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さよならの代名詞  作者: ふとん
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連体詞

 カリと鳴ったのは、最近漬け始めたたくあんである。

 口の中でほどよく鳴って、香ばしい味が舌で転がる。

 近所の婆さんからもらい受けたぬかで漬けたが、良い味が出ている。

 真面目な感想を玄米茶で飲み干して、ビニールシートに足を投げ出す。その傍らで雪のように花弁が舞い落ちた。

 うららかな日和の中、何が寂しいのか桜の木の下で弁当を広げているのである。

学生にとって、短いのか長いのかわからない微妙な日程で差し込まれている春休みという時間は、新学期への鬱屈を保留にしてくれる長い連休である。

 だが、今、青春時代の大切な時間を花見という、これから先どれだけ体験するのか考えただけでもうんざりするような行事に従事している。バイトもせず、友達と遊びにも行かず、新学期に向けて英気を養うこともせず、花見というより宴会に近い不毛な馬鹿騒ぎに繰り出しているのである。

「なんて虚しい……」

 思わず俳句でも詠みたくなるような溜息をついて、柚海は今を盛りと咲き誇る桜を見上げる。

 老人会の世話役を務める祖父に付き合って、世の中の酸いも甘いも熟知した老男女達と共に演歌の苦労台詞に耳を傾ける。

今年十八になろうかという少年に、人生の辛苦は重すぎるというものだ。

 淡い桃色の花の群れは僅かな風にも揺れて、ひとときの装いをけずられていく。

「ユーミちゃーん」

 聞き慣れた間抜けな呼びかけは、花びらと一緒に柚海の興も削ぎ落とした。

 渋々ふりかえって目に入るのは、いつも眼鏡におさげ姿の幼なじみではない。

桜をあしらった振袖を着た美少女がこちらを覗きこんでいる。小鹿か子猫かのような大きな瞳、桜の花びらのような薄化粧した唇、滑らかな肌、腰まで届く濡羽色の髪。楚々としていれば良家のお嬢様にも見える。だが、

「帯ほどけちゃったのー。結んでー」

 寝ぼけた口調は間の抜けたリスである。生まれた時から付き合いがある幼なじみは、自分の容姿を裏切る言動で人を幻滅させてくれるのだ。

「……何をどうしたら帯がほどけるんだよ」

 溜息混じりに立ち上がり、見事にほどけた帯に手をかける。普通に崩れたのではない。故意にほどかれたようで、帯をここまで引きずってきたらしい。

「この阿呆。引きずってくる奴があるか」

「だぁってぇ。ユミちゃんが遠くでぽつんとしてるから探すの時間かかったんだよー」

 面倒臭い手順を繰り返しながら、溜息が出る。朝からこの調子なのだ。

「ツカサー」

 ぎこちない発音で、お色直し中の美少女の名を呼んだのは、金髪の異人である。

 背は低くないはずの柚海が頭一つ分小さく見える偉丈夫は柔らかな金髪をかきあげて、エセ美少女、司の前に立つ。体の割に容姿は繊細で、高い鼻の上に優しげな双眸がついている。

「フロイライン。さっきハつきあってもらってアリガトーね。たのしかったヨ」

 彼は、一週間前から柚海の寺にホームステイしているドイツ人である。寺の住職である、柚海の祖父は自治会の世話役でもあるので、このたび留学中の外国人を受け入れるという試みに自ら手を挙げたのだ。異文化交流などと高尚なココロザシを掲げてくれたのは良いのだが、彼が日本文化に持っている偏見や確執を解消してきたのは、志を掲げた本人ではなく、柚海である。

「ミカエル」

「はい。シショー」

 すでに大学院を卒業しようかというミカエルだが、柚海を異国の師匠と呼んではばからない。柚海にしても、自分よりも目上のはずの彼が、青い目をした大型犬に見えてきていたりもする。

「司と何やってたんだ?」

「え、あーソレは…」

 急に慌てた様子でミカエルは金髪を掻いた。わざわざ定期的に髪を染めている柚海を嘲笑うかのような、薄い色素の金色だ。

「悪代官ごっこやったんだよね」

 悪びれもせず、司は笑う。

「ミカちゃんが帯をひっぱってグルグル~ってね」

司は後ろで呆れる柚海に見向きもせず、体をくねらせ、下手くそな演技を始めた。

「あれ~およしになってぇ」

わざとらしい甲高い声を張り上げたかと思うと、今度は何かをひっぱるパントマイムで皮肉げに口の端を歪ませ、低い声に切り替える。

「よいではないか~よいではないか~」

「………」

 無言で見守る観衆に、司は何かをやり遂げた充足感に満ちた笑顔で応えた。

「ってね。私もさっきやったんだよ。ミカちゃんに帯巻いて」

「ツカサ!」

 顔を青くして、ミカエルは叫ぶ。

 華やかな帯は、今朝よりも美しく、華やかに出来上がった。

 逆に柚海は顔を歪めて踵を返す。

「――……俺は帰る」

 何が悲しくてこんな茶番に付き合う必要がある。

「渡瀬」

 淀んだ空気に割り込んできたのは、ジーパン姿の同級生だった。

 質実剛健が学生服を着て歩いているような勧善懲悪で有名な生徒だった。名を山下正樹と言って、まことしやかに囁かれる渾名は正義の味方という。正樹をわざと音読みしただけの渾名だが、彼の性格はその名の通りなのである。

「もういいのか? 店」

 尋ねると、山下は柔らかく笑った。山下は休日、露天商の伯父さんを手伝ってアイスクリームを売っている。

「伯父さんが昼休みくれたんだ」

「山下くんのお店って? 行ってもいい?」

 司は悪びれもせず割り込んでくる。

「いいよ。――にしても、今日はどうしたんだ? 有田」

 山下は司を眺めて、少し驚いたように目を丸くする。

「ユミちゃんに着せてもらったのー。今日はお稽古があったから」

 袖を振り回して、司は主語のない会話をするので、柚海は補足する。

「……こいつ、ガラにもなくお茶長いこと習っててさ。今日は野点があったんだ。だから着せてやったんだよ」

 普段、司一人で着物をきていくのだが、今日は面倒な結びをしてほしいというので柚海が手伝ったのだ。

 近所に祖父の知り合いの師範がいるので、司と二人で物心つく頃、行儀作法が身に付くからと習いにいかされたのだ。最近、柚美はあまり顔を出していないが、司は毎週、師範の教室に通っている。

 柚海の補足説明を聞いて、山下は頷く。

「いい嫁になるよ。渡瀬も」

「……嬉しくない」

「とんでもナイです! 家事をできるヒトはもてますヨ! シショー」

 ミカエルが慰めのつもりか声を張り上げてくれた。

 頭痛が起こるのをこらえて、柚海はこめかみをほぐす。

 山下は柚海の頭痛を察してか、ミカエルに向き直ってくれた。

「こんにちは。ヘル・ミカエル。どうですか? 日本の生活は」

「コンニチワ。マサキ。ヘルはつけなくてよいですヨ」

 前置いて、ミカエルは山下と握手する。

「日本のセイカツとても興味深いデス。シショーがたくさん教えてくれます。ツカサもワタシと遊びながら教えてくれます」

 ミカエルは目を輝かせて笑う。

「サクラ、とても美しいデス。でも、おテラで咲くボタンが早く見たいデス」

「ぜひ。咲き始めが綺麗ですから。有田と一緒に見るといい。彼女は写真をとるから」

Ja(ヤー). ツカサの写真はスバラシイです。ニホンの四季がウツシとられていて」

 だが、司の写真に桜の写真はない。

 柚海はミカエルと山下の会話を聞きながら、司のアルバムを思い出す。

 司が写真を撮り始めて、五年が過ぎようとしているが、彼女が桜にレンズを向けたことはない。

「そういえば、結局ミズキはお花見にこなかったねー」

 司が何時の間にか柚海の隣に並んで、ぼんやりと呟いた。

「そうだな」

 柚海も胡乱な応えを返して、舞い散る桜を眺めた。

 司の唯一の女友達、千川瑞季は、春休み前に高校を突然やめたばかりだった。



          ※


 春は桜。

 誰が言ったか、日本人はこの桜という花を好む人が多いという。

冬の間固く閉じたつぼみは枝にびっしりと、冬眠中の虫のように張り付いて、春の陽気に誘われてぽつりぽつりと咲くのは白い癌である。

それは日を追うごとに増殖し、枝を埋め尽くす。枝を満たして喰らい尽くすと、飽食した花は貪欲に栄養を求めて葉へと居場所を明け渡すのだ。

役目を終えた花は自らの勝利を祝うかのように空へ大地へ凱歌を飛散させる。

自己主張の強すぎる花だ。

 それは、母に似ていた。

 生存競争と名が付けば、何をやっても許されると思っている彼女は、仕事の肥やしに家庭を選んだ。自分の家は、ただの物置程度にしか考えていない。自分の夫はステータスと体良い金ヅル、自分の娘は動く着せ替え人形だ。

 彼女が求めるのは、富と名誉とほどよい刺激で、満たされれば満たされるほど、枯渇していく。花が散った桜には、本当の飢えが始まるものだ。

 父はこの桜を愛でてしまった。

 花の散ったあとこそが長いというのに、気がついた時には、彼は後悔しか持っていなかった。

 安らぎを家庭に求めているくせに、自分の不幸は家庭から始まったと嘆くのだ。

彼にとって、家庭は屈辱の場であり、妻は鬼のような債権者で、娘は無言で自分の不運を語る造形物である。

そして誰もいなくなった。

マンションの部屋はその見取り図通りに薄ら寒い無人の空間を広げる。

小さな一人用のソファには充分過ぎる部屋だった。

六つある部屋に家具があるのは、このリビングと寝室として使っている一部屋のみで、あとは埃も出ない空き部屋だ。

目に入る家具といっても、台所に冷蔵庫と電子レンジ、ダイニングのカウンターテーブルに備えたカウンターチェアが一脚、リビングにソファと電話、寝室にベッドと机とパソコンがあるだけだ。備え付けの広すぎるクローゼットには半分だけ衣類が置かれて、持ち物という持ち物は全て収まった。

二十階建ての十八階はそれでなくとも静かな部屋をほとんど静寂に保つので、常にМDコンポが低い音楽を奏でている。テレビはない。新聞だけが、外界を知る手段だった。

気分が悪くなるほど静かな生活だ。

凪いだ空間はひたすら沈黙を守り、吐き気すら虚空が飲み込んでいく。

いつしか慣れたこの生活は、確かに居心地の良いものだったが、同時に今まで手の中にあった全ての物が色褪せていった。急速に彩りをなくす世界は四季を無くして、母に似た桜も区別がつかなくなっていた。

 瑞季がこの一人暮らしを始めてすでに四年が過ぎようとしていた。

 一人用のソファに腰掛け、窓越しの晴れた空をじっと眺めてもう半日を過ごしただろうか。

 春の晴れた日は出かける気が起こらない。

 暖かな陽気はそれだけで瑞季をどうしようもなく不愉快にさせる。

 締め切った部屋に暖気がとぐろを巻いて、冷めているはずの静寂をかき乱すのだ。


 どうしてお前はここにいる。

 なぜお前がここに生まれた。

 お前のせいでこんなに不幸なのに。

 お前がいるせいで。

 どうしてお前は。

 なぜお前が。

 お前のせいで。

 なぜ生まれた。

 どうしてここにいる。

 お前のせいだ。

 お前がいるせいで。

 お前が。

 お前が悪いんだ。


 瑞季は携帯だけつかんで外へ飛び出した。





「これでいいわね」

 薄い紙切れを差し出した母が瑞季に一瞥をくれた。

 四十路にさしかかろうという彼女だが、一分の隙もなくスーツを着こなす姿はまだ二十代にも見えた。だが、整った化粧の冷たい仮面は張り付いた年月に合わせて瑞々しさをなくしていた。

「じゃあな」

 にこやかに父は瑞季に紙切れを差し出した。

 逆にどうしようもなく老け込んでいた父は、今や母にも劣らないほど若々しくなった。全ての重荷から解放されて仕事も軌道に乗り始めたのだ。

 瑞季はいつもどおり冷ややかに両親を見つめて、二枚の紙切れを受け取った。

 離れていく両親が残していったのは、大学卒業までの養育費支払い契約書だ。

この金欲しさに名前も知らない遠い親戚がやってきたが、弁護士立会いの元に作成された契約書には何者の委任も委託も認めていない。受取人の瑞季自身も、一定の生活費と教育費以上の金を受け取ることはできない。保証人は弁護士が務めるので、両親は金を出す以外、実質的に瑞季と接点はなくなった。

それが四年前、瑞季が中学三年の春のことだった。





マンションの近くの小さな公園には狭い広場と一本の桜がある。

以前あったブランコは、三ヶ月前に子供がブランコから落ちて頭を打つという事故が起こったので、撤去されてしまったのだ。

今は、桜の花びらで埋まっているただの広場だ。うららかな日和だというのに誰も花見に来ていないのは、ここが近すぎるからなのか、狭すぎるからなのか。

人気のない公園の真ん中に立つと、空気が鼓膜を膨張させて、風の音さえ反響させた。

瑞季は切り取った空を見上げたが、居心地の悪い暖気にまとわりつかれて公園を出た。

車さえ通らない道路の脇を歩き出す。

靴音が甲高く消える。

音は遠い。

急に不安になって足を止める。

春のざわめきが微かに聞こえた。

耳障りな囁きが瑞季を追い立てる。

走り出す。

誰もいない道を走る。

湾曲しては消えていく景色が視界の隅に捨てられていく。

加速した先の終点は、車が通る交差点。青になった横断歩道を走りかけて、目覚し時計に使うようなベルがけたたましく鳴った。

 白線に踏み出す前に、手の中の音源を開く。

 呼び出し音を鳴らし続ける携帯だ。

 携帯には誰の連絡先も登録しておらず、電話番号が表示されても誰からかわからない。

 出ないほうがよいのだろうか。

 コールは二十回を超えて、未だに瑞季を呼び続ける。

 信号は赤に変わっていた。

 誰であろうとかまわない。

 瑞季は通話ボタンを押した。

「はい」

 受話器に向かって呼びかけた声は、驚くほど低かった。

『千川?』

 応えたのは、これほど近くでは聞いたことのない声だった。

「……山下くん?」

 軽い動悸が驚きを伝えた。

「どうしたの?」

『有田に電話借りた』

「司に?」

 彼女には、今日、花見に行こうと誘われていた。だがそれは断ったはずだ。

『花見にこないか』

「それは…」

『渡瀬も有田もミカエルもいるから。暇ならこないか』

 学校では顔をあわすこともなくなった金髪の不良はまた、司の突飛な思いつきに付きあっているのだろうか。

 思わず苦笑が漏れた。

「渡瀬くんも大変ね」

『忙しいのか?』

「……ミカエルさん、日本語うまくなったね」

『ああ。有田と悪代官ごっこをやったらしい』

「あはははっ。司、着物きてるの?」

『野点のあとすぐに来たようだから。振袖きてるよ』

「いいな。私も着てみたい」

『着せてもらえよ。渡瀬が着付けてくれる』

「渡瀬くんが? ホントに器用だね」

 信号が変わった。だが、瑞季はその場を動かなかった。

 携帯に足止めされて、踏み出す気力はすでにない。

『千川?』

「……私、お父さんに会ったの」

『今日?』

「一週間前。再婚するんだって。若い人なの。十歳ぐらい違うのかな」

『春休み前だな』

「そう。でね、結婚式に来てほしいって」

『式に出ろって?』

「うん。……お父さん、その人と付き合ってもう七年になるんだって。それ、私が一人になった三年も前でね……」

『…………』

「今日、その結婚式なの」

『………』

「おめでとうぐらいは言ったほうがいいよね。だって、おめでたいことなんだし。お母さんのわがままに付きあって、本当にお父さん苦しかったのよ。だから…」

『千川』

「再婚するから、養育費は払えないって。当然よね。別の家族の人になるんだし。お母さんもね、新しく会社興すから養育費はもう打ち切りにするって…」

『おい』

「大学までの教育費はまとめて払ってくれるんだって。でも私、これから自分の生活費稼がなくちゃならなくってね。これからどうしようって…」

「趣味悪いことして、悪かった」

 電話は切れた。

 代わりに正樹の声が遠くなった。

 振り返ると、正樹は携帯電話を手にこちらを眺めている。露店の仕事の途中なのか、ジーパンに薄手のシャツ姿だ。

 彼はまっすぐ瑞季を見下ろして、少しだけ眉根を寄せた。

「悪かったな。高校やめた理由、気になってたんだ」

 本当は金などいらなかった。

 欲しいものは絶対に与えてはくれなかったのだ。

 免罪符など、瑞季は彼等、両親に与えるつもりなどない。

 金で全てが叶うと思っているのだろうか。

 百万言費やせば片付くと思っているのだろうか。

 奪った時間を戻せるはずもない。

 傷つけた記憶を直せるはずもない。

「……私、自分の親が許せない……」

 それは、多分、人としてとても愚かなことだ。

「許す必要はない」

 断言した正樹はまっすぐ瑞季を見ていた。

「怒る必要もない」

 春の潮騒がざわめいた。

「長生きして、ゆっくりと新地にしていけよ。人を許すには、とても時間がかかるんだ」

 緩慢な気温が頬を撫でた。

「……許せるかな…」

 いつか、桜が好きになる日がくるのだろうか。

「なれるよ」

 正樹はそう、口の端をあげる。

「―――無理に笑わないで」

 瑞季も、無理に目元を綻ばせた。


         ※



「きれー。ミズキー」

 相変わらず起伏の激しい感想を漏らしたのは礼の如く、司である。確かに、ミカエルによって薄化粧された千川は司に負けず劣らぬお嬢様っぷりだ。司と並べれば、姉妹と言い張っても通るだろう。

「司、邪魔だ」

 面倒な手順で帯を結んでいるというのに、ウロウロと周りをうろつかれては、手元が狂う。

「ユミちゃんのケチー」

 司は不服そうに口をすぼめて座敷の隅に座り込んだ。

 山下が迎えに行った千川は、いつになく萎縮した様子だったが、寺の本堂で着物を広げているとものめずらしさからか、司の幼稚な言動からか、少し警戒心を緩めてくれていた。

 あまり緊張されると、着付けは難しい。というのも、楽に着せようとすれば相手が楽な姿勢で着付けなければならないからだ。

 持ってきた淡い桜の花弁を散らした振袖は司が着せて、力加減の必要な帯を柚海は締めている。

「……ねぇ」

 やたら口数の少ない千川がぽつりと漏らした。

「いい嫁になるとか器用だとかいう感想は受け付けない」

「司と渡瀬くんって、許せない人いる?」

 帯を巻き込み、くくりつけながら、柚海は肩をすくめる。

「いる。俺の誕生日にわざわざ事故って死んだ両親。祝ってから逝けっての」

「うーん。私はお兄ちゃんかなぁ。うまく撮れた写真の現像の途中で現像液ひっくり返したの」

 二人して応えると、千川は意外なことを聞いたとでも言うように目を丸くして、苦笑した。

「―――そっか。うん。そうだよね」

「現像液ひっくり返したのって一回だけじゃないんだよ? ひどいでしょー」

 どこかずれた応えを繰り返す司に千川は笑う。

「……できたぜ」

 柚海は嘆息を漏らして、千川を司の方へ追いやった。

「ありがと」

 千川はお礼のつもりか袖を振ってみせた。

「すごいね。これならお婿さん候補にひっぱりだこだよ」

「へーへー。そりゃどうも。ほら、さっさと行ってこいよ」

 柚海は締め切っていた本堂のふすまを開け放つ。

「今からなら夜桜だ。どうせ爺さんは朝まで飲む気だろうからメシにもありつけるぜ」

「ユミちゃんも行くんでしょ?」

「さぁな。―――おい。山下も戻るんだろ?」

 本堂の外でのんびりと座っている山下を見つけると、彼は少し笑った。

「ああ。……じゃぁ早く行こうか。暗くなる」

 ゆったりと薫る夕暮れの気配に、空は赤く崩れていく。

 草履を出してやると、本堂の奥から司は愛用のカメラを持ち出してきた。

「カメラなんかどうするんだよ」

 司はえへへと笑ってカメラを掲げた。

「桜の前でミズキと撮るの」

 急かす司たちの後をゆっくりと追って、柚海はいつものように頷いた。



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