沈黙の保管庫
冬になる前の山は、ひどく静かだ。
葉を落とした木々は音を立てず、足元の落ち葉
だけが、人の存在を確かめるように鳴る。
そこでは、何かが起きても不思議ではないし、
起きたことが忘れられても、不自然ではない。
正しいことは、いつも明確な形をしているわけ
ではない。
声をあげるべきときもあれば、沈黙を選ばなけ
ればならない瞬間もある。
その境界は曖昧で、あとになって振り返っても、
答えは見つからないことが多い。
この物語に、分かりやすい悪は登場しない。
罰も、救いも、はっきりとは描かれない。
残るのは、記録に残らなかった出来事と、
それを知ってしまった人間の、その後だけだ。
もし読み終えたあと、
「自分ならどうしただろうか」と立ち止まる
なら、
それが、この物語の唯一の目的である。
第一章:人のいない音
十一月下旬の南陽市は、冬に踏み込む寸前で足
を止めたような季節だった。
朝は霜が降り、昼には溶け、夕方にはまた冷
え込む。
人の生活が続いている場所ですらそうなのだか
ら、山の中は言うまでもない。
白骨遺体が発見されたのは、市街地から大きく
外れた山中だった。
かつて林業に使われていた旧林道は、今では地
図にもはっきり載らない。
車止めを越え、徒歩で二十分以上。
目的がなければ、まず誰も足を踏み入れない
場所だ。
通報した猟師は、鹿を追っていたと言う。
落ち葉が不自然に盛り上がっているのを見て、
動物の死骸だと思った。
だが、覗き込んだ瞬間、白く並んだものが「形」
を成していることに気づいた。
眞山祥太は、斜面を慎重に下りながら、何度も
足を止めた。
枯葉が滑る。
一歩踏み外せば、そのまま沢まで転げ落ちる。
「....想像より、残ってますね」
口にした瞬間、自分が何を比べているのか分か
らなくなった。
白骨はほぼ完全な形を保っていた。
頭蓋骨、肋骨、四肢。
動物に荒らされた痕跡は少ない。
「風の通りがええ場所や」
綿矢宗一郎は、骨の配置を一瞥して言った。
しゃがみ込み、周囲の土や落ち葉を軽く払う。
「匂いが残らん。人も獣も、寄りつかん」
その言葉は、経験から出たものだった。
眞山は黙って頷いた。
遺留品はひとつだけだった。
胸元に絡むように残された、小さなペンダ
ント。
金属はくすみ、意匠は擦り切れている。
眞山はそれを見て、説明のつかない違和感を
覚えた。
偶然に落ちたにしては、位置が整いすぎている。
まるで、誰かが「残した」ように。
「行方不明届は?」
「今のところ、該当なしや」
綿矢の答えは短かった。
その真実が、眞山の胸に重く残った。
第二章:残された形
司法解剖結果は、眞山の予想を裏切らな
かった。
死後経過年数は数年。
骨の一部には、明確な外力の痕跡がある。
事故死と断定するには、無理があった。
「事件性、否定できませんね」
報告書を見ながら、眞山は言った。
「断定はできん」
綿矢はそう返した。
言葉を選んでいると言うより、線を引いている
ようだった。
ペンダントの調査で、ひとつの名前が浮かび
上がる。
南陽市内に、かつて存在した装身具工房。
閉鎖は十年以上前。
「地元じゃ、有名やった」
綿矢は淡々と語った。
祭りのときには露店を出し、若い客も多かっ
たという。
歯の治療痕も、市内の歯科医院と一致した。
だが、カルテは保存期限切れで廃棄済み
だった。
「ここまで地元と繋がっているのに....」
眞山は資料を机に並べ直した。
「行方不明届が、無い」
それは、殺された可能性よりも、不気味
だった。
誰にも探されず、誰の記憶にも残らないまま、
死んでいる。
「....そういう人間もおる」
綿矢はそう言ったが、その声には力がな
かった。
第三章:消える順番
綿矢が持ち出したのは、数年前の失踪記録
だった。
紙は黄ばみ、インクは薄れている。
十一月。
山。
事故扱い。
似たような案件が、複数ある。
「当時は、事件性なしで処理された」
綿矢はそう言った。
失踪者たちは、いずれも共通点を持っていた。
家族との関係が薄い。
仕事が安定していない。
地域の中で、少しずつ孤立していた。
「....簡単に、忘れられる人たちですね」
眞山の言葉は、無意識に出たものだった。
綿矢は答えなかった。
資料を閉じる指先だけが、わずかに強張っ
ていた。
眞山は思う。
もし自分が消えたら、誰が探すのだろうか。
その問いが、頭から離れなかった。
第四章:触れてはいけない場所
捜査は、表向きには順調に進んでいるように
見えた。
白骨遺体は過去の失踪者の一人である可能性
が高まり、ペンダントの工房、歯科医院、行動
範囲もほぼ特定された。
書類上では、線は一本に繋がりつつあった。
だが、眞山祥太の中では、逆に霧が濃くなって
いく感覚があった。
証言が整いすぎている。
「覚えていない」「分からない」という言葉が、
まるで申し合わせたように並ぶ。
誰も嘘をついていないようで、誰も本当のこと
を言っていない。
そして何より、綿矢宗一郎の態度だった。
「この林道....」
地図を広げ、眞山が指した瞬間だった。
「もう調べんでええ」
綿矢の声は低く、即断だった。
「でも、発見現場からの動線を考えるとーー」
「ええ言うとる」
言葉を遮るような拒絶。
それは上司としての命令でも、同僚としての提
案でもなかった。
”触れるな”という意思表示だった。
その日を境に、眞山は一人で動き始めた。
非公式に、林道周辺を再調査する。
過去の事故記録を洗い直す。
そして、ひとつの記事に行き着く。
十数年前。
山中で起きた、死亡事故。
被害者は地元の作業員。
原因は「足を滑らせた転落」
だが、現場写真に映る地形は、転落事故にして
は不自然だった。
眞山は、胸の奥が冷えていくのを感じた。
第五章:守られた約束
綿矢宗一郎は、その事故の日、現場にいた。
当時、まだ中堅だった綿矢は、応援として山に
入っている。
事故処理は迅速おこなわあれ、事件性なしで幕を
閉じた。
だが、眞山が見つけた記録には、ひとつだけ残
された走り書きがあった。
ーー「外傷の説明がつかない」
その文字を見た瞬間、眞山は確信した。
白骨遺体は、事故の”後始末”ではない。
事故そのものを覆い隠すために生まれた存
在だ。
問い詰められた綿矢は、長い沈黙のあと、語
り始めた。
「あの日、守りたかった」
事故は、事故ではなかった。
ある衝突があり、突き飛ばされ、落ちた。
それを見ていた人間がいた。
「全部、終わらせるしかなかった」
最初の隠蔽。
そのための嘘。
嘘を守るための失踪。
失踪を成立させるための死。
白骨は、その連鎖の象徴だった。
胸元のペンダントは、被害者のものではない。
綿矢自身が、あの日から外せずにいたもの
だった。
「忘れたら、ただの悪人になると思った」
それは、贖罪だったのか。
自己正当化だったのか。
眞山には、判断がつかなかった。
第六章:答えのない記録
事件は、公式には解決しなかった。
記録は曖昧なまま整理され、
白骨遺体は「身元不明」として扱われた。
綿矢宗一郎は、依願退職を選んだ。
逮捕も、告発もなかった。
眞山祥太は、報告書を提出する直前で、ペン
を止めた。
正義とは何か。
法とは誰のためにあるのか。
沈黙は、罪か、それとも責任か。
白骨は、何も語らない。
だが、その存在は、確かに問いを残した。
眞山は、ペンダントを証拠袋に戻しながら
思う。
忘れないことと、裁くことは、同じではない。
山形の冬は、静かに始まろうとしていた。
終章:その後も冬は来る
それから十年が経った。
眞山祥太は、南陽市から離れ、別の土地で刑事を
続けている。
階級は上がり、部下もできた。
書類の重みも、現場の空気も、あの頃とは
違う。
だが、冬が来るたびに思い出す。
十一月下旬。
山に入る前の、あの静けさ。
落ち葉を踏む音だけが、やけに大きく響いて
いたこと。
眞山は、今でも時折、ペンダントのことを
考える。
公式記録には残らなかった、あの小さな金
属片。
忘れられない理由が、そこに詰まっていた。
あのとき、自分は告発しなかった。
正義を曲げたのか、守ったのか。
今でも、答えは出ていない。
ただ一つ分かっているのは、
「知らなかった頃の自分」には、もう戻れないと
いうことだけだ。
後輩刑事が言ったことがある。
「正しいことをすると、後味が悪い事件ってあ
りますよね」
眞山は、その言葉にすぐ返事ができなかった。
正しさは、いつも分かりやすい形をしているわ
けじゃない。
時には、誰も見ていない場所に置き去りに
される。
窓の外では、雪が降り始めていた。
白く、静かに、すべてを覆い隠すように。
眞山は思う。
もし、また同じ選択を迫られたとして。
それでも自分は、同じ判断をするだろうか。
答えは出ないまま、
それでも彼は今日も職務に戻る。
問いを抱えたまま生きることも、
ひとつの責任なのだと知ったから。
この物語を描き終えたあと、
「正しかったかどうか」を考えるのをやめま
した。
事件は解決され、記録は整理され、
物語としては終わっています。
それでも、登場人物たちの選択が、
正義だったのか、間違いだったのかは、
最後まで断定できませんでした。
けれど、現実の中で起きる出来事も、
多くはそうなのだと思います。
白と黒に分けられないまま、
誰かの沈黙によって、今日が続いていく。
眞山祥太が抱え続けた問いは、
特別なものではありません。
読む人それぞれが、いつか直面する
「見てしまったあと、どうするか」という問
いです。
もしこの物語が、
読み終えた瞬間に完結しなかったなら。
ページを閉じたあとも、
少しだけ心に残り続けたなら。
それは、この作品が
語られなかったものの側に
確かに触れた証なのだと思います。
ここまで読んでくださり、
ありがとうございました。




