代名詞
R15は保険です。
窓越しに風が鳴っていた。
例年よりも遅く咲いた桜が紙吹雪を散らすように花弁を手放して、春風に乗った吹雪は縦横無尽に曇った空へと舞い上がった。
春の緩やかな日差しはカーテンを通して心地よい暖気に変わって、朝日に緊張していた体を癒す。その導きに応じて微睡んでしまうのは、日向で寝ころぶ猫だけではない。
瑞季も例外なく優しい睡魔に手を引かれていたのだが、朦朧とした世界を貫く明瞭な声に現実へと連れ戻された。
「静かにしてくれ。授業がよく聞こえない」
文字通り、ざわめきを貫く一声。
午前中、最後の授業が終業間近だ。今まで寝惚けていた生徒達が時間をせかすように起き出し、大騒ぎとまではいかないまでも緩慢な喧噪が教室に満ちている。ベテランの英語教師は浮き足だった雰囲気を物ともせず、授業のまとめを朗々と語っていた。
ぬるま湯のような微睡みに浸かっていた教室に冷水を流し込んだのは、一人の男子生徒である。生徒手帳に載っている模範的な制服姿を抜き出して三次元に作り上げれば、彼が出来上がるのかもしれない。標準服の皺一つ見あたらない紺ブレザーに青ネクタイ姿は誰よりも様になっていた。
彼は自分の眼前に座る男子生徒を見遣って再び口を開く。
「少し黙ってくれ」
容赦のない言葉を投げられ、小声で友達と喋っていた男子生徒は半ば呆然と押し黙る。
「ああ……そうだね。少し静かにして下さい」
否応なく説明を中断した教師は、宥めるように授業を再開した。
途端にざわめきの消えた教室を眺めて、瑞季はこの静寂の中心にいる彼を見遣る。
山下正樹。
彼は正義の味方だった。
無遅刻無欠席は当たり前、授業態度は真面目そのもので、彼の学校生活は勧善懲悪を前提として送られているようだった。
「瑞季ぃ。ご飯食べに行こうよ」
授業が終わって教室に喧噪が満ちる頃には、既に彼の姿は無い。その行方は誰も知らなかった。
「先に行ってて。この前休んだから、先生にプリントもらってくる」
「わかったぁ」
二人の友達と別れ、瑞季は教室を出た。
山下正樹という名を瑞季が初めて知ったのは、去年のこの時期、高校生になったばかりの頃だった。
受験から解放されたばかりで、新しい生活への期待と不安で一喜一憂して浮かれていた頃。お祭り騒ぎの好きな男子生徒が、総代となった彼に話しかけた時だった。
親しげに話しかける男子生徒に向かって彼はただ一言、「うるさい」とだけ応えたのだ。
以来、彼は迫害じみた洗礼を受けることとなったのだが、それでも動じない態度が不気味で、今では誰も彼に余計な干渉をしようとはしない。
そもそも彼の行動には隙がないのだ。乱れもしない服装と、ほとんど動かない表情。それで何者も受け入れないほど冷たいかといえばそうではない。困っていればすぐに手を貸してくれるのだ。「うるさい」と一蹴した男子生徒にさえ、質問されれば丁寧に勉強を教えた。
いつしか彼にはあだ名がつけられた。
名前の正樹をわざと音読みして“せいぎ”と読ませ、あとは漢字をあてた名前。
正義の味方。
ただ、このあだ名を面と向かって彼に使おうという者はなく、まるで隠語のように扱われている。
三階分の階段を下りてすぐに職員室がある。昼休みの喧噪はこの辺りにまではまだ届かず、生徒の姿は瑞季以外になかった。
彼女はふと足を止める。職員室から見慣れた人物がゆっくりと出てきたのだ。
正義の味方こと、山下正樹だ。
大事な物でも抱えているのか、慎重に戸を閉める姿は目新しく、不可解だった。
ふと彼の手元に瑞季は眼を遣る。
見慣れた代物があった。
カップ麺の器だ。
湯を注いだばかりなのか、器の底にハンカチを当てて、湯を注いだ口の部分に割り箸を乗せて固定している。
問題はその組み合わせだった。
カップ麺の器を右手に掴ませて左手で戸を閉め切るのは、他でもない山下正樹だ。
真面目くさった、普段よりも若干緊張した面持ちで彼がカップ麺を慎重に運ぶ姿は奇妙というよりも珍妙で、地獄の鬼がケーキを食べている姿よりも不似合いだ。
瑞季は何も気づかなかったように職員室へと逃げ込んだ。
※
「あ、それ知ってる」
学食のきつねうどんをすすっていた友人達はあっさりと頷いた。
「他のクラスの友達がカップ麺片手にウロウロしてるの見たことあるって。どこで食べてるのかは知らないけど」
「私も聞いたことあるよ。年上の彼女と付き合ってたけど、親に反対されたから家出して同棲してるからって」
「……それ、噂?」
瑞季はカレーライスを水で胃に流し込み、友人の一人に顔を向ける。
「噂だけど、実際、女の人と歩いてるの見た子がいるらしいよ」
あながち根も葉もない噂ではないらしい。
「山下君って、結構人気あるしね」
「そうそう。二組の子が告白してフラれた時なんか、好きな人がいるからって断られたって」
成績も悪くない上、容姿は無表情な人形めいてはいるが悪くない。背も低くはないので見栄えもする。一応のモテる条件を彼はクリアしているようだ。
「瑞季、気になるの?」
「利香ほどじゃないよ」
セミロングの友人は苦笑する。
「瑞季ちゃんは一年の時も同じクラスだったよね」
もう一人の、ショートカットの友人がおっとりと瑞季を見遣る。
「そうだよ」
応えながら、瑞季はカレーライスをかき混ぜる。
正義の味方を横目で観察する習慣が二年目を迎えた。
※
学校から三十分ほどかけると、海にたどり着く。
夕暮れ近い空の色を受けて波間がうっすらと赤く染まりかけていた。
瑞季は防波堤の塀によじ登り、テトラポッドの浜を見下ろして遠い海と空の境を一人きりで眺めていた。
友人達は皆、塾やバイトで忙しく、瑞季をかまっていられる時間は限られている。瑞季もパン屋でアルバイトをしているが、それは土日のことで平日の夕方は一番暇を持て余している時間だった。
防波堤の塀はいつまでも続くわけではない。だが、今日はいつもとは違う場所からよじ登ったので、塀は延々と続いていた。
辺りに目立った建物もなく、防波堤の内側には住宅地があるだけだ。その住宅地の真ん中に瑞季の通う高校はある。
瑞季はこの辺りの出身ではない。先の見えないほど続く塀が途切れるまだその先に住んでいる。
「……千川?」
降って湧いた声に、瑞季は立ち止まる。
音源を探って塀の下を見遣ると、防波堤の内側の道に珍しい人物が立っていた。
「……山下君?」
塀の上の瑞季を見上げているのは、山下正樹だった。
学校で見慣れた制服を着ているものの、校外で見る彼の表情は少し柔らかく見えた。
「……どうしたの?」
他に会話を思いつけず、瑞季は問い返していた。
「どうしたって……それはこっちの台詞だろ…」
珍しく彼は困ったように表情を動かした。
「そんな所から降りられるのか?」
尋ねられて、瑞季は自分の立っている塀を見遣る。
高い。
山下正樹は塀から少し離れた場所にいるが、それでも瑞季を仰いでいるのだ。
塀の高さは同じだが、下の道が低くなっている。そのために、地上二メートル近い高さが出来上がっていた。
塀の先を覗くが、ここから先に塀と道がちょうど良い高さになっている所はなさそうだった。
瑞季は諦めて塀に座り込む。座ったからといって塀が低くなるわけでも道が迫り上がってくるわけでもないのだが、視覚的な高さを下げるだけでも慰めにはなる。
「大丈夫か?」
彼は瑞季の足下までやってきて、彼女を見上げる。
「……だ、大丈夫……」
生返事を返して、瑞季は塀の端を掴んだ。
思い切りよく塀を蹴る。
空中に居たのは一瞬。
次に瞬きする間に視界は塀の下へと変わる。
山下正樹は驚くように手を伸ばしたが、瑞季は彼を避けて地上を目指した。
ただでさえ勢いのついた体を彼に受け止めてもらうような真似はできない。
靴が地面へと着地し、万有引力に従って後から重力がのしかかる。
降りられた。
そう思ったのは束の間。
瑞季の足が悲鳴を上げた。
右足が引きつった痛みを訴えて、瑞季は顔をしかめる。
時間が経つにつれて痛みが増していくのに耐えられず、彼女はその場に座り込んだ。
※
高い塀に囲まれた家が建ち並んでいた。
古くから改築が繰り返されてきたのか、道は迷路めいていた。
その塀の端から覗くのは八重のしだれ桜や赤く芽吹いた新芽だ。昨今、土地を手放す家が多いが、この古い路地は昭和初期の佇まいが取り残されたようだった。
「……ごめん。やっぱり歩く」
周囲を見回して、最後に視線が辿り着くのは人の背中。
「俺が背負った方が早い」
塀から飛び降りて立てなくなってしまった瑞季は、山下正樹に背負われていた。
立てないことをいち早く察知してくれた彼は何も言わないまま瑞季の体を抱き上げて、自分の背中におぶってしまったのだ。
彼が防波堤からほど近いこの路地に入ってからも歩く、背負うの押し問答を続けている。
「とりあえず、応急処置だけしていた方がいい」
「……でも、何処で…」
「俺の家が近いから」
正義の味方の家。瑞季は唐突に友達の会話を思い出す。
“年上の彼女”
“同棲”
彼が瑞季を抱え上げる手際はやけに手慣れていた。
(……意外に百戦錬磨?)
正義の味方の意外な一面をまた垣間見てしまったようで、瑞季は居心地が悪くなった。
学校での彼とは違う彼は、瑞季の知らない彼だ。
急に知らない人の背中におぶわれているように思えた。
「あ」
瑞季の思案を断ち切るように、間の抜けた声を上げたのは、他でもない正義の味方だった。
「……何かあった?」
彼が立ち止まったのは古い門構えの瀟洒な家の前だ。
両脇に高い塀を備えた鉄格子は草木を象って優雅な曲線を描いている。
「家、ここだから。玄関まで歩いてくれ」
一方的に言い置いて、彼は塀の脇に瑞季を降ろすと急ぐように門をくぐった。
残された瑞季は、このまま帰るか、彼について行くか迷ったが、結局足の痛みに負けて彼に続いた。
家屋は大きくはなかった。
だが、玄関までの数メートルにツツジが並び、ソテツが細長い葉を伸ばしている。古びてはいるが手入れの行き届いた庭だ。
玄関先には人気がない。
「いらっしゃい」
老年の女性の声だ。
ふいに塀側へと視線を巡らすと、高い塀の上に座った老婆が瑞季に微笑みかけた。カーディガンを羽織った寝間着に近い軽装ではあるが、白髪をきっちりと結い上げた姿は品の良さを思わせる。
その下に脚立が置いてあるのだが、その脚立に山下正樹が上ろうとしているところだった。
「ほら、正樹ちゃん。お客様がお見えよ」
のんびりと老婆に促されるが、彼は渋面を浮かべる。
「いつものことですが、こんな所に上らないで下さい。佐夜子さん」
彼は脚立の上から手を伸ばし、老婆の体を抱えるとゆっくりと地上に降りる。そのまま老婆を背負うと、瑞季に視線を向ける。
「歩けるか?」
「大丈夫」
瑞季は足を引きずり、玄関へ向かった。
通されたのは、庭を臨める縁側のついた居間だった。
大きな座卓だけが置かれた畳の部屋に先程の老婆と瑞季が残されて、山下正樹は台所へ向かってしまった。
心細くなって視線を漂わせていると、座卓の向かいに座る老婆が瑞季に微笑む。
「改めていらっしゃい。ゆっくりしていってね」
「はぁ…」
にこやかな言葉に間の抜けた返事を返し、瑞季は戸惑う。お年寄りと会話するのは慣れていない。
「正樹ちゃんのお友達?」
「いえ…同級生です」
瑞季が応えると、老婆は大きく頷いた。
「ずいぶんと可愛らしい同級生がいるのね。良かったわ」
言ってから、彼女は口元に手をあてる。
「あ、ごめんなさい。嫌味で言ったわけじゃないのよ? 正樹ちゃんが連れてくるお友達はみんな何処か怖い人ばかりだから」
笑えば少女のようだ。話題は不穏当だが、老婆は歳を感じさせない。
「正樹ちゃん、学校でどうしてる?」
彼女は皺の深い顔を少ししかめる。
「真面目ですよ。とても」
真面目すぎるぐらいの彼を心配する必要はないはずだ。だが、老婆の口ぶりは少し異なる。
「そう…。良かった」
彼女は安堵するように息をつき、座卓の机面に視線を落とす。
何も聞いてはいけない。
瑞季は逃げるように立ち上がる。
「台所、見てきます」
居間から出ると、瑞季は溜息をついた。
老婆は、知ってはならない正義の味方の秘密だ。
廊下を壁伝いに歩けば、すぐに台所が見える。
古びた食卓には、ケーキの箱と茶筒が乱雑に置かれていた。だが他に物は見あたらない。その向こうで、話題の人物がヤカンを火にかけたところだった。
「……あの…」
彼が振り返る。そして、少し慌てたように眼を泳がせた。
「悪い。すぐに救急箱持っていくから」
それでも瑞季は台所の出入り口にもたれかかったまま動かなかった。彼は食器棚の上から大きな救急箱を取り出す。
「歩けない?」
「歩ける」
応えて、瑞季は廊下を再び歩き出す。続いてゆっくりと彼も台所から出た。
「……今日は、何かあるの?」
「え?」
驚いたように問い返されて、瑞季は失言だったかと口を閉じた。だが、彼は少し表情を緩める。
「どうして?」
会話を続けてくれるようだ。
瑞季は安心して話題を引き継いだ。
「テーブルにケーキが置いてあったから」
ああ、と彼は頷いて、すぐ見える居間へと瑞季を先に通した。
「今日は佐夜子さんの誕生日なんだ」
居間に帰ってきた瑞季と彼を見遣って、老婆は嬉しそうに笑む。
「ああ、正樹ちゃん。こちらの可愛らしい同級生を紹介してくれる?」
問われて彼は瑞季を見遣った。言外にどうするか尋ねてくる。
瑞季は頷いて自分から口を開いた。
「千川瑞季です」
「そう。良い名前ね」
瑞季は彼女に促され、彼女の隣に座す。
「佐夜子さん、彼女、足を捻ったみたいなので看ていただけますか」
立ったまま彼は座卓に救急箱を置いた。
「まぁ。それは大変だわ。今まで黙っているなんて正樹ちゃんは薄情ね。お茶でも入れてらっしゃい」
怒鳴るでも怒るでもない彼女に退室命令を下されて、彼は素直に居間を出て行った。
「大丈夫よ。筋にも異常がないから湿布を貼っていればすぐに治るわ」
瑞季の右足に触れた白木のような指は冷たい。腫れた足首に触れられると、ひやりとするくせに瑞季は安心した。
老年とは思えない手際の良さで佐夜子は瑞季の足に湿布を貼り付けてネットを被せた。
「今日は私の誕生日なのよ。一緒にケーキをいかが? 正樹ちゃんったら私はあまり食べられないのに大きなケーキを買ってくるの」
戸惑う瑞季の応えを佐夜子は尋ねなかった。付き合わずに帰ってもよいのだ。
「正樹ちゃんは甘い物が好きだから、ケーキはすぐに無くなるんだけどね」
あの堅物が甘党だとは、人を見た目だけで判断できないものだ。
カチリと食器の触れ合う音が居間にやってきた。
急須と湯飲みを乗せた盆を携えてきた正樹は、湿布の貼られた瑞季の足を一瞥するが何も言わずに座卓へ盆を置く。
「足は、大丈夫みたいだな」
「ね、正樹ちゃん。ケーキも切ってきてよ。それぐらいならできるでしょ?」
座りかけた正樹は、少し溜息をつくと再び居間を出る。
佐夜子は瑞季に笑いかけた。
「ごめんなさいね。本当はお夕飯もご馳走すれば良いんだけど、正樹ちゃん、お料理下手だから」
まともお茶も入れられないのよ、と佐夜子は問題の人物が煎れてきた急須を手に取った。湯飲みに茶を注ぐとまだ湯気が立ち上る。
「紅茶も入れられないから、煎茶で我慢してね」
茶を勧められて、瑞季は口をつける。
茶特有の苦みが味覚を刺激するが、普段飲み慣れた渋みよりいささか苦みが強い。飲み下すと舌にアクが残ったようになった。
「美味しくないでしょ?」
「……はい」
瑞季が素直に応えると、佐夜子は自分も茶をすすり、呆れたように笑う。
「上達しないわねぇ」
つられて微笑み、瑞季は湯飲みに口をつけた。
「そのうち、上手くなりますよ」
ふと顔を上げると、佐夜子は瑞季をジッと見つめていた。
「あなたは良い子ね」
瑞季は少し目を丸くする。
だが、佐夜子は笑んだ。
「とても良い子だわ」
その笑みがあまりにも柔らかいので、瑞季は何も言わずに頷いた。
※
路地を照らす明かりは、静かだった。
正樹と並んで歩きながら、すっかり日の沈んだ空を見上げて瑞季は少し息をつく。
確かに、年上の女性と正樹は同棲していたのだ。
好奇心はくすぐられたが、瑞季は別のことを尋ねていた。
「佐夜子さん、どうして塀に上ったの?」
正樹は瑞季を横目で見遣ってから、いつもの無表情で彼女に応える。
「塀の上から海が見えるんだ。この時期だと夕陽も見えるから」
駅はすぐそこだった。彼等の家から数分しかかからない駅は、いつも乗り降りする駅より一つ西へ向かった駅だ。
「毎日?」
「習慣なんだって言って、注意しても聞かない」
彼が人を抱え慣れているわけだ。
ふと、正樹が瑞季に顔を向ける。
「聞かないのか?」
尋ねることは決まっている。
正樹と佐夜子が一緒に暮らしている理由だ。
瑞季は首を傾げる。わざとだとすぐに判る仕草だが、正樹はそれ以上口を動かさなかった。
代わりに瑞季が言葉を継ぐ。
「聞かないの? どうして防波堤にいたのか」
真っ直ぐ見上げると、正樹は少し戸惑ったようで揺らがないはずの表情が少し波打った。
駅が近い。
会話は途切れた。
次の日、山下正樹は初めて学校を休んだ。
※
夕暮れの空は色彩豊かだ。
海の向こうの沈んでいく陽の周りは暖かな朱を放射し、空へと上る雲は青い空と夕陽を模して薄く色づき、その境目に薄紫の空がある。追いすがるのは刷毛で溶いたような紺色の空だ。
海はただ空を映して、合わせ絵のように重なり合う一点を目指して続く。
いつものように防波堤の塀を歩いていた瑞季は、先客を見つけてゆっくりと歩み寄った。
見慣れたはずの長身は、見慣れない黒い服に身を包んで防波堤に座り込んでいる。
彼は瑞季に気がつくと、顔を上げた。
正樹だ。
「……久しぶり」
会話に困って瑞季が声をかけると彼は鉄面皮のままで眼を細めた。
彼が身につけているのは、喪服だ。
「……座らないか?」
瑞季もそのつもりだったので、素直に塀へと腰掛けた。
塀の下はテトラポッドが静かに波間を埋めている。
揺らいでは海水を打ち上げる隙間を眺めて、瑞季は顔を上げる。
「佐夜子さんは……」
「死んだ」
簡潔な答えだった。
瑞季は再び項垂れた。
彼の感情のない顔をみていられなかった。
きっかけを掴んだように、彼は続ける。
「昨日の夜に」
瑞季が帰った後、夕食を食べてしばらくしてから夜半に突然倒れたのだという。
「きちんと自分で布団に入って」
正樹を呼んだ時には白装束を傍らに置いていた。
瑞季は押し黙ったまま、テトラポッドを見つめ続けた。
「良い子だって」
顔を上げる。
こちらを見つめる正樹は、人形のように表情を動かさない。
「あなたはとても良い子だ、って。千川に伝えてくれって」
海は誘うように潮騒を紡ぐ。
あなたは良い子だ。
蘇る言葉は風に紛れた。
だが、耳朶にはまだ余韻が残っている。
「山下君は、何か言われた?」
正樹は少し溜息をつく。
「早く嫁貰えって」
彼はそのまま続けた。
「家の相続権は俺にあるから、家だけは残るんだけど、相続税が大変だし。叔父さんや伯母さんが遺産相続権を主張し始めたから、これからが大変だっていうのに無責任だよな」
平然と言い放ってから、正樹は正面に向かって大きく伸びをする。
「……泣いてるの?」
夕陽が海の向こうへ去っていく。
赤い光を受けて、彼はただ困ったように微笑んだ。