episode1-1「 」
周りの景色ははっきりと思い出せない。
ぼんやりと白く濁ったような感覚。どこか事務所のような殺風景な部屋。そこに置かれた椅子に私は座って声を上げて泣いていた。
「うわーーーん、ママぁ、ママぁーーーっ!!」
私は迷子になっていた。
確か家族で遊園地かどこかに来ていて両親とはぐれてしまったのだ。
「大丈夫だよ、真奈ちゃん。もうすぐパパとママが来るからね~」
ここのスタッフだろうか、中年の女性が優しく声を掛けるが全く耳に入らない。大好きなパパとママ。楽しい時間が一転、孤独と恐怖の時間へと変わっていく。
「うわーん、うわーーん!!」
「……泣くなよ」
そんな私の隣に座るひとりの男の子。顔は思い出せない。黒髪の男の子。前を向いたままじっと座っている。
「え、そうですか!? はい、すぐ行きます!」
不意に鳴った電話。女性スタッフが何かを言い残し、慌ただしく部屋を出る。残された私と男の子。その状況が更に私を不安にさせた。
「うわーーーん、やだよぉー、パパぁー、ママぁー」
私は泣いた。感情がコントロールできずにまるで自分が自分じゃないかのように泣きじゃくった。
「大丈夫だから」
(え?)
そんな私の頭を、隣にいた男の子が包み込むように抱きしめ言った。
「大丈夫だから泣くなよ。もうすぐ来るから」
「ひっく、うっ、ううっ、だってぇ……」
私の心は何か心地良い穴に落ちるように温かくなった。不安だった心が徐々に落ち着き、声を上げて泣くことはなくなった。誰かは知らない。だが私の体はまるで重力から解放されたかのように軽くなり、その抱擁に身を委ねた。
「真奈!? 真奈っ!!」
そんな私の耳に力強い声が響く。大好きなパパとママの声。私はその顔を見て再び目に涙を浮かべ走り寄る。
「パパぁ、ママぁ!!」
抱きしめられた。力強い抱擁に私の心は安堵に満ち始める。母親が言う。
「ごめんね、真奈。ごめんね。さ、行こうか」
「うん……」
私は思わず振り返った。
殺風景な部屋にひとり残された男の子を、私はじっと見つめた。
「……ぃろう君のパパとママも、もうすぐ迎えに来るからね」
中年の女性スタッフが言った言葉。聞き取れなかった男の子の名前。私は両親に手を引かれながら最後までその男の子を見つめていた。
高校入学を控えた春休み。この日はとても風の強い日だった。僕、神崎総士郎は買ったばかりの自転車を、気分良く軽快に漕いでいた。
(陰キャだけど自転車に乗れば速いぜ!!)
意味不明な言葉。だが春休み中ずっと家に籠りっきりだった僕にとっての久しぶりの外出。不思議と心が躍った。
郊外にあるショッピングセンターから自宅に戻る帰り道。僕は長い下り坂に差し掛かり、気合を入れペダルを踏み込む。
(気持ちいい~!!)
強い追い風。力強く漕いだ真新しい自転車の走りに酔い始めていた。
(え?)
そんな僕の自転車の横を何かが追い抜いていく。
(何? リボン??)
強い風に吹かれ何かは分からない。だが自慢の自転車が抜かれたことが僕の秘めたる闘争心に火が付いた。
(この『ジェットストーム・エクスプロージョン改』に勝てると思ったかぁああ!!!!)
咄嗟に付けた自転車の名前。ちなみに『改』とあるが、買ったばかりだし別に何も改造もしていない。だが僕は自転車を目いっぱい漕いだ。
(うおおおおおお!!! 負けるかぁあああああ!!!!)
後から思い出しても単純だったと思う。相手は風に舞ったただのリボン。そんなものを僕は夢中になって追いかけた。
「よしっ!!!」
そして風の勢いが衰え、ふわりと宙に舞ったリボンを僕はドヤ顔で掴んで叫んだ。
「やったぞーーーっ!!!」
不思議と恥ずかしさはなかった。勝利の美酒に酔うように僕の心は満たされた。だがすぐにささやかな後悔が僕を襲う。
(え!?)
下り坂を全力で漕いだ僕。リボンを掴んだまま自転車は急停止などできずにコントロールを失って派手に転倒する。
ドン!!!
(痛てええ!!!)
転んだ。こんな危ないことをすれば危険だと言うことは分かっていたはず。だけど何か別の力が働いたかのように僕は夢中になって自転車を漕いでしまった。
(うわぁぁ……)
僕の目に歪んでしまった自転車のかごが映る。買ったばかりの自転車がすでに酷い状態になってしまっている。怪我は擦り傷だけのようだったが、僕は強い後悔に苛まれながらよろよろと起き上がった。
「大丈夫ですか!!」
振り向いた僕。背後から声を掛けて来た少女を見て心臓が止まりそうになる。
(え? 可愛い。誰っ!?)
見知らぬ美少女。白のワンピース。はあはあと息を切らす彼女が、美しい黒髪を押さえながら言う。
「お怪我はないですか!?」
「あ、あ、うん……」
三次元の美少女。なぜ僕に声を掛ける? 混乱する僕にその美少女は言った。
「ありがとうございます。そのリボン、私のなんです」
「あ、あ。はい……」
僕は無意識に掴んだままの白いリボンを彼女に差し出した。彼女は笑顔でそれを受け取ると小さく頭を下げながら尋ねた。
「ありがとうございます。良かった、大切なリボンなんです。あ、それより本当にお怪我は……」
「だ、大丈夫だから!!」
僕は逃げるようにかごの歪んだ自転車に乗りその場を離れる。
悲しき陰キャの性。眩しいぐらいの三次元美少女の前に、僕は壊れてしまいそうな感覚に襲われた。