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さよならの代名詞  作者: ふとん
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接続詞

 不満らしい不満を抱くことなく過ごしていると、季節の変わり目でふと気温の違いを感じてしまったりすることがある。

 柚海ゆうみは初夏の兆しを敏感に感じながら、窓際で寝転んでいた。

 授業中の教室は比較的静かで、まだ心地好さを留めている風が窓から入り込めば堅い机の上であっても極上の昼寝場所となる。

 だが、不思議なことに頭は眠りを誘うというのに体が反発して、眠いのか起きていたいのか判らない状態になることがある。

 まさにその状態だった。柚海は寝付けないもどかしさを感じながら窓際から教室に視線を移した。

 大半は柚海と同じように机へ沈没しているが、幾人かは古語が居並ぶ黒板を暇そうに眺めている。その中でも背筋を伸ばして臨んでいる一人の男子生徒がいた。

 名を山下正樹やましたまさきと言った。

 どの教師も、彼には畏怖さえ抱いているという。その生活態度の真面目さといったら、無愛想さを兼ね備えている絵に描いたヒーローそのものだった。勧善懲悪の徒についた渾名が正義の味方。ただ、この渾名を面と向かって本人に使う者は皆無だった。

 度を過ぎた生真面目さから、誰も彼に近寄ろうとはしない。困っていれば助けてくれる。だが、友達になりたがる生徒は居なかった。

だからだろうか。

柚海は彼に奇妙な親近感を覚えていた。

彼は生真面目さから人を寄せ付けず、柚海はその不真面目さから人を寄せ付けなかった。

進学校の生徒では珍しいほどのサボタージュ常習犯の上、遅刻、無断欠席、制服改造、頭髪違反、バイク登校、喫煙。とりあえず不良品印を押される要因はクリアしている。

裏では万引きやリンチを繰り返す連中も、学校では一応の真面目さで通っているので、柚海に話し掛ける生徒は少ない。校外で何処かのグループに属するようなごく少数派の生徒が、柚海に色々と誘いをかけてくるぐらいだ。適当にあしらっていると、最近ではほとんど声も掛からなくなった。

一人は平和だ。

何者にも捕らわれず、煩わされない。

こんなことを、あの正義の味方も考えているのだろうか。話す機会があれば、聞いてみたい気もしていた。

無論、そんな機会が巡ってくるはずもない。

予鈴が鳴った。

今日最後のチャイムだ。

壮年の男性教師が授業の終わりを告げて、早々に黒板を消し始める。若干のブーイングを残して、帰宅の喧騒が教室に満ちた。

ホームルームはサボってしまおうか。

そんなことを考えながら、柚海がカラに近い鞄を机の横から取り出した時だった。

「渡瀬」

 聞き覚えのある声だった。

 いつ聞いたのか判らないほど、微かな記憶だ。

 柚海は思案する時間を稼いで殊更ゆっくり顔を上げる。

 柚海とそう変わらない上背の男子生徒だ。

無表情でこちらを眺めてくる顔を見とめて、柚海は少し息を呑んだ。

 山下だった。

 瞬く柚海を無視して、彼は人形でもこれほどではないだろうと思われるほど無愛想に袋とじされた冊子を突き出してくる。

「今日、日番だろ。日誌に一筆書いてくれないか」

 有無を言わさない言葉。

 普段、他の生徒達が彼を目の前にして陥る奇妙な強制力に柚海も操られるようにして日誌を受け取った。

 手渡したことを確認するように一瞥した彼は、再び柚海に向き直る。

「それ書いたら教室の掃除手伝ってくれ」

            ※


 教科書が押し込んである机を、腹立ち紛れに蹴り倒したくなった。だが、柚海はホウキを片手に大人しく机を並べる。苛立って机の中身をぶちまけると、余計な仕事が増えるだけだ。

「……山下」

 既に他の列を最後まで整頓し終えた山下を見遣って、柚海は嘆息する。

「他の奴等はどうしたんだ?」

 洛陽の満ちる教室に、山下と柚海以外ホウキを握る者はいない。通常、掃除当番は六人が担当するはずだ。

 山下は何の感慨も見せず、手早くゴミを集めてチリトリで拾っている。

「吉河はバイト。神谷は部活。原口は遅刻の反省文。脇坂は私用」

 淡々と述べて、一緒に吐き捨てるようにチリトリに集めたゴミをゴミ箱に払い落とす。

「……どう考えたって、どうにもならない理由じゃないな」

 掃除を押し付けられたのだ。こんな面倒事をしたがるバカは少ない。

「バカを見たな。山下」

 柚海は嘲笑するが、山下は柚海がやりかけていた列の机の端に手を掛ける。

「誰かがやらなければ掃除はできない」

 正論だ。正論過ぎてこの場では滑稽に聞こえた。

「公序良俗はもっともだがな」

 柚海は山下が机を引いた後をホウキで掃いた。

「画脂鏤氷だぜ? お前、食われてんだよ」

 らしくない。

柚海は自嘲する。

 相手は正義の味方だ。こちらの俗的な進言が通ることはない。自分もまた無駄な行為をしているのだと思い至ると自然と笑いが込み上げる。

「頭がいいな」

 次の机を引きずっていた山下がぽつりと漏らした。

 柚海は思わず手を止めて、山下を凝視する。だが、山下は単調なリズムで床を掃く。

 柚海は、怒りたいのか、殴りたいのか、呆れたいのか解らなくなった。

 行動を起こせず、ただ言葉だけを山下に投げる。

「他の奴等は皆、口実作ってサボってるだけだろ? 殴りたくならないのか?」

 山下が動かすホウキの先が何時の間にか溜まっている埃を絡めとって塵と一緒に押し流されていく。

「殴る必要があるのか?」

 問い返されて、柚海は押し黙る。

 元を正していけば、他のメンバーを柚海に殴る権利はない。むしろ山下に殴られる側の人間だ。

 柚海が掃除に参加したのは、二年になってから今日が実は初めてだった。いつもはホームルームの前に自主帰宅してしまうのだ。一年になったばかりの頃は教師やクラスメイトに咎められていたが、柚海の一匹狼ぶりが噂になりだすと声を掛ける者がいなくなっていた。むしろ柚海に便乗しようという者が続出し、一年の時のクラスでは掃除参加者が激減したのだ。

 恐らく、今回も山下以外の連中は同じようにサボる選択をしたのだ。

 山下は柚海の小さな動揺を知ってか知らずか、最後の机を動かした。

「……他の日は、誰か来てるのか?」

 柚海はようやく腕を動かして最後に残った塵をホウキでかき集める。

「いや」

 短い解答で、全てが事足りた。

 掃除当番は通常一週間続く。それを、山下は一人で片付けていたのだ。

 尊敬の念より先に、呆気に取られた。

「実は超絶バカだろ」

 思わず口をついた言葉を、山下は難なく受け取った。

「渡瀬は頭が良くて羨ましいな」

 嫌味に聞こえなかったのは、彼が苦笑しているように見えたからだろうか。

 柚海も一緒に笑ってしまったからだろうか。

 奇妙で、心地好い会話だった。

柚海は学校で初めて得る居心地のよさを感じながら、残った塵をかき集めてチリトリで掃き捨てた。

        

         ※


 学校から駅の間には神社がある。

 この辺りの神社としては古いが、鎌倉や京都にあるような神社ほどではない。

 住宅街に突如として現れる不自然な森は隔絶された空間を育んで、工場跡地に建ち始めたどんな住宅よりもこの土地に深く根を張っている。

 瑞季(みずき)は涼しい場所を求めて、缶ジュースを片手に鳥居を潜った。

獣道にも似た参道を沿って雑木林を抜けると、薄紫の房が棚に垂れ下がっていた。藤だ。幾本もの藤が棚を伝って蔦を絡ませ、緑葉を繁らせている。

土曜日だということもあってか、盛況だった。年配の観光客が一頻りカメラを片手に蜂が飛び回っている藤の花を愛でている。いつもは閑静な神社がまるで縁日のような賑わいだ。

瑞季はさして感心も持てず、缶ジュースを少し火照った頬に当てながら藤棚を通り過ぎた。別にこのささやかなお祭り騒ぎを楽しみにきたのではない。

駅前のパン屋のアルバイトから上がったばかりで、初夏前の蒸し暑い駅内で電車を待つのに飽きたのだ。

そこで駅前の自動販売機でジュースを買って、神社へやってきた。普段、ここは静かで誰もおらず、少しばかり本殿の神様に断って階段にでも腰掛ければ、いい休憩所になる。神社を通り抜けると海が見える松林の緑地公園があるのだが、そこは野良猫や野良犬の生息地で、何も知らずに座ろうものなら隣で何時間でも強請られる。

社務所の向こうでは夏祭りほどではないが、幾つかの露店まで並んでいた。

 焼きそば、壺焼き、ヨーヨー釣り。瑞季は暑さに負けてアイス売りの前で足を止めた。昔懐かしい、はご老人向けの売り文句なのか、安っぽい合成着色されたコーンはいかにも薄くて不味そうだった。

「おじさん、アイス一つちょ…」

「いらっしゃい。アイス一…」

 ほとんど同時に思わず言葉を止めて、瑞季と露店主は顔を見合わせた。

 少し日に焼けた露店主の顔は瑞季の良く知る仏頂面に、見たこともない営業用の笑顔を貼り付けていた。

「……山下君……」

 山下正樹。高校では正義の味方と渾名されるクラスメイトである。

           ※

 彼の名を、二年で知らない者はいなかった。

 クラブ活動から離れて久しい瑞季では他学年の評判まで聞き耳は及ばないが、バスケットボール部に所属する友人からの風聞では学校中で有名人らしい。さすがに顔まで知る者は少ないらしいが、こんな人がこの学校に居るらしい、ということが何処からか漏れているようだ。

 古きよき時代の裏バンや学校のボス的な存在というわけではない。品行方正、質実剛健の四文字熟語が無愛想に模範的な制服姿で歩いている。こんな表現が似合うような、実に理想的な学生である。その上、弱きを助け、強きをくじく、といった二次元の産物が抜け出てきたような行動理念を持っているため、彼にはいつしか渾名がつけられた。

 山下正樹の名前をわざと音読みして“せいぎ ”と読ませたのだ。

 正義の味方。

 本人の前では誰も使わない渾名は、陰陰と暗躍し続けている。

 その張本人は、休日に洗いざらしのTシャツに穿き慣れた感のあるジーパン姿で、頭にタオルを巻きつつ露店で愛想笑いを振り撒いていたのだ。

 軽いカルチャーショックはまだ良い反応だと思われた。

 瑞季は居心地の悪さと不思議な感動を覚えながら、奢ってもらった水っぽいアイスを舐めている。

 二人して神社の境内を抜け、緑地公園のベンチで並んで座っていた。その隣で大きな犬がこちらを見るとも無しにのんびりと居座っている。

 松林の涼しい風と犬の視線を気にして、少し堅いアイスを舐めていると、蜂蜜に似た味が口の中に広がる。

「……このアイスで二百円は高いと思う」

 瑞季の発言に、正樹は軽く息を吐いた。苦笑したのだろう。

 彼は感情のない人間ではない。感情を表すことが、人より苦手なだけだ。

 こんなことを感じているのは、桜の散る時期に彼の恋人と会ってしまったからだろうか。

 孫ほど違う年の離れた二人で住んでいた、小さな庭の綺麗な家。そこへ足を踏み入れた時から、正樹に対する見方が少し変わったようだった。何処が如何変わったのかを、瑞季自身が言及できるわけではないが。

「混ぜ物ないんだ。これぐらいは採って良いって言われたし」

 彼は、自前のペットボトルに口をつけて、一口お茶を飲んだ。緑茶とラベルがついているのに入っているのは番茶らしい。

「自分で作ってるの?」

 口の端を上げて、正樹は今度こそ苦笑した。

「これだけは、上手く出来るんだ」

 一度だけ行った彼の家で彼自身が炒れて振舞った緑茶は不味かった。彼女・・も失笑を漏らしていた。

「佐夜子さんも、これだけは誉めてくれた」

 何気ない口調だった。

 だが、佐夜子が死んだあの日のように、彼は笑った。

 瑞季は水と牛乳の味がするアイスを残して、アイスを乗せているピンクのコーンをかじった。

「山下君が、露天商やってるなんてビックリした」

 何気ない話題の転換。正樹はこげ茶色の目を少し細めた。だが、彼は何の反応無く応えた。

「母方の叔父が元締めやってて、口を利いてもらっているんだ。この年じゃ、まだ自由にアルバイトはできないから」

「遺産相続は片付いたんだ…」

 口について出てしまってから、瑞季は失言だったと慌てて言葉を止めた。こんなことを、全くの部外者である瑞季が聞くべきではない。

「それは父方の叔父だから、まだなんだ。母方の叔母が後見人になってくれるって言ってるけど、それもまだ決着がついてない」

 正樹の表情に変化はなかった。むしろ、誰かに聞いてもらいたかった愚痴に聞こえた。

「元締めの叔父さんは?」

「遺産は、父方の問題だから勝手のわからない叔父さんが後見人になってもあまり介入できないし、叔父さんとは金の問題で付き合いたくないんだ」

 親しくしたい人との金銭トラブルほど、非情で後味の悪いものはない。親友と仕事はするな、というのは名言だ。

「そうだね……」

 これ以上、瑞季が尋ねることはなかった。聞いてみたいことはある。

 何故、父方と母方の叔父や叔母ばかりが出てくるのか。彼の両親は何をしているのか。

 だが、瑞季はその質問を投げることだけは避けた。

 言えば、自己嫌悪に苛まれてしまう。正樹とは学校でも特に仲良くしているわけではない。こうして会うのは、春以来だが、自然と会話の続いている。こんな関係を今すぐ崩してしまいたくなかった。

「千川」

 相変わらずの無愛想で呼びかけられて、瑞季は少し驚いた。彼から瑞季に話し掛けることは少ない。

「暇なら付き合わないか」

 瑞季は思わず瞬く。だが、疑問が追いつく前に彼女は頷いていた。

 そんな自分にまた目を丸くしている瑞季に気付くことも無く、正樹はベンチをゆっくり立った。

「すぐそこだから」

 再び頷いたものの、歩き始めた正樹の背中を瑞季はぼんやりと見つめた。

 その傍らで、野良犬が大きく欠伸をした。






 燐と反応したマッチは頭に灯した炎でその身を焼いて、燃え尽きた。

 瑞季は静かに灰になるまで見つめて、立てられた線香に目を遣った。

 手を合わせることはしなかった。

 否。

 できなかった。

 眼前に立つ物言わぬ墓の下に、幾人もの骨が収められているのかと思うと、急に恐ろしくなったのだ。

 人の死を初めて間近に感じて、生々しい感覚が瑞季の恐怖心を駆り立てる。

 逃げ出したいというのに動けないのは、墓の前で微笑む正樹が居るからだろうか。

 付き合えと言われてついてきた先は、神社からそれほど遠くない寺だった。

 牡丹で有名な寺らしく、表の本堂側では観光客で賑わっているが、裏側の住宅地、特に墓地は閑静だ。晴れている空と建ち並ぶ墓石が違和感とともに、これらがただの石だと昼間が主張している。

 慰められる形で瑞季はようやく眼前の墓石に向き直る。

 まだ新しい墓石だった。

 新鮮な花で飾られて、綺麗に掃除された墓は故人の死がつい最近だったことを物語る。

 刻まれているのは、神佐夜子かむさよこ

 佐夜子の墓だ。

 蒼空に吸い込まれていく線香の煙を見送って、彼女の言葉だけが蘇る。

“あなたは良い子ね ”

 不思議な言葉だった。

 誉めているのではなく、皮肉でもなく、ただ、慰めてくれる言葉だった。

「こっちの掃除は俺がやっとくよ」

 墓地の入り口から聞こえてきた声に、瑞季は何となく視線を遣る。

 何処かで見た風体だった。

 ジーパンにTシャツ姿で軍手にホウキを片手にしているが、学校で見た顔だ。険の強い目つきが特徴的な、短い金髪の男子生徒は嫌でも目立つ。

「……渡瀬君?」

 彼と目が合う。彼もこちらを見つけて目を丸くした。

 暫く立ち往生していたが、やがてあたふたとその場を逃げ始める。だが、後ろから突然現れた人物によって阻止された。

「ユミちゃーん。墓地の掃除終わったら、お昼ご飯にしようって和尚さんが言ってたよー」

 彼は肩を掴まれて今度こそ硬直した。

 掴んだのは、特別に力の強そうな化け物ではない。

 こちらも学校で見たことがあった。

 目立つ要因をほとんど持っていない故に目立つ女の子だ。今時、珍しいおさげ髪である。彼と同じようなジーパン姿だが、何処か間が抜けて見えた。

 彼女はずれかけの似合わない眼鏡を押さえて、瑞季達を見とめると、朗らかに笑う。

「こんにちはぁ。ごゆっくりどうぞー」

「……有田さん、だよね?」

 二人共、クラスメイトだった。

 彼、渡瀬柚海わたせゆうみは学校でも有名な不良だった。とにかく関わると怪我をすると言われている一匹狼で、正樹とは別の意味で他人を寄せ付けない生徒だ。

 彼女、有田司ありたつかさは目立たないことで有名だった。何処へ居ても目立たないので、担任教師から名前を呼び忘れられることがしばしばあるほどだ。

 そんな二人が何故、この寺の墓地に居るのだろうか。

 瑞季の疑問を他所に、司は小首を傾げた。

「どちら様でしたっけ?」




           ※


 その絵は、はっきり言って下手だった。

 この作画者はデッサン力がないとか色センスが無いとか述べる以前に、絵心がない。根本的に絵を描くという能力が欠如していると思われた。

しかし、構図だけが他のどんな上手な絵よりも突出して巧かった。

 題材は私の学校。

 つまりこの高校をモチーフとしての風景画を描くのだ。時間内に自由に学校中をうろついて描くという簡単なようで難しい課題だった。

 運動場から教室から渡り廊下から、様々な角度から描かれた絵はどれも一様である程度の画力を持って描かれている。

 その絵はどの絵よりも下手だった。

 そのくせ、点けられているのは最高点数のダブルAだった。

 何処かの教室から描かれていた。薄暗い教室には誰も居らず、外にはまた向かい側の教室が見える。その向かい側の教室からは微かに運動場と体育館が見えた。

 そこまでだ。窓は変形しており、正確なデッサンなどあったものではない。幼児に描かせた方がまだマシな絵が出来上がったことだろう。

 何かが美術教師の琴線に触れたとしか言い様のない点数結果だ。

 瑞季はその絵を眺めていた。

 飾られた絵を立ち止まってわざわざ見ることは今までない。それほど美術に傾倒していない。

 不思議と立ち止まっていた瑞季は自分に驚いていた。

 惹きつけられたとしか自分の行動に理由をつけられなかった。

 瑞季は製作者の名を探した。

 有田司。

 聞いたことのある名前だった。


 後で、友人たちに尋ねるとクラスの隅で一人、机に寝転んでいるおさげの女子生徒を指差された。目立たないことで有名なのだと彼女達は親切に教えてくれた。

「あんまり関わらない方がいいよ」

 クラスでも気の強い女子生徒たちが、陰気で鬱陶しいと司を邪険にしているのだそうだ。口を出そうものなら、とばっちりを受けるという。

 以来、瑞季が司と接することはなかった。


            ※


 さすがの瑞季も、クラスメイトに名前を尋ねられて呆気に取られた。

 だが、隣で同じように様子を見ていた正義の味方は大したもので、動揺もなく応えた。

「同じクラスの、千川と山下だよ」

 瑞季と自分を交互に指し示して丁寧に紹介する。

 司は「あ」と間抜けな声を上げて頷く。

「何か、戦国武将みたい」

 そう言って朗らかに笑うので、瑞季は不安になった。

 この人種と果たしてまともに会話ができるのだろうか。

「風林火山とか言い出すなよ」

 彼女の意味不明な発言に応えたのは、意外にも柚海だった。

「合言葉だよー。山といえば川」

 応える人間は誰でも良いのか、司はあっさり柚海に話し相手を変える。

「禅問答やってんじゃねぇぞ!」

 と、怒鳴ったところで柚海は言葉を切った。瑞季たちが居ることを忘れそうになったようだ。

 不機嫌に顔をしかめると手に持っていたホウキを司に押し付けて、踵を返す。

「サボったら百叩きにされるよー」

 間の抜けた声が追いすがるが、結局、柚海は墓地をさっさと出て行った。

 見送ったのは一時で、司は薄情とも思えるほどすぐに見限り、瑞季たちに向き直った。

「お墓参り?」

 のんびりと瑞季たちの隣に居並んだ司は、何処か気まぐれな猫を思わせた。

「うん……」

 曖昧に答えて、瑞季は横目で正樹を見遣る。

 正樹の表情は変わらない。

 瑞季は少し哀しくなった。

「じゃぁ、私もお線香あげるね」

 そう言ってポケットから何を取り出すのかと思えば、司はジーンズのポケットからライターと線香の束を取り出した。

 思わず目を丸くした瑞季を尻目に彼女は線香に火をつけて手をあわせる。

 その姿を見つめて、瑞季は目を細めた。

 生前を知らない人間は、こうもあっさりと手をあわせることができるのか。

 嫌悪にも似た苛立ちが沸いた。

「幸せだねぇ。この人」

 言葉がふわりと浮く。

「……どうして?」

 引っ張られる感覚を覚えながら、瑞季は司の薄い背中を見つめた。

「お葬式が終わったら、ほとんどの人がお盆とお正月以外掃除にも来ないの。だけど、ここは綺麗に掃除してあるから」

 彼女は少し顔を上げた。

「ユミちゃんと私でいつも掃除するんだけど、ここだけはいつも綺麗だから、誰が来てるんだろうって話してたの」

 だから、幸せだと思った。

「生きてた時も幸せだったんだろうなぁって」

 佐夜子が目の前で微笑んだようだった。

“あなたは良い子ね ”

 優しく撫でてくれる言葉だ。

 中空から、上空から、響いてくる。

 墓石に話し掛ける司に向かって、瑞季は微笑んだ。

「ありがと。司」

 振り返った司は驚いたように瞬いたが、やがていつものように笑った。


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