京洛御伽草子(きょうらくおとぎそうし)水無瀬の離宮に、傘ほどのもの光りて夜な夜な飛び来たることありけり
時代描写として各種、差別的な表現が含まれますがご了承ください。またやや、品のない表現箇所があります。
1
「敵討ちにございまする!」
甲高い声が房いっぱいに響いたものだ。
「さよう、敵討ちをしなくてはなりません。」
「敵討ちをしたいのです。」
「敵討ちを願います。」
「敵討ちをします。」
「敵討ちです!」
多少の高低の差はあれど、同じような声で、同じような一声を放つのは、多少の年齢差は認められるが、六つの殆ど同じ顔である。同席を求められて迎えたこの客人たちに、麻生はもう笑い転げたい気持ちでいっぱいだ。
「・・敵討ちとは物騒なことを言う。」
無表情が標準装備の鶴郎女ですら、頬がぴくぴくと震えている。それもまた麻生の笑いを誘うのだが、噴き出そうものなら、後が怖すぎる。腹筋にひたすら力を込めて、鬼市の守の側に相応しい神妙な顔を保たなくてはならない。結果、頭裡で百から逆に数を数えるのだが、
「だれに、どうして敵を討つなんてことになったんだね? あんたたちが。」
さすが年の功、鶴郎女の声はそれでも重々しい。
問われた客人たちはぴょんと身じろいだ。
「聞いてくださいまし。」
「さよう、聞いてくだされ。」
「聞いてほしいのです。」
「聞いてくださいまし。」
「聞いて下さる。」
「聞いてくだちゃい。」
噛んだ。
「我々はただ飛んでいただけなのです。」
「さよう、飛んでいただけでございます。」
「飛んでおりました。」
「飛んでいました。」
「飛びました。」
「飛ぶのでちた。」
輪唱のよう。郎女は扇を掌に打ち付けている。
「だと申すのに、人間は我らの大事な父者に対して非道を働いたのです!」
「さよう、人間は我らの大事な父者をに非道を働きました。」
「人間は我らの大事な父者にひ・・」
バシ、と文机を扇が打った。堪忍袋が切れたらしい。郎女は六人の客を厳しく睨みつけた。
「一人が説明しな。何度も繰り返さなきゃ心配なほどに、あたしが年喰っているってのかい!?」
こここそ、そうは見えないと六回繰り返すべきところだろうが、
「鬼市の守である鶴郎女さまは、父者がかたちもない頃からその名を馳せておいでと聞いています!」
尊敬します、ということなのだろうけれど、年を取っていることは肯定している。
事実と女心は結びつかない。にっこりと郎女が笑う気配に肌が泡立って、麻生は即座に結界を展開した。
ここが速度と精度が上がる一番の訓練となっているのは、どうしたものだろうかとため息混じりに。
ちょっとボロボロな感じ(髪とか服とか肌とか)になった六人が神妙な顔を並べている。
改めて六人の様子について述べると、まず黒に近い濃茶の髪はいずれも総髪で、揉み上げがふさふさとしているのが特徴的だ。顔立ちも体つきも型は同じだが、若い方に向かって少しずつ小さくなって、壮年の男にみえる一番上を外観にした入れ子人形みたいだ。ただ、上二人は昼でも人波に入れそうだが、真ん中は夕方からで、下二人は月のない夜、一番下は・・----ちらちらしているのは、たぶん尻尾だ。
今更だが、かれらは人間ではないが、
「それで、」
相対している鶴郎女と麻生にとって、それは全く問題ではない。先までの荒ぶった気配など微塵もない微笑みを、守は客に向けるが、それはそれで迫力満点だ。
「むささびの。」
「はいっ。」
彼らはあからさまに緊張し、ぴょんと飛び上がった。六番目の尻尾は縮みあがり、その上も座りが悪くなったようでもぞもぞとしている。
「守、怖がっています。」
口を挟む気はなかったが、話が進まない。
彼らは年月を経て変化した当人ではなく、眷属にすぎない。つまり、守とこうして相対するだけで消耗するのだろう。
「誰でも初めての場所で知らぬ相手は緊張するでしょう?」
壮年の外見でも、二十代半ばの外見になった麻生より、ずっと年下だ。一番の外見詐欺は郎女だが、ここは外見を取り沙汰すところではない。
「子どもですよ? ご容赦を?」
格下の相手を、招き入れた上に自ら話を聞いているということは、同類の誼なのか。
「・・ふん、言うようになったものだ。」
「おかげさまで。」
そっぽを向いた郎女に代わって、麻生は相方からお墨付きをもらっている人畜無害な笑みを開いた。
「何が起きたのか、順序だてて話してご覧? 鬼市が力になるかの判断はそれからだ。」
2
事件の場所は、院の離宮であった。
毎夜、夜空を丸い、まるで笠のような光が横切って飛んでいくのである。
当初は一つだけで、建物のいずれかの上でパ、と消えて終いだったから、夜回りの身分の低い武士が目撃してぎょっとはしても、特に被害も見受けられないから、はじめ上つ方への報告はあがらなかった。しかし、次々と数が増えだした。離宮の奥深くまで飛ぶものもあれば、途中の池や林のあたりで落ちるものもある。数が増えれば、当然目撃者も増える。噂が届いた院や女房、側仕えの貴族たちも夜更けに縁までお出ましになって「あなや!」と恐ろしく思われた様子だったので、何とか正体を暴こうとしたのだが、これがなかなかうまく運ばなかった。
何故ならば、飛んでくる時間も、方向も、全くの法則性がない。見つけても、それからでは、矢をつがえるのも狙いも射程も、どんな名手でもとてもとても間に合わない。
最初は面白がるところがないわけではなかったが、続けば、さまざまな憶測が流れる。それが宮廷と言うものだ。
何かの呪いではなかろうか。いや怨念に違いない。平家か木曽か、はたまた平泉か。見捨ててきた者たちには事欠かない。
至天の君たる院の座所に呪いが及ぶなど、やはりまったき即位をされなかったからではないか、と、本人もまわりも、事あるごとに引っ掛かる劣等感も刺激して、離宮の空気が日ごと重苦しくなっていった。
今夜こそは、と密かに闘志を燃やす男がいた。各建物の軒先や坪で待機する他の面々からは離れて、ただ一人、中の島(庭園の池に作られた小島)に陣取った。この男は武士であり、笛の名手でもある。彼はごろりと地面に横になると、夜空を見上げて光る物の飛来を待った。目は見開いているが、それよりも耳をよく澄ましていた。
果たして、男の耳はそれまでに幾度となく聞いた、光る物の飛んでくるときの音を捉えたのである。
しかしそこで起き上がって弓を構えては、やはり間に合わない。男は大の字になった姿勢で両手にそれぞれ握ったままにしていた弓と矢を、寝たまま持ち上げた。矢をつがえて、弓を引き絞り、ちょうど顔の上を通過した光るものに向けて放ったのである。矢が当たった手ごたえがあり、光るものはぎやっと凄まじい、断末魔の声を発した。そうして明度を落としながら失速し、池の中に落ちていった。大きな水音がして、その様を岸から見ていた武士たちから「落ちたぞ」と歓声が上がった。その後、松明を灯して池を探したところ、とてつもなく大きな、年老いたむささびの死骸が引き上げられたのだった。
「----父でございました。」
しくしくと、またはボロボロと泣くむささび一家の長男が言った。
「父はただむささびの本能で飛んでいただけでございます。何の悪さも、危害も与えていないというのに・・・あんまりでございましょう!?」
「何もしてない・・・って訳でもないだろ?」
頭痛を堪えるような仕草とともに郎女が言った。
「なんと!? 守どのはよもや人間の肩を持たれるのですか!?」
「じゃなくて。人間ってのは、薄を見てもあやかしに見ちまう臆病ないきものだからね。」
じろ、と一家を見渡した。
「確かにむささびは飛ぶものさ。鶴が舞うように。それを止めることはできやしないさ。」
「そうでございましょう!!」
「だがね? なんだって人間の貴人の住いの上を毎夜飛んだんだね?」
「あの場所は我が父が生まれ育ち、立派なむささびとなった森でございました! 人間どもがあとからやって来て、木を切り倒し家を建て始め・・・とうとうあのような大きな建物にしてしまったのです!」
水無瀬の来歴もそこそこ古いのだが、相手は経って変じたいきものであるから、その昔がいつなのか、人間の尺度では語れない。
「人間ってのは身勝手で鈍感なものさ。」
しみじみと郎女は言う。
「ただ数が多くて、一度びっくりすると執念深くて、二度と驚かぬまで何とかしようとするから面倒なんだよ。」
とりあえず、人に生まれついた麻生は肩を竦めた。
「腹立たしいが、こっちが大人になって、うまくあやしてやらないといけないのさ。」
だからこその鬼市である。
「狸の連中にもありがちだがね・・・吃驚するのをおもしろがったろ? わざわざ光って飛ぶ、なんて技を利かせてさ?」
「その射手を取り殺すのが望みか?」
麻生がずばりと切り込んだ。
「それはもちろん・・、」
と、前のめりになったが、たちまち、としゅんとうなだれた。
「むずかしい・・ことでこざいますね。」
「おまえたちが勝手にやるのなら止めはせんが。」
額を指で叩いた。
「あやかしの仕業だと感づかれれば、人間から討伐の依頼がされるだろうな?」
「お、お受けに?」
「鬼市の経営方針に合えば、人間からも古族からも依頼は受ける。」
絶望的な顔で、六人肩を寄せ合ってさめざめと泣いている。まるで夜の森の木の枝にいるような雰囲気だ。
「----遅くなった。」
声とともに、澄んだ水のような気配を纏った若者が、足音もなく入室し端座していた。
「…どこぞの水の主でいらっしゃいますでしょうか?」
涙の溜まった目をぱちぱちさせながら、清冽な容姿に見入った、むささび長男が思わずとばかりに言った。若者の空気は冷え冷えとしたが、のほほんとしたむささび顔もあって、
「それの相方だ。」
と、短く訂正に落とし込んだ。
大人になった!と目を瞠れば、文句があるのかと矛先が向きかけて慌てたのは一瞬。なぜなら、
「なあなあ?」
ここで、目を丸くして青年を見つめた末に、末のむささびが隣の兄をつついたのである。
「この人、みなせで見なかった?」
内緒話のつもりかもしれないが、丸聞こえである。
「おら、殆ど途中で落ちちまってあんまり建物までたべなかったけれど、いっかいだけうまく風にのれて、ずーっとおくの大きな建物の梁まで着いたことがあったろ? きれいな服のにんげんの女の人とやっぱりきれいな服の人間のおとこが何人もいて・・、」
青年の顔をしげしげと見て、首をひねっている。いや、この氷の気配を浴びて、よく見れると感心した。
「でも・・・ちょっとちがう、かな。顔もからだももう少し肉があって・・うん! おらたちくらいに違う!」
そして、すっきり、という感じで締めくくった。
「あ~・・きっと見間違いじゃないかな?」
蟻の一穴を埋めることに走るなよと念を送りつつ、麻生はとりなすことを選んだ。
「おら目はいいっす。夜目はとくにばっちりっす。」
「うん、だろうけど・・えー、と・・あんたたちとは違って、こいつのは・・他人の空似ということだ。」
「さ、さようでございましょうとも!! 」
「さようですとも!」
少しは空気が読める上の二人がぶるぶると震えながら真っ青な顔なのに、
「めっ、」
「め、だぞ!」
と、とても可愛らしく弟を叱るものだから、----混沌である。そしてこんなのは珍しくもないと、分かってきたから、よくも長年仕切ってきたものだと、真顔を崩さぬ「鬼市の山姥」こと鶴郎女に、この点では偉大だと感じた麻生である。
「・・・仲の良いご家族だ。」
若者は声の温度を戻し、むささびたちに微笑んでみせた。
「わたしも自分の身内がひどいめに遭うようなことがあれば決してあいてを許さぬ。」
顔に誤魔化されて、そのとおりと一家は頷いているが、麻生には恫喝に聞こえる。
「その通り。」
同感であるはずの郎女の合いの手にぎょっした。
「仲のいい、かわいそうなむささびを見捨てるなんてとてもできないねぇ。」
善意を押し出した、芝居がかった調子で言を継ぎ、澄ました顔をしている。
「・・・諮ったな?」
呼びつけられた理由を悟った。むささびにほのぼのしている場合ではなかった。僅かに覚えた尊敬のようなものはもちろん霧散して、いつも通りに殺意に近いものがひたひたと胸に満ちる。
「人聞きが悪いことを言うんじゃないよ? あんたたちが断るのなら、別のものをあてがわなきゃいけないけどねぇ?」
そも実入りも期待できない依頼である。もう幹部といっていい立場の二人ではなく、かつての彼らのごとき駆け出しが下げ渡される案件だ。
それをわざわざ二人に振ってきた。悪意でしかない。
まだまだ、この二人はさもない仕事に駆り出せる程度、顎で使える下郎にすぎないと----圧をかけ、面目を欠くよう仕向けたいのだ。
「その誰かに、無邪気なむささびが水無瀬の尊き人の顔の話をしちまうかもしれないけど、まあ、世間話に戸は立てられないさ。」
「・・・なるほど!」
ここで膝を叩いて、いかにも楽し気に笑うのが、麻生という男の役割だ。
「白鶴さまは、おれたちの思いもよらぬことを提案してくださる。」
|麻生は笑う。朗らかな声を張って、剣呑な空気の中を外へと払う。
いつかは----決定的な決裂がくる・・が、まだ時ではない。少なくとも、こんななし崩しの、やすい挑発にのるかたちはあり得ない。----それも分かっていての嫌がらせだから腹立たしさはさらに募るが。
「最近はどうにも神経すりつぶすような案件ばかりで、いやまさに心機一転と」
「お前にすり潰すような神経があるのか?」
それは不思議そうに若者が口をはさんだ。う、とわざとらしく胸を押さえた。
「潰された。」
「・・阿呆か。」
眉を寄せた若者に、
「息抜きさせてくださるってことだろ?」
なお、へらりと笑って、水を向けた。
「遊山にでも出るような物言いは不謹慎だ。」
相方の不躾を渋面をもってたしなめた若者は、むささびらに向き直り、きちりと礼を取った。
「お悔やみを申し上げる。後先になったこともお詫びする。まことに失礼した。」
彼らなりに不穏は感じ取って、もはや半数以上で隠れていないピンピンピンと立っていた尻尾が、有難いなのかもったいないのか、ブンブンブンと振られた。清冽な美貌で畏まられると、もはや押し出しが半端なく。
「むささびの。」
そこへ、にこりと微笑まれてはもういちころだ。
忌々しいとばかりの舌打ちは勿論聞き流し、ここまでのやりとりを煙に巻く力技である。
「その仇討ちの助力、私と彼がよろこんでお受けしたいが、宜しいだろうか?」
3
「⋯どの、」
渡殿で呼び止められたその貴族は、坪に立つ年上の武士と見下ろす形で向き合った。いや、貴族と見える彼の身分もまた武士であるのだが、弓を背負い太刀を佩き警邏の最中の男とは一線を画す典雅な雰囲気だ。
「こたびはお手柄でございました。」
「なんの、」
面映ゆそうに頬をかいたが、
「あなたのご助言あってのこと、」
と畏まった。
年齢は男がずっと上だが、官位は青年が高い。しかし、かたや笛の名手、かたや和歌を能くするということで趣味人としての交流があった。
「わたしの助言などあなたの技量がなければ生かせません。」
青年は穏やかに微笑む。
「いや、まことに策士であられる。目で追えぬのなら耳で追えばいい・・・とは凡人では気づかぬ。」
院から直々のお褒めの言葉をかけられ、少なくない褒賞をも受け取った男は上機嫌であった。
「今度ぜひ酒宴にお招きさせてくだされ!」
「あなたの笛を聞かせていただけれのならば。」
「勿論ですとも。」
笑顔で一礼し去っていく。少し離れた位置にいた同輩たちが好奇心のまま尋ねてきた。
「あなたが助言していたのか?」
「助言というほどのことではありませんよ。例の飛来物の対応時にちょうど居合わせて、とても目で追えたものではないというので、ならば聞けば良いのでは、と言っただけです。景賢どのの腕と胆力の為せるものでしょう。」
「確かに、暗がりの中、独り中島で待ち構えるなど恐ろしいばかりだ。」
「まるで頼政公の鵺退治のようで、」
「院はいたく感動されて、毎日退治の様子を語らせておいでとか。」
語りながら移動していく同輩の背を追いながら、
「・・・こわいものの気配ではなかったので、」
と、青年はポツリと呟いた。
「少し驚かせればもう近寄るまいと思ったのに、彼の耳の正確さと、弓の技は想定以上であったことよ。」
骸で見つかった年経ったむささびを思い、かわいそうなことをしたと目を伏せた。
「ひとを喰うようなものの気配はもっとひんやりとして昏くまとわりつくものだから、悪いものではなかったろうに。」
4
男は酒席の帰りだった。
良い酒が出て、男の話に皆が賞賛と感嘆を惜しみなく送ってくれた。
中天に届こうという居待ちの月の下、小者が掲げる灯明に足元を照らされて、家路を辿る男はいい気分であった。
近道を選んだ松林の中であったから、月明かりと灯明があっても、ごつごつと隆起した根に躓くこと既に数回、度に舌打ちをしてもすぐに気持ちが上昇するくらいに。
「酒も肴も十分であったが、」
さらに回ってきた酔いにまかせて男は呟く。
「浮かれ女を呼び寄せて、主賓にはどうぞお泊りくださいと申すくらいの器量が欲しいのぉ。」
そう思ってしまえば、このまま家に帰るのは何ともつまらぬ気がしてくる。妻は京の本宅だから、一晩戻らずとも気を揉む者もいない。
遊女宿への道順を思い浮かべていると、あ、と小者が焦った声を上げた。
「いかがした?」
「だんなさま、落とし物をしてしまったようで、」
と腰のあたりを触る。
「お願いします。どうか少しだけお待ちいただけませんか?」
まだ上機嫌は続いていたから、とても悲しげな様子に男は鷹揚に頷いた。
灯明を残していこうとするのにも、
「明かりがなくてはさがせまい。」
と心遣いをしてやり、駆け足で遠ざかっていく光の輪を見送った。中天から差す光は白くあたりを照らすが、枝葉に遮られた林の奥は黒々として、何とも心もとない気持ちにさせられる。ぶる、と体を震わせた男は、やにわに尿意をもよおして、近くの太い松の陰にまわった。
ややして袴を整えながら小道に戻ってきた男は、彼の進行方向から、ゆらゆらとこちらに近づいてくる灯りを見た。
こんな夜更けに何者だろう、と自分は棚に上げて訝しく思う。
それは、小柄な----いや丸々とした童子に先導された女であった。
なんと怪しい。
怪し過ぎる、と太刀の柄に手をかけて近づいてくる女と光の輪を睨みつけた----はずだったが、いつの間にか手はだらりと落ち、また良い酔いが戻ってきた心地でぼんやりと女を見ていた。
貴族の女ではないだろうが、被衣と小袖は品の良いもので、とても良い香が鼻孔を満たす。被衣の下に微かに見える口元が婀娜っぽく、ちらと見えた指は白魚のようだ(と男は思った)。
浮かれ女が----いや、姿勢が良いからもしかすると白拍子かも知れない----招かれた先から帰る途中に違いない。ふつうの女が真夜中に童一人を供に人気のない松原を歩こうか。
決めつけると、さきの気持ちが込み上げてきて、男は通り過ぎようとした女の袖を横合いから掴んだのである。
女は足を止め、小首を傾けるようにして男を見返った。深く被衣しているため、やはり口元しか見えないが、若いといっていい年のころだと踏んだ。
紅を乗せた唇が笑みのかたちを作った。やはり心得ている女だ、と男の口元も緩む。掴まれている袖に目をやるそぶりから手を放せば、逆に男の手首を白い指が捕らえた。白さと裏腹に温かくて弾力がある。
男がさきほど小用を済ませた太い松の陰へと腕を引かれる。逆側の方がいいなと、ちらと思うが、そんなことは女は知るよしもないから、しかたがない。童子は心得た顔でその場を動かないから、灯明の光を背に、松林の暗がりへと踏み込んだ。
肉感的な女だと腕を引かれながら思う。若いころは細い体が好ましいと思ったが、今はどちらかというと太りじしにそそられる。ただ、その後ろ姿が少し歪なのは被衣の下で荷を担いでいるのだろうか。
灯明がすっかり見えなくなって、月の光が木の葉を透かして微かに届くところにて振り向いた女と、待ってましたとばかりに男は距離を詰める。
「今夜は待つということがおできにならないのですね?」
女が、笑い含みの声で言った。
この場にはまったく不似合いで、唐突な言葉に、なに、と見下ろせば、綾目も見えぬ闇の中で、女の口元だけが妙に白く、赤く見えた。
男は後ずさろうとしたが、女に握られた両腕も、摺り寄せるように寄せた両の足も、悪い夢の中のごとく、まるで動かすことができない。
赤い唇、どす黒い舌がぺちゃりと音を立てて出入りした。
鬼女という言葉が脳裏にちらつく。四肢を解放しようともがくが、重しを括りつけられたようにますます動けなくなるばかり。
大きく笑うかたちで開いた口がゆっくりと近づいて、む、とする生臭い匂いが鼻につく。喰いつくか、喉元を噛み切られてはたまらぬと、頭をうしろにのけぞらすが、体がついてこなければ限度がある。
喰われるか、という恐れが込み上げるが、武士たるもの、これもまた名をあげる機会だと自分を奮い立たせ、
「ええい! このあやかしめ!! わしを喰おうなど、百年はやいわ!」
と、啖呵を切ると逆に、ぐいと頭を前に振った。
鈍い音とともに男の頭突きが決まる。渾身のそれであったから男自身も目を瞬かせて脳の振動を堪えるが、それでも女がぐらと身を揺らすのを逃さず、思い切り女の体を振り払った。
果たして、女の体は後ろに突き飛ばされた。脳震とうを起こしかけている男の視界も半分以上欠けているが、衣がはらり、と落ちるのは見えた。そして、女の体がこまごまと千切れて、どさりどさりと地に落ちるのを見た。
何事が、と痙攣する瞼を必死に保って目を凝らした。
頭部がごろりごろり。
左腕左足がごろごろ。
右腕右足は二、三度跳ねて。
胴体は独楽のように回って。
生き物の肉というものは体から切り離されたとしても暫くは動いているものだと、武士である男は経験として知っている。
だが、断じてこんな動きはしないし、ケタケタ、ゲラゲラ、クスクス。口もないのに、それぞれが笑っているような音を立てている。風もないのにざわざわと揺れる木と相まって、まるで地獄の口が開いたような、得体のしれない空間が男を押し包んだ。
じりと我知らず後ずさった男を逃がすまいとばかりに、肉塊たちは青白く光を帯び、男に向かって、わっと飛んできたのだ。どの部位かは分からないが一つ目は跳び退る。二つ目はよけた。三つめはしりもちをついて避けた。四つ目は尻で下がって、五つ目と六つ目は地面に身を転がし躱した。べちゃべちゃと、泥が顔や頭、全身にまとわりつく感触があったが男は必死だった。
七つ目と思ったのは、松明の灯りだった。
「だんなさま!」
上から男を見下ろしたのは、驚愕に目を瞠った彼の小者だ。落とし物探しから戻ってきたのだ。
「具合が悪いのでございますか!? そのように地に体をこすりつけられて! どこかお苦しいのでしょうか!?」
小者に恐怖の色はなく、尋常ではない主人の様子にただ動転しているだけだ。呆然と小者を見上げていた男は、やがてのろのろと体を起こした。
静かな夜の中だった。
松の梢に区切られた居待ちの月が見降ろしているのは、烏帽子も落ちて、髷も歪み、衣服や顔を泥だらけにした男だ。
「わしは・・夢を見ておったのか?」
ぼんやりと呟いた男から独特の臭気を嗅いで小者がそっと眉を顰める。漏らしたのかと思ったのだが、それにしては全身が香ばしい。どうやらあちこちを汚している泥がそれまじりのようだと気づいたが、まさか当人の放ったものとまでは分からない。
「----お酒がすぎたのではございませんか?」
泥の中に転がっていた烏帽子を(汚れていないところを注意深く持って)拾い差し出した。夜道とはいえ、烏帽子なしはありえない。
「なにを、あれしきの酒で・・、いや、・・そうだな、・・、」
ぶつぶつと呟いて、顔を顰めながら烏帽子を付け直していた男は、
「だんなさま、このようなものが落ちていましたが、」
と、あたりを確認していた小者が持ってきたあの被衣に硬直し、目を剥いたまま、暫く動くことができなかった。
5
「----と、いう次第ですよ。」
ある男が酒宴の帰り、松原の道で狐狸のたぐいに化かされ、気が付いた時には自分の放ったものの中を転げまわっていた、という笑い話が披露された。因みに宿直の間の一時である。
「・・災難ですな。」
青年が伏せていた目を上げれば、すこし意地悪な人相が目に入った。
「たかがむささび一匹仕留めたくらいで、源頼政のような気取り方でしたでしょう? 酒に飲まれて醜態を晒すなど、院におつかえする武士として慢心の証ですよ。」
目立てば射たれる足をかけようとする----宮仕えとはそういうもので、青年も例外ではあり得ない。
「過ぎた酒はよくありませんね。」
とりあえず微笑めば、
「武勇伝の上書きですよ。」
いい気味だとばかりにくすくすと笑う。この者も、かの時、院の前で男を讃えていたのに。
「----しかし、だれもいない松林の中の出来事なのに、そんな詳細が伝わるとはどういうことでしょうか。不思議でなりません。」
他意がないように見える角度を計算して小首を傾げた。武人然とした風貌の兄なら威圧漂う反論が、青年の優しげな風貌に拠ると、穏やかな独り言にしか聞こえない。
「まさかご自分でふれまわったりはしないでしょうに。」
「そうなのですよ!」
言葉を拾ってやった同輩は、よく気づいたとばかりの勢いだ。
「従者がかけつけて、そうそうに逃げ帰ったそうなのですが、どうやら一部始終に居合わせた者があったようなのですよ。」
「・・闇夜に目あり藪に目ありと申しますから。」
「さようさよう! 悪事千里を走るとも!」
それは相応ではないと思ったが、また青年は微笑むだけで、軽く会釈するようにして手元の書に目を戻した。
「・・本当に、物静かであられることよ。」
兄君と違って。と、言外の含みを聞き流すことも、いつも通りだ。
そして離れていく気配で書に入っていく心が、今夜はなぜか手元にとどまったままだ。
今夜は月の見えぬ夜だ。こんな夜は未だ一人ではいられない。いや、誰かといたい訳ではないのだ。人の騒めきとか些細な物音とか、確かに人の領域に居るのだと常に確かめていたい----だから宿直は青年にとって絶好の場なのだ。
兄によく宿直を押し付けられていると周囲は思っているし、兄もそう思わせたいのだろうが、それが兄の憐憫、あるいは罪悪感だと青年は知っている。
----青年の家族が周囲を誤魔化すように。
男が自らの口を開いたとは思えぬし、主家を貶めたいような郎党の扱いをするひとではないと思う。悪さもしない怪光に怯える宮の住人たちが、宴の松原でなくとも、真夜中の松原に出かけていけるとは思えない(そこを通っただけ男はやはり剛毅な人物だ)。
噂を嬉々と広めて男の面目が潰れてほくそ笑んでいるのは宮廷人たちだが、噂にしたのは何者か。
ざわりと坪の木が揺れる音に青年はびくりと肩を窄ませるが、がやがやと同輩たちが交わす声や、女房らの声が甲高い声に上書きされて、ゆっくり息を吐きだした。
ここは森ではなく、人の領域だと確信していられる。
----そこに。
「院がお召でございます。」
お側仕えの女房からの言伝があって、青年は立ち上がった。
今夜はいずれの女性のもとにもお渡りにならず、歌を詠んで過ごしたいというお申し付けのようだ。
手燭をもった女房に先導され、数歩、縁を進んだところで、青年は一度足を止め、人の領域たる明々とした灯りを背に、暗々たる闇の領域と向き合った。灯りの届かぬ奥の奥を、目を細めるように見る。
「どう、なさいましたか?」
青年の足が止まったことに気づいた女房が問う。
「何か・・おりますか?」
「ああ、遠くの梢にむささびが止まっている。」
「まあ! むささびでございますか!?」
件の怪異が思い出されたのであろう、手燭が大きく震えた。
「あんなのじゃない・・・小さなむささびだよ。光ってもいない。」
「・・まあ。」
女房も目を凝らすようにしたが、首を横に振った。
「目がよろしくていらっしゃいますのね。」
「そうだね。」
微笑んだ青年は、
「・・・まさかね、」
はっとしたように首を振り上げた。
「何か?」
「いや、・・あの大むささびだけどね。あんなに立派に年経ったものだったから、きっと一族郎党もいたんじゃないだろうかと思ったんだよ。」
面白いことを、と女房は表情を緩ませた。
「あのむささびが当主なら、小さなむささびたちは、かの曽我の兄弟のように仇討ちをねらっている、のでしょうか?」
なんて…と、ふと思いついた、ただの軽口であった。
「・・・むささびの敵討ち?」
目を瞠れば、御伽草子のようなことを口にしたと、年若い女房は呆れられたと思ったようで、真っ赤になった。
「いやですわ、つい、おかしなことを。」
取り繕って、つん、として、院をお待たせできませんと手燭を掲げる。いざないに抗わず歩みを再開した青年は、さざ、と枝が少し大きく揺れた音にも、何かが飛んだような風の気配にも、気づかぬ表情で行く。心中で問答を重ねながら。
「曽我兄弟になぞらえば、」
それは少し前に世敵討ちを仕掛け、世に名を轟かせた東国の兄弟だ。
「工藤祐経を」
大むささびを射落とした男を。
「富士野の巻狩りを機にして」
真夜中の松原で待ち構えて。
「兄弟は見事、父親の敵を討ち取った。」
失われたのは面目で。
「敵は討ったが、敵討ちを果たした曾我の兄は討ち死に、弟は死を賜った。」
青年は額を指でぐ、と押した。所詮は勝手な連想、あるいは妄想に過ぎないのだが、本当に「敵討ち」だとしたら、絶妙な匙加減ではないか。
もし男が死体で見つかったのなら、加害者がなんであれ、院の面子にかけて手を尽くされなくてはならない。
曽我の一件も彼らを正しく鎌倉殿の旅館まで導き入れた黒幕がだれかであるかと京でも取り沙汰されていたが、こちらも、果たしてむささびの独断か。
埒もない荒唐無稽戯言と、己が思考をこき下ろすのに、・・どこかで、とても直感的に、確信しているのだった。
こちらにそっと入り込まれた気配に、背筋を冷たくしていることにも気づかぬ表情を張り付けて、青年は人の境界線だけ見据えて、その夜を歩いていった。
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後鳥羽院の御時、水無瀬殿に、夜な夜な傘ほどのもの光りて御堂に飛びいること侍りけり。西面、北面の者ども面々に「これを見あらはして高名せん」と心にかけて用心すれども、むなしくてのみ過ぎけるに、ある夜、もののふ一人、中嶋にて寝て待ちけるに、例の光物、山より池の上をとび行きけるに、起きんも心もとなくて、あふのきに寝ながら、よく引きて射たりければ、てごたへして池に落ち入るものあり。そののち、人々に告げて、火を灯して面々見ければ、ゆゆしくおほきなるむささびの、年ふり、毛なども禿げ、しぶとげなるにてぞ侍りける。(『宇治拾遺物語』「水瀬殿殿のむささびのこと」より)
古文は『宇治拾遺物語』「水瀬殿殿のむささびのこと」よりやや改稿。
お読みいただいてありがとうございました。
もふもふもが出てくる気楽な一作のつもりでしたが、鬼市の政争もインしてきてしまいました。
直近の前作(東の方~)よりはかなり後の時間軸で、黎と麻生の関係も深まって極まってきたところ、です。
黎も麻生も獲物(太刀も縄も式神も)を持ち出さない話になりましたが、他の「京洛御伽草子」シリーズ作ではバトルシーン(っぽいこと)もありますので、他作もよろしくお願いします。
後半で、つい書き込んでしまった今作では「青年」として出てくる彼は、作者がいま一番気になっている人です。優しい和歌を作る人だな、と今更ながらに注目しています。




