グエン・スーとレ・タイン
ミンマン帝の御代に、グエン・スーという若者が都フエに住んでいた。スーは大工の見習いで、都の建物や橋を建てる手伝いをしていたが、ある時盗みの疑いをかけられ、捕らえられそうになったので、都から逃げ出した。
都から出るのが初めてだったスーは、そのうち自分が追われる身であることも忘れ、珍しい植物や動物、道を歩く人々の格好を眺めるのに夢中になった。しかし、どこかの社(村落)に住み着こうと思っても、どの社も今一つスーに冷たかったり、スーの性格に合わなかったりした。
そこで、スーは山の中に入って見ることにした。
山には、いくつもの集落があり、厳しい自然の中でも生活しているという。なまじ人の多いところにいて、変ないざこざに巻き込まれるよりも気楽だとスーは思った。
ところが、山の中には虎や狼がいて、スーは何度も食べられそうになった。また、木の上から大蛇やヒルがぼとぼとと落ちてくることもしばしばだった。木になる果実はどれも固く、すっぱかった。
もう山を降りようかとスーが考えはじめたころ、一人の老人に出会った。
老人は、レ・タインと名乗り、自分が失われた王朝の血を継ぐ皇帝なのだと言った。何だかよく分からなかったけれど、気の良いスーは老人にひれ伏した。
気をよくしたレ・タインは、スーに山鳥の焼いた肉をごちそうしてくれた。
「わしは、もうずっと昔から一人で山の中に暮らしておる。今の皇帝の追っ手から逃れるためだ。いつか、民をまとめて今の都を攻め落とし、国を建て直すのが夢だ」
スーは老人に共感した。自分も追われる身だからだ。
「俺でよければ、お供するよ、じいさん」
そう言うと、タインは顔を真っ赤にして怒った。スーの言葉づかいが気にくわなかったのだ。スーは謝り、機嫌を直してもらった。
その日から、グエン・スーとレ・タインは一緒に行動するようになった。タインは山での生活が長いこともあり、実に多くのことを知っていた。スーに罠の仕掛け方や弓矢の扱い、薬草を見つけて薬を作ることを教えた。それから、スーはあまり興味がなかったが、儒学や歴史について話すのも好きだった。
ある日、山の中を二人で歩いていると、高原にある社の一団に出会った。彼らは手に手に武器を握りしめていた。
「人を食う虎が出るんだ。何人ももうやられちまった」
彼らはスーとタインにそう言って、山を降りるよう忠告した。
スーはタインに尋ねた。
「どうするんだい、じいさん。里に逃げるか?」
「馬鹿者。虎ごときを恐れて逃げ出すような軟弱な心持ちでは、皇帝はつとまらぬ」
追っ手を恐れて逃げ回るのはいいのか? とスーは思ったが、黙っていた。タインは弓矢やら刀やらを取り出した。
「戦うのだ。民を守らねばならぬ」
「民って」
スーは老人の無鉄砲さに呆れたが、まさか彼一人を虎と戦わせるわけにもいかないので、自分も武器を取った。
夜になり、スーは野原に捕まえたばかりの鳥の生肉を置き、茂みに隠れて待った。すると月が空の一番高いところに来るよりも前に、音もなく大きな虎が現れた。
虎は生肉の匂いをかぎ、がつがつと食べ始めた。スーとタインは弓を引き、虎を狙った。
タインが「今じゃ!」と叫び、矢が二本放たれた。虎の毛皮に矢は命中したが、虎は怒り狂って跳ね上がり、スーとタインに襲いかかった。
スーは刀で虎に応戦した。だが、虎の前足に刀がはじき飛ばされ、鋭いかぎ爪がスーの胸を切り裂いた。
倒れたスーを抱え、タインが森へ逃げ出した。大けがをしたスーは気が遠くなるのを感じながら、タインに言った。
「もう俺は駄目だ。じいさん、俺を置いて逃げろ」
「馬鹿なことを言うな。お前は死にはせん」
そして、川までくると、タインはスーを下ろして言った。
「あるべき姿に戻るのじゃ」
そしてタインがスーの胸の傷に触れると、そこからぱっくりと皮がさけ、スーはかわうそになっていた。
川の水面で自分の姿を見て、スーは驚いた。
「俺、かわうそになっちまったよ」
「大越の民はもともと皆かわうそや龍だったのじゃ」
そして、タインが川の水を自分にかけると、うろこのある立派な龍に変わった。
スーはぼやく。
「なんだか、じいさんだけかっこよすぎるなあ」
「皇帝だからな」
二人__いや、二頭の前に、人食い虎が現れた。かわうそはするりするりと虎の爪から逃れ、尻尾や足に噛みついた。そして虎が疲れはじめたころに、龍が真正面からとどめをさした。
かわうそになったスーと、龍になったタインは、死んだ虎の前で顔を見合わせ、笑った。
「この体、結構いいな。動きやすいし」
「そうだろう」
タインは満足げにうなずいた。
「ちなみに、元の人間に戻ることはできるのか?」
「分からぬ」
「じゃあ、いいや。このままで」
それから、かわうそと龍は旅を続けた。象と仲良くなったり、あちこちの盗賊をやっつけたりしていると、次第に二頭の評判は里に広がり、彼らのためにお供え物が届けられるようになった。龍とかわうそは仲良く、守り神として残りの命を過ごした。