形容詞
滴り落ちる雨粒は文明の利器よって行く手を遮られ、何の成果もあげないまま地面へと落ちていく。
果たして彼らに生まれてくる意味があるのだろうか。
雨という名で呼ばれるのはほんの一時のことで、寄せ集まれば川や水溜りと姿を変えられてしまうのだ。
広大でありながら矮小な大地に吸い込まれ、巨大な水溜りである海にただ喰われていく運命を背負った彼らに僅かな僥倖があるとすれば、雨という名をありのまま受け止めてくれる存在なのかもしれない。
瑞季は雨の微かな願いを傘で遮り、軽快な断末魔を聞きながら彼らが流れ落ちていく海を眺めていた。
晴れた日には遥か向こう岸が蜃気楼のように見えるのだが、今は重く圧し掛かる雲に覆い隠されて見せかけの果てない海と空の地平線が延々と続いている。
午後から徐々に強まってきている雨脚は、軽い風に煽りを受けて時折、薄布を翻すように波を打った。
ふと傍らでシャッター音が鳴る。
顧みると、瑞季と同じ制服の女子生徒がそのお下げ髪によく似合うクラシックカメラのシャッターを切っている。
瑞季には虚空にしか見えない海に向かって被写体を定めてレンズのピントを合わせる。
「晴れてれば良かったんだけど」
声をかけると一呼吸を置いてから彼女は大きめの眼鏡をかけた顔を上げた。
「いいのよー。この雨が」
嬉しそうに微笑んだ彼女は、いつもと変わらない少しとぼけた口調で応える。
司はそういう性格だった。
彼女にはどんな状況でも楽しむことのできる、楽天的ともいえるプラス思考が根付いている。
「写真、できたら見せてね」
「見てくれるの? ありがとー」
嬉しそうに声を上げる間にも、彼女はシャッターボタンを押した。
「……何してるんだ?」
久しぶりに聞く低音を聞いて、二人は振り返った。
※
司は広い座卓に写真を並べた。
その写真を覗き込んで、瑞季は思わず声を上げる。
「これ、牡丹?」
「そう。ユミちゃんのお寺の牡丹なの」
観光客が来るはずだ。紅色の大輪の華が綻ぶ姿は優美としか言いようがない。
「毎年撮るんだけど、今年は奇麗に咲きかけが撮れたの」
司は珍しく気恥ずかしそうに笑んだ。
「物好きだな」
盆を抱えて座敷に入ってきたのは、正樹だ。
普段、“正義の味方”と渾名される面向不背の堅物が、コーヒーの入ったカップを座卓に並べる姿は不自然を通り越して、まるでシュールな一枚絵を見ているようだ。
眺めていた瑞季を正樹は一瞥して、人形のように無表情な口の端を少し歪めて苦笑した。
「コーヒーはコーヒーメーカーが炒れてくれるから」
言われてようやく瑞季は、彼が料理下手だということを思い出して笑んだ。
瑞季のような、何の変哲もない女子高校生が、この個性的な二人のクラスメイトと知り合うことになったのは全くの偶然だった。
学校ではお互いに顔を合わすこともないというのに、こうして偶然に出会うとずっと前からそうだったように話し込む。今日も、たまたま防波堤に通りがかった正樹が、雨脚が強くなってきたのを見かねて、瑞季と司に防波堤から近い自宅の屋根を貸してくれることになったのだ。
「ユミちゃんは、絶対ペーパードリップにするのよ」
正樹がコーヒーと一緒に持ってきたピッチャーから司はミルクをたっぷりとカップに注いだ。
「へぇ。渡瀬君ってマメなんだね」
司が“ユミちゃん”と呼んでいるのは、クラスの中でも正樹とは別の意味で孤立している渡瀬柚海のことである。短い金髪の髪は何処に居ても目立つので、事実に基づいた悪評は同じクラスで無くとも聞こえがいい。そんな強面の不良と、このお下げ髪の眼鏡少女が幼なじみで、その上、彼は寺の跡取り息子だという。
「ユミちゃんは料理得意なの。掃除も好きだし。いつも部屋の掃除手伝ってくれるの」
案外、根は真面目らしいので、文句を言いながらも司の手伝いをする柚海の姿が目に浮かんだ。
「うらやましいな」
砂糖を三杯もコーヒーに混ぜた正樹が肩を竦めた。
「瑞季にやってもらえば?」
驚いたように司が声を上げるので、ミルクをカップに注いでいた瑞季は思わず顔を上げる。
正樹も同じように驚いたようで、司は困惑したように瑞季と正樹を見比べた。
「付き合ってるんじゃないの?」
思わぬ不意打ちを受けて、瑞季は今度こそ目を丸くした。だが、不意に疑問が浮かぶ。
瑞季は、どうして正樹と話しているのだろうか。防波堤で出会ったのも、彼の恋人の死に立ち会ったのも単なる偶然なのだ。そうでなければ、瑞季は正樹と話すことさえなかった。
そんな瑞季と正樹の関係を、いったいどう表現すれば良いのだろうか。
本気で悩みかけた瑞季をよそに、横合いから声がかかった。
「茶飲み友達」
至極冷静な声を受けて、瑞季は振り返る。
「そんなものだろう」
正樹は尋ねるように首を傾げてみせた。
そうか。そんな言葉もあるのだ。
瑞季は妙に納得して頷いた。
「それを言うなら、有田と千川は友達じゃないのか?」
問い返されて、司はきょとんと首を傾げる。
「友達だよ」
素直に頷かれて、また瑞季は納得する。学校でいつも一緒に居るわけでも、メールで長々と話し込むこともない。だが、彼女は何故か友達と言い張れる。
「あ、山下君も友達ね」
よろしく、とでも言うように、司は正樹に向かって平和な笑みを向けた。
「そうだな」
正樹は苦笑するようにコーヒーを飲んだ。
それが妙に嬉しそうに見えて、瑞季は笑い声を上げた。
※
雨の止んだ空は既に夕暮れを過ぎ、淡い光の星が浮かんでいる。海の向こうにくすぶっている陽光を尻目に、柚海は一軒の家の前に居た。
柚海には自慢できることが二つだけある。
一つは家事。もう一つは、道に迷ったことがないことだ。
携帯の液晶画面に表示されている住所を改めて確認してから、眼前の一戸建てを見遣った。
古い家だ。そう思えるのは柚海の自宅がつい最近改築されたばかりだからだが、それでも昭和初期に作られたような和洋折衷の家は古かった。錆びた鉄格子は蔓草を模していて優雅な形を誇り、奧には庭木がまるで庭園のように美しく並んでいる。その更に奧に、瀟洒なランプが薄明かりを点して、こじんまりとした、それでいて上品な二階建てを浮かび上がらせている。
眺めていると重厚そうな玄関ドアが開いた。
出てきたのは柚海と同じ年頃の男女である。三人とも同じ学校の制服姿で、そのうち二人は女で一人は男である。いずれも見知った顔だった。
「あ、ユミちゃーん」
間の抜けた声を上げたのは、お下げ髪の女だ。ずれかけの眼鏡を直そうともせず、やけにでかい鞄を抱えて庭先を危うげな歩調で駆けてくる。鉄格子に阻まれて困った顔をするので、仕方なくまだ濡れている門を開けてやる。すると彼女はリスのように眼前に立った。
「お前な、俺の都合とか考えずに呼び出すの止めろ」
有田司。不本意ながら、生まれた時から一緒という幼なじみである。
「……ホントに来たんだ」
ぼそりとした呟きに顔を向けると、髪の長い女が狂犬に向かってよくやるように緊張した笑みを返してきた。
千川瑞季。同じクラスだが、ほとんど面識はない。全くないと言い切れないのは、以前、柚海の家が経営する寺に来ていた所にばったり出くわしてしまったからだ。
「いらっしゃい」
客人にかけるなら当然の言葉だが、柚海は驚いた。
「……山下?」
思わず問い返すと、無愛想に手を振ってくれた。柚海と同じほどの上背の、ロボットめいた正義の味方。山下正樹。
何故、山下がここにいるのだろうか。
困惑を視線で司に向けると、彼女は当然と言うように頷いた。
「同じクラスの瑞季と、山下君。友達なの」
彼女とアイコンタクトを取れた試しはない。
「ここ、俺の家だから」
代わりに応えたのは当の山下だ。
「へぇ」
すんなり応答されたので、柚海は素直に応えていた。
「良い庭だな」
言ってしまってから、気づいて司達を見遣る。
案の定、司と瑞季は間抜けな顔で柚海を見返していたが、山下は無情表に目を細める。
嘲笑されるのかと思うと、山下は別の応えを寄越した。
「今度は夕方にでも来ないか」
その時、さぞ間抜けな顔をしたに違いない。
柚海は返答に困って瞬きした。しかし、山下は無表情な提案を続ける。
「庭が一番きれいに見えるし、塀に昇ると海が見える」
正直に言って興味深いものはあったが、応えに窮した。
代わりに司が小学生でも今時しないように力いっぱい手を挙げる。
「あー私も行く!」
※
寺の朝は早い。
境内の掃除、堂内の掃除、読経。
春夏秋冬問わず続く日課を終えて、やっと新聞配達の親父から新聞を受け取る。二人で朝食を終えてから住職である祖父は老人会のラジオ体操の準備に向かうが、柚海は墓地の掃除をしたその足で隣家へ向かう。
築十年は経ったと思しきこの家の住人は、年頃の娘が一人きり。しかし、合い鍵で入った柚海の目に飛び込んでくるのは、武骨な脚立類やジュラルミンケースである。
玄関先でも判るほど雑多に物が散在した一階を通り抜け、二階に三部屋あるうちの北に面した部屋のドアをノックもせずに開ける。
定着液の臭いが染みついた部屋は、朝日を嫌うように暗幕に覆われている。ピンセットやフィルムが散らばった床で秋も半ばだというのに未だに薄い布団のミノムシが規則的にうごめいている。
柚海はその布団を有無も言わさず剥いだ。
「また徹夜したのか? 司!」
剥いだ布団に未練がましく捕まったまま、寝惚け眼を持ち上げたのは長い髪の少女である。黙って座っていれば可憐な人形のような顔立ちだ。彼女は長い睫毛を眠そうに動かして、柚海の姿をその丸い目に映す。
「あ……ユミちゃん?」
「飯だ。早く起きろ」
命令口調で言うと、彼女はこくりと頷いて来ていたTシャツの端に手をかけた。
それを確認してから柚海は部屋を後にした。階段を降りると手持ちぶさたになってしまうので、ついソファの上の雑誌や新聞を片づけて、コップなどで埋められているサイドテーブルを奇麗に一掃してしまう。これを悪いクセだとわかっているのだが、やらずにはいられない。
しばらく片づけていると、先ほどの美少女とはかけ離れた凡庸な少女が顔を出す。濡れた髪は垂れたままだが、大きめの眼鏡をかけただけで印象が大きく違う。この家の二階にある風呂にでも入ってきたのだろう。先ほど見たTシャツとは違うワンピースを着ている。
「おはよー。ユミちゃん」
幼なじみの有田司である。
「……司。この前、片づけたばっかりだよなぁ?」
「うん。写真の現像してたのー」
会話が成り立たないことが請け合いのこの似非美少女が一人暮らしを始めてから既に十年以上の歳月が経っているのだが、彼女は一向にその低レベルな生活能力を上げようとしない。その代わりのように柚海が今や彼女の家のハウスキーパーと化している。いずれ自立させなければ、と弱冠十六歳で親心のようなものがついてしまった柚海は溜息をつく。
「……それに髪は乾かしてから来い!」
風邪などひかれては柚海の仕事が増えるだけだ。司からタオルを引ったくると長い髪を拭きかかる。彼女の家にドライヤーなど期待できないので、適当に拭いてから柚海の家に向かう。
洗面所で彼女の髪を乾かしてから、司を食卓に据えてみそ汁、ご飯や卵焼きなどが乗った膳を並べる。
「ったく、朝まで何してたんだよ?」
「瑞季に見せる写真を現像してたの」
納豆を混ぜながら、司は楽しそうに笑う。
舌っ足らずの口から近頃よく聞く名だった。
そのとぼけた性格から友達らしい友達を持てなかった司が、ようやく最近できた友人だ。学校で始終一緒にいるということではないらしいが、彼女達はお互いの距離感すら楽しんでいる。
「山下君の家でね、今度見せるのよ」
この名前もよく出てくるようになった。孤独の正義の味方はすでに一人ではないようだ。
柚海は妙な疎外感を覚えて苦笑する。
司のように今まで友達が居なかったことなど柚海にはない。今でこそ学内に友人らしい友人はいないが、学外であれば他県にまたがるほど交友関係は広い。三台ある携帯はいつもアドレスで溢れている。
自分は一人ではない。
だが、柚海は否定する。
自分は孤独だ。
それを確認して、失笑した。
司の朝食が終わると、彼女を家に送り出してから制服に着替えて、柚海はようやく学生らしく登校する。最近ではサボることも面倒くさいので、バイクではあるが朝から通学することにしている。家の庭先から安いバイクを漕ぎだして、まだ人気の少ない道へ飛び出した。
柚海には、すでに両親がない。柚海が十歳の時に彼等が乗っていた飛行機が墜落した。奇しくも、その日は柚海の誕生日だった。外資系の会社に勤めていた二人は何かと出張が多く、その日もようやくとれた休暇を使ってアメリカから日本に帰る途中だった。
残された柚海は、といえば皮肉にもずっと厄介になっていた馴染みある祖父の寺で、見慣れた葬式に参列することになった。その後、家事を教えてくれた祖母は十二になった年に亡くなり、祖父と二人暮らしを続けている。
だが司の場合は、柚海と同じような立場でありながら全く違う理由で一人暮らしをしている。
彼女の両親は司が十三歳の時に離婚したのである。父方に引き取られる予定だったが、彼女は家に残った。司には兄が一人いるが、年が離れているせいもあって両親の離婚には無関心だった。元々、彼は自分の両親と折り合いが悪く、高校を卒業するやいなやさっさとスイスに行ってしまった。司の小学生時代には、家庭内冷戦が続いていて、既に崩壊していたのだ。司が小学生になる頃には、彼女の家には誰もいなかった。それを考えれば遅すぎる結末でもあった。問題が起こるたびに司を保護していた祖父が後見人となって、今の生活を続けている。
同じ年に生まれた子供が、違う環境で育ちながらまるで双子のように育った。だからなのか。柚海は司が離れてしまうことなど考えもしなかった。司も柚海が離れることなど考えてもいない。
お互いを見つめる鏡のような存在。
それはいつまでも続くようで、綱渡りのように危うい関係でもあった。
十五分で学校の裏手にある駐車場にバイクを止めると、そこから柚海は空に近い鞄を片手に通用門を目指した。
※
今日は厄日だ。
苦虫を潰してさらに青汁でも飲んだような気分で、柚海は屋上の手すりにもたれかかる。
一時間目の数学で聞いていなかった問題で指名され、二時間目の日本史でたたき起こされ、三時間目の体育でたまたま蹴ったサッカーボールをチームメイトの顔面にぶつけて失神させてしまい、四時間目の古典で新米の女性教師に起こされて思わず睨んでしまい、泣かせてしまった。
妙な注目の的となった柚海は文字通り屋上に逃げてきたのだ。
だが、雲行きが怪しい。天気予報で午後から雨などという予報はなかったはずだ。
「……洗濯物干してこなくてよかった…」
つい所帯じみた台詞が口から出て、柚海は今更ながらに落ち込んでみる。そのためか、第三者の存在に気がつかなかった。
「………ホントにマメだね」
屋上を見回している一人の長い髪の女子生徒が視界に入る。
千川瑞季だった。
最近、司の友達となったこの今時風の女子高生は、他の生徒と同じように柚海を萎縮したような笑みを浮かべていた。だが、遠巻きに去っていくのかと思えば、彼女は少し離れたところで柚海と同じように手すりにもたれかかる。
「一人暮らしなの?」
尋ねられたが、応える理由が思い浮かばなかったので代わりに彼女を見遣る。先ほど新米教師を泣かせたほどの眼光を備えていたが、彼女は怯んだが逃げようとはしなかった。
だからかもしれない。柚海は自ら口を開いていた。
「俺が怖くないわけ?」
この学校では柚海は腫れ物だ。
千川は怯えた表情を隠しもせず、困ったように目を細めた。
「司はね。話すたびに渡瀬君の名前を出すの。話し始めは必ず渡瀬君の話題。“ユミちゃんがね~”で始まるの」
千川は少し笑った。そして柚海を正面から見遣る。
「だから私、渡瀬君の好きな食べ物まで知ってるのよ」
柚海も苦笑した。司らしい。
「渡瀬君ってこんな人なんだって教えてもらったら、私は、渡瀬君のこと、むやみに怖がる必要がないと思ったの。私は司の友達だし、司は楽しそうに話すから」
「……それは、あいつの主観だろ」
もっともな反論をすると、彼女は素直に頷いた。
「でも、私も、渡瀬君と話してみて怖くなくなったから」
だから、と彼女は付け足す。
「渡瀬君は怖くない」
曇天から、一筋の雫が落ちてきた。
※
バイクで帰ってきた時には、静かな雨が止めどなく降っていた。
びしょ濡れになりながら帰ってシャワーを浴びた所で、司から電話が入った。
買い物に出かけたら遅くなりそうだから迎えに来いという。
「ふざけんな」
応答の第一声はそう返したが、結局傘を二本持って柚海は家を出た。晴れていればバイクで迎えに行くことができるが、今日はそうもいかない。大人しく傘を掲げて葬式のような雨の中に進み出る。出がけに見た壁の時計は午後五時を指していた。
司は時折、何かと理由をつけ、柚海を呼び出して迎えに来させる。
彼女は一人で居ることを嫌う。
そうであることが当然であると受け止めている柚海にとっては理解し難い感情だった。
孤独でいることが常なのだ。
司にとってもそのはずだ。
寺から十分ほど歩けば、駅にはほど遠く、街中というには頼りない四車線の小規模な大通りにバス停はある。
停車場には一応、屋根があるもののそんな場所で何時来るかもわからない司を待つ気はなかった。司が降りて来るはずのバス停とは反対側のバス停近くにある喫茶に柚海は向かう。いつもは人気のない喫茶に数人の客がいる。柚海と同じような理由か、雨宿りの客だろう。秋の断続的な雨は、初夏とは違い、全てを冷やしてその後ろに控えている冬を暗示する。肌寒さはけっして雨天だけのせいではない。
カウンターに腰掛けてホットコーヒーを注文すると、柚海は雑誌を読むでも煙草を吸うでもなくぼんやりとドアについたのぞき窓から見える零雨を見ていた。
確かに、今日に限っては夜であるし、雨が降っている。
幾ら変人だと言っても、女子高校生の夜道の一人歩きは危険だと思われた。
司はまだ来ない。
両親が居ても居なくとも、柚海は周囲からいつも浮いた存在だった。
孤独はいつも隣に。
両親が死んだ時よりもずっと前から。
司も同じだ。
彼女の家族は取り返しのつかないほど離れている。まるで柚海と同じだ。
だが、それは昔のことだった。
今、柚海が司を迎えに出る理由は、本当のところ無い。
わざわざ雨の日に出て行く必要はないのだ。だが、柚海は司に言われれば何処へでも迎えにでかけた。
バスがもうすぐ着くはずだ。
柚海はカウンターに勘定を置いて喫茶を出た。軒先で傘を開く。
ドアベルの余韻が残っている。
何故、司を迎えに行くのか。
それは彼女が一人を嫌うから。
否。
唐突に思い至って、柚海は驚いた。
寂しいのだ。
柚海自身が。
孤独は恐ろしくない。
だが、寂しい。
簡単な思い込みだ。
バスが来た。
柚海は横断歩道を無視して道路に踏み出す。
司が孤独を恐れていると思い込んでいるだけで、実は柚海が孤独を恐れている。
(違う)
だが、そう認めれば、自分の中でわだかまっていた全てのつじつまがあう。
孤独が嫌いなのだ。
一人で居ることが苦ではない。ただ、嫌いなのだ。
司は柚海の孤独を埋める唯一の人間だった。
バスから降りる司の姿が見えた。
彼女は柚海を見とめて無邪気に手を振りかけたが、途端に顔色を変えた。
何かを叫ぶ。
聞こえない。
何を言っている。
柚海はすぐ側までやってきたヘッドライトに照らされて目を眩ませた。
大きな音が反響した。
意識が空間を浮遊しているようだ。
フロントガラスが鼻先で花火のように散る。
柚海は最後に正面の司を捉えて、顔をしかめた。
司が今まで見たこともないほど顔を歪めている。
司の声が聞こえない。
※
不意に、手が温かいことに気がついた。
だが、なぜ暖められているのかを考える前に毒づいた。
「……最悪」
白い天井は幾度か見たことがある。
病院だ。
鮮明になっていく意識の向こうで、急激に記憶が蘇る。
柚海は間抜けにも車にひかれてしまったらしい。
雨で視界も悪かった。ドライバーも間抜けだが、考え事をしていた柚海も間抜けだ。
気づけば、足が固定されている。体も思うように動かない。上半身ぐらいは起きあがらせようとしたが、上手くいかずにあきらめた。
不覚をとるにもほどがある。
自分が改めて一人だと確信して動揺するとは。
溜息をつくと、腕のあたりで何かが身じろぎした。
ようやく目を遣ると、司が寝惚け眼でこちらを凝視している。
彼女は怪我をしていなかったらしい。ただ、着ているのは制服だった。家に帰っていないのか。少し顔色が悪いことから見て、ロクに物を食べていないようだ。
怒濤のような心配事に促され、柚海は全く関係ないことを口にした。
「おはよう」
柚海に声をかけられてから優に十秒ほど経ってから、司は突然、跳ね起きた。
「ユミちゃん!」
と、怪我人に向かってタックルをかけようとするので、柚海は思わず彼女の顔面に手のひらを突き立てる。ちょうど柚海の手のひらに顔面を捉えられて、司は数秒もがいた。
「……ユミちゃん…ひどい……」
勢いを殺された彼女は鼻をさすりながら眼鏡をかけ直す。
「落ち着いて、座れ」
「うん……」
珍しく素直に、司は今まで座っていた丸椅子に腰掛ける。いつもとは逆に見下ろされることになって、今更ながら柚海は違和感に顔をしかめる。
司は何も言おうとはしなかった。ただ、茫然といった様子で柚海を覗き込む。
すでに病室は昼だ。そのくせ、個室には物音一つ響いてこない。
柚海は窓に視線を移した。
今日は晴れているらしい。あのものぐさな祖父が少しでも気づいて布団を干しておいてくれるだろうか。それに今日は確か隣町のスーパーで秋刀魚が安売りしているはずだ。柚も買わなくてはならない。味噌も無くなりかけだ。今日は少しだけ特別な日なのだから。
(特別な日?)
何の特別な日だったのだろうか。
「……ごめんなさい」
唐突に声をかけられて、柚海は驚いて司を見上げる。
嗚咽が漏れた。
声を殺そうとして失敗した、五歳児のように司が泣いている。
泣くな、と言おうとして柚海も失敗した。代わりに失笑して、濡れてしまった司の眼鏡を取る。受け皿を無くした涙が頼りなく柚海の手に滴った。
「ユミちゃんに……寂しい思いをさせて……ごめんなさい」
「……阿呆」
司は気づいていたらしい。
だが、柚海は少しも驚かなかった。彼女なら、気づいて当然だと思っていた。
「……いつもみたいに、ユミちゃんに写真、一番に見せるから……」
司にとって、千川は初めての友達だ。少し気負っていたのだろう。それに、わざわざ柚海に写真を見せる必要もない。現像室には毎日出入りしているのだから、司が望まなくとも写真を最初に見る他人はいつも柚海だ。
それでも柚海は頷いた。
「……ああ」
しばらくしてやって来た祖父には殴られた。
「怪我をするのは日頃の行いが悪いからだ!」
「だったら自炊してみろ!」
柚海の反論にも年を得た祖父は狼狽えもせず応えた。
「それはお前の徳をあげる唯一の手段だから、ワシは取り上げられんな」
ボケたら速攻で老人ホームに突っ込んでやる。
柚海は声には出さず、険悪な目つきで祖父を睨んだ。
その様子を見ていた司は、先ほど泣いていたことなどすっかり忘れた様子で相変わらず場の空気を読めない発言をした。
「怪我が治ったら山下君の家に行こうね」
突拍子もない提案だが、今度は応えることができた。
「気が向いたらな」
気をよくした司はポンと柏手を打つ。
「ちょっと遅くなるけどみんなでお祝いしようよ」
「……お祝い?」
「なんだ、お前、自分の誕生日も覚えとらんのか」
祖父に嘆息されて、柚海は初めて思い至る。
今日は、自分の誕生日だ。
そして、両親が死んだ日。
「おじいちゃんがケーキ買ってきたのよ」
「一番安いのから二番目な。お前には似合いだ」
そんなお気楽でいいのか。
アンタの息子が死んだ日だぞ。
言ってやりたいのは山々だが、柚海の口からは出せない言葉だ。
いそいそと柚海の脇にケーキを置いた司の傍らで、祖父が風呂敷から取り出したのは三つの位牌。ケーキの側に並べると奇妙な構図だ。
両親と、祖母の位牌だった。祖父は意気揚々と腰に手をあてる。
「さぁ、歌おうか。今日は面会時間ぎりぎりまで帰らんからな。覚悟しとけ」
司が危うい手つきでケーキに立てたロウソクに火をつけようとしている。あまりに危ないので、柚海は起きあがってマッチを取り上げる。
「迷惑だ。さっさと帰れ」
ロウソクに火をつけると、司と祖父が恥も外聞もなく、定番のバースデイソングを歌い始めた。
音の外れた歌に合わせて、柚海はロウソクの火を吹き消した。