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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

誂えの女王【短編/読切】

作者: くものこ
掲載日:2025/11/27

 ソファに寝転んだ真奈美の親指が、スマホの画面を一定のリズムで撫でていた。暗めのリビングで、その明かりだけがやけに白く浮かんでいる。


「ねえ、(わたる)


 テレビの音をかき消すほどでもない、気の抜けた声だった。


「今週さ、遊びとか色々あるからさ。五万、出して」


 渉はダイニングテーブルで領収書をまとめていた手を止めた。電気料金、ガス、水道、クレジットカードの明細。エクセルに打ち込んだ数字の列の端に、「預金残高」というセルがひとつだけ浮いている。


 そこに打ち込んである数字は、972,342。


 桁を数え直す。九十七万二千三百四十二円。


 ──一年前は、そこに「五〇〇万」と打っていた。


「……五万?」


 声が自分のものとは思えないくらい、頼りなかった。


「そう。いつものじゃん」


 真奈美は画面から目を離さず、当たり前のように言う。ソファの背もたれに投げ出された素足のネイルが、蛍光灯の色を鈍く跳ね返した。


「今週、担当の誕生日イベントもあるしさ。あの人、高いボトル入れると喜ぶし。あと服も買わなきゃだし。ね、お願い」


 「お願い」という言葉のあとに続く空気が、「出すよね?」と書いてあるのを渉は知っていた。三か月の同居で、嫌というほど覚えた。


 けれど今日は、その空気をただ吸い込んで飲み込むことができなかった。


「……真奈美」


 渉はマウスを離し、膝の上で手を組んだ。喉が乾いているのが自分でもわかる。


「今月の家賃と、カードの引き落とし、もうすぐなんだ。光熱費も上がってるし……その、ね」


 言いながら、自分でも情けないと思った。言い訳みたいだ。だが他に言葉が出てこない。


「なに? だから?」


 スマホをいじる親指の動きは止まらない。視線も上がらない。


「今週は……一万までにしてほしい。さすがにもう、貯金も、そんなに残ってない」


 沈黙が降りた。テレビの中で芸人が笑っている声が、やけに遠く感じる。


 ようやく、真奈美の親指が止まった。顔だけをこちらに向ける。その目に、気遣いの色はない。


「え? なに、それ」


「ごめん。でも本当に、もうキツくて──」


「は?」


 短く切り捨てるような声だった。彼女はゆっくり上体を起こし、スマホをテーブルに音を立てて置く。


「キツいって、なにが。アンタの給料、毎月ちゃんと入ってんじゃん」


「入ってるけど、ボーナスももうほとんど使っちゃってて。最初、貯金五百万あったんだよ? それが、今、百切ってるんだよ。これ続けてたら、ほんとに生活が──」


「うるさいな」


 ぴしゃりと遮られて、渉は口を閉じた。


「生活、生活ってさ。じゃあなに? あたしが遊びに行くのが悪いって言いたいわけ?」


「そういうわけじゃない。ただ、ペースを少し──」


「そもそもさ」


 真奈美はソファから立ち上がり、渉のほうへ一歩踏み出す。その足音がやけに大きく響いた。


「アンタ、『一緒に住もう』って言ったよね? 『俺が守るから』って言ったよね? 覚えてる?」


 言葉だけを聞けば甘いはずのフレーズが、今は鋭い刃物みたいに突き刺さる。


「覚えてるよ。でも、あれは──」


「じゃあなんで今さらケチるの。たかが五万でしょ。アンタの貯金がいくつ残ってようが、あたしには関係ないし。約束したのはアンタじゃん。勝手に計算して、勝手に不安になって、あたしに我慢しろって? ふざけんなよ」


 声が一段階、上がった。胸ぐらをつかまれ、シャツの布が喉を締めつける。


「ごめ──」


 謝ろうとした瞬間、頬に鈍い衝撃が走った。平手打ちだと認識するより先に、視界がぶれる。じん、と熱が広がる。


 この程度なら、まだ慣れていた。殴られるたび、どこかで「これで機嫌が直るなら」と自分を納得させてきた。少しの痛みと引き換えに、彼女が笑ってくれるならいいと、どこかで思っていた。


 だが今日は、その先に続く言葉が違っていた。


「アンタさ、自分が偉いと思ってんでしょ? 金出してやってる側だからってさ」


「そんなこと……」


「思ってんじゃん。顔に出てんだよ。どうせ心の中では『こいつクズだ』とか思ってんでしょ。ニートのくせにとか」


 図星を突かれたわけではない。そこまで明確に言葉にしたことはなかった。でも、自分のどこかがぎくりと動くのを渉は感じた。


「思ってない。ただ──」


「ごちゃごちゃうるさい!」


 クッションが飛んできて、書類の上に落ちる。テーブルの上のペン立てが倒れ、ペンが床に転がった。


「五万出せって言ってんの! なんでそんな簡単なこともできないの、アンタ!」


「……できないから、今こうやって話を──」


「話すことなんかない!」


 真奈美は渉の肩を両手でぐい、と押した。椅子が後ろに滑り、渉の背中が壁にぶつかる。体勢を立て直す間もなく、二発目の平手が飛んできた。


 痛い。だが、痛みよりも先に、胃の底のほうで別の感情がふつふつと泡立ち始めているのを渉は感じていた。


 怖い。だけど、怖いだけじゃない。何かが限界まで押しつぶされて、そこからひび割れてくるような感覚。


「ねえ」


 真奈美が息を荒くしながら睨みつけてくる。


「アンタ、本当に、五万出せないの?」


 渉は目を逸らさなかった。声は震えているのに、自分でも驚くほどはっきり出た。


「……出せない」


「はあ?」


「出さない、じゃなくて。出せない。ここで出したら、多分、三か月後の家賃、払えない」


 一瞬、空気が固まった。


 その静止を破ったのは、笑い声だった。


「は、なにそれ。マジで?」


 乾いた笑い。真奈美は、心底バカにするような目つきで渉を見下ろした。


「アンタさ、マジで無能じゃん。あんだけ働いて貯めて、それをさ、こんな中途半端なとこで尽きさせるって。計画性ゼロ。ダサすぎ」


 言葉が一つひとつ、胸に突き刺さる。これまでだって散々言われてきた類いの罵倒だ。それでも、今日は妙に中身まで届いてくる。


「あーもうイライラする」


 真奈美は渉から手を離し、荒々しく髪をかき上げると、踵を返した。


「ちょっと待っ──」


 制止の声は届かない。彼女はずんずんとキッチンに向かう。足音と一緒に、渉の鼓動も早くなっていく。


 冷蔵庫の横の引き出しが開く音。金属がこすれる、短い音。


 振り返った真奈美の手には、銀色の包丁が握られていた。


「……ちょ、真奈美」


 喉の奥が乾いた音を立てる。


「なにビビってんの。刺さないって」


 くすりとも笑わない顔で言いながら、彼女は包丁を持った手をひょいと持ち上げ、刃先を渉の胸元に向けた。ほんの数十センチの距離。


「でもさー」


 包丁の先が、軽くシャツの布に触れる。冷たい感覚が皮膚のすぐ上をなぞる。


「これくらいしないと、アンタまた適当なこと言って誤魔化すでしょ? 五万くらい出しなよ。出さないと、ちょっと刺すよ?」


 冗談みたいな声色だった。だが、渉の体の中を走り抜けた感覚は、今までの「冗談」の延長線にはなかった。


 背骨の内側から、ぞわ、と冷たいものが這い上がってくる。皮膚の上ではなく、もっと奥。骨と内臓の間に、氷を差し込まれたみたいな寒気。


 ──あ、これ、本当に死ぬかもしれない。


 頭のどこかが、淡々とそう判断した。


 これまでの「加虐」は、渉にとってどこか「遊び」の枠に入っていた。痛みはあっても、境界線は見えていた。殴られても、蹴られても、どこかで「ここまでは大丈夫」がわかっていた。だから、その中で自分の弱さや歪んだ喜びを、言い訳できていた。


 でも今、目の前にあるものは違う。刃物を前にした瞬間、その言い訳が全部吹き飛んだ。


 なんでだろう、と渉は思った。


 なんで俺は、こんな女のために貯金を減らして。なんで俺の生活が苦しくなって。なんで、あまつさえ命まで奪われそうになってるんだ。


 その問いが胸の中で膨らむにつれ、怖さとは別の温度のものがじわじわと広がっていく。怒り、と呼ぶしかないもの。


 渉はゆっくり、手を伸ばした。


「ちょっと、なに?」


 真奈美が眉をひそめる。渉の指が、包丁を握る彼女の手首をぎゅっと掴んだ。


「離しなよ。危ないって」


「危ないのは、お前だよ」


 自分の口から出た声に、渉自身が驚いた。低く、乾いていた。


「は?」


 真奈美が目を見開く。その瞬間、渉は包丁の向きをそっと押さえ、刃先を自分から遠ざける。手首を握る力を強めた。


「痛っ……なに、ちょっと、離せって!」


 彼女が腕を振りほどこうとするが、渉は離さない。全身の力を、掌一点に集中させる。


「五万は出さない」


「は...はあ!? なに急にイキってんの、キモ」


 罵声が飛ぶ。真奈美のもう片方の手が、渉の腕を爪で引っかく。鋭い痛みが走るが、それでも握力は緩まない。


「アンタさ、調子乗んないでよ。普段ヘラヘラしてさ、急に男ぶるとかマジ無理なんだけど」


 怒鳴りながら、彼女は腕を振る。けれど、包丁を握る側の手首は渉に押さえられている。動きの主導権が、完全に入れ替わった。


 その事実を理解した瞬間、真奈美の顔に、ほんの一瞬だけ怯えの色がよぎる。それを見て、渉の中の何かが、決定的に反転した。


 渉はゆっくりと立ち上がった。握る手にさらに力を込める。骨と筋肉の感触が、指先に生々しく伝わる。


「痛っ、ちょ、マジで痛いって! 離せって言ってんだろ!」


 包丁がカラン、と床に落ちた。銀色の刃が転がり、冷たい音を残して止まる。


「ふざけんなよ!」


 掴まれていない方の手で、真奈美は渉の腕を叩き、拳で肩を殴る。髪を掴もうとする。罵詈雑言が、息継ぎもなく飛び出してくる。


「クズ! サイコ! DV! 通報するからな! アンタなんか終わりだから!」


 渉はふと、彼女の口元を見た。そこから出てくる言葉は、自分に向けられているはずなのに、どこかで空回りしているように聞こえた。


 この口が、今までどれだけ自分を切り刻んできたのかを、急に冷静に数え始める自分がいた。


 気がつくと、渉の左手は彼女の顎を掴んでいた。口を覆い隠すように、指を押し当てる。


「んぐっ……!」


 くぐもった声。驚いた目が渉を見上げる。


 渉はそのまま、足を払い、床に押し倒した。体重を乗せて、彼女の腹にまたがる。膝で腕を押さえ、片手で首元を掴み、体勢を起こせないようにする。


「っ……! っ……!」


 何か言おうとするたびに、喉の奥で音がつかえる。目には怒りと恐怖とが混ざり合っている。


「黙れ」


 渉は短く言い、彼女の頬を平手で叩いた。


 乾いた音が、さっきまでとは逆の方向に響く。


「……っ!」


 目に涙が浮かぶ。だが、真奈美はすぐにまた何か言おうと口を開く。


「……っ、は、な、せ──」


 再び、平手。頬が赤く染まる。


 時間の感覚が、そこからおかしくなっていった。


 真奈美が何か言おうとするたび、その言葉が罵倒であろうと懇願であろうと、渉は同じ動作で遮った。頬を叩き、叩き、叩く。


 「水……」と絞り出した声にも、渉は答えなかった。ただ「黙れ」と繰り返し、そのたびに手のひらで音を作った。


 テレビはとっくに自動で電源が落ち、窓の外の街灯が部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。デジタル時計の数字だけが、無関係に時間の経過を告げていた。


 どれくらい経ったのか、渉にも分からなかった。


 ただ、真奈美の抵抗が、少しずつ弱まっていくのは分かった。最初は爪を立ててきた手が、やがて力なくぶら下がるようになり、声もかすれていく。


 最後には、渉が何もしなくても、彼女はただ天井を見つめていた。何かを考えているような、何も考えていないような目。


 その目のまま、まばたきの間隔が伸びていき、やがてゆっくりと閉じた。


 規則的な寝息が、かすかに聞こえ始める。


 渉はしばらく、動かなかった。自分の両手がかすかに震えているのを、上から眺めているような気分だった。


 やがて、そっと彼女の腹から身体をずらし、立ち上がる。


 床に落ちた包丁を拾い、シンク下の戸棚のいちばん奥に静かに押し込む。刃をこちらに向けないように、やけに注意深く。


 リビングに戻ると、ソファのそばで眠りこけている真奈美を見下ろした。乱れた髪、赤く腫れた頬、半開きの口から漏れる寝息。


 この三か月間、日常の中心にあった光景の、一つの変形に過ぎないはずなのに、まるで別人のように見えた。


 渉は深く息を吸い込む。肺が、久しぶりに隅々まで空気で満ちた気がした。


 クローゼットからスーツケースを引っ張り出す。最低限の服と、会社関係の書類、ノートパソコン、通帳、印鑑。必要だと判断したものだけを、淡々と詰めていく。


 音を立てないように、けれど迷いはしないように。


 財布の中のカードを確認し、玄関の鍵を手に取る。靴を履きながら、ふと部屋のほうを振り返った。


 真奈美は、やはり眠っている。呼吸は穏やかだ。生きている。


 渉は、胸の奥に浮かびかけた何かを振り払うように、視線を切った。


 諸々のこと──家賃の契約のことや、荷物の残りや、彼女にどう説明するか──は、後で考えよう。そんな余裕のある「後」が、とりあえず自分にはまだ残っている。


 今はただ、この空間から出ることだけを考えればいい。


 静かにドアを開ける。外の廊下の空気は、部屋の中より少し冷たくて、少しだけ澄んでいるように感じた。


 鍵を閉めるカチリという音が、やけに大きく響く。


 渉はスーツケースの取っ手を握り直し、階段を下りていった。


 ◇


 昼過ぎ、真奈美は喉の渇きで目を覚ました。頭が重く、頬がひりつく。上体を起こすだけで首筋と肩がじんと重く痛み、思わず息を呑む。ソファから身を起こしながら、なんとなく部屋を見回す。


「……(わたる)?」


 名前を呼んだだけで、腫れた頬が突っ張って痛む。呼んでも返事はない。寝室、キッチン、玄関。どこにも渉はいない。クローゼットを開けると、スーツやシャツがいくつか消えている。靴も減っていた。鍵も見当たらない。


 冷蔵庫の中身は心許なく、洗濯機の前で立ち尽くす。自分ひとりでこの部屋を回すイメージが、どうしても湧かない。財布の中身を数えて、ため息をひとつ落とす。


「……マジ。置いてったんだ」


 ソファに戻って天井を見上げる。仰向けになると、掴まれた腕と頬がじわじわと痛みを主張してきて、悔しさと情けなさが一度に押し寄せてきて、誰にも向けられない苛立ちだけが胸に残る。


「バカじゃん、あたし」


 そう吐き捨てると、腫れた頬の内側がきしんだ。真奈美はスマホを握りしめたまま動けなくなる。これからどうするのか、考えなきゃいけないことは山ほどあるのに、お誂えの女王には何ひとつ決められない。


 昼下がりの静かな時間だけがだらだらと過ぎていった。

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