ、その音のする方向を見ると、クーラーがあった。電気のついていないこの部屋では、電源がついていることを知らせるランプがよく見える。
「……まさか」
一週間前の自分が思い出される。
――今日だけは特別。十七度にしちまえ!
「で、電気代……」
俺は、膝から落ちた。
電気のつけっぱなしには気をつけましょう、というお話。